人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

水平と垂直―「on your mark」PV試論

2014-07-26 14:15:33 | その他レヴュー
少し前ですが、CHAGE&ASKAのASKA逮捕の関係で、話題になったPV。
今年発売されるスタジオジブリのDVDに入る予定だったのに、ASKA逮捕の余波で入らなくなった…という。

いちおう、こちらから視聴することはできます。


1、繰り返しについて

主要登場人物はCHAGE&ASKAをモデルとしたと思しき二人の警官と、
翼の生えた少女。

一見して、同じ場面の繰り返しが何度かあること、
チェルノブイリ原発らしき場所があること、
新興宗教団体らしきものが描かれていることが分かります。

この繰り返しの部分の整合性についてあれこれ言われているらしく、
最後車が道を逸れて停車していることから、あの二人は死んだんだとか、
途中で車が落ちたときにもうみんな死んでてあとは夢なんだとか…
正直どうでもいいというか、アホなこと言うなあ…と思います。

PVなので、まずは歌詞や音楽との整合性を考えてみるべきところ。
歌詞や音程を参照すれば、(前奏)、1番、2番、サビの部分の繰り返し、という構成になっていることが分かります。
だからPVも、それと同じ構成になっていると考えると分かりやすい。
つまり、音程が繰り返される部分で画像も繰り返されてるんですね。

on your markは、(よーい、どん、の)「位置について」という意味だそうですが、
最後車が道を逸れて停まるのも、それが「位置について」だと解釈することができる。
つまり、そこから少女が飛び立つ…

歌詞はこちら


2、水平と垂直

さらに歌詞を見ると、落とす、見上げる(めがけて)、走る、という四つの動作が歌われていることが分かります。
落とす…「ほこりにまみれた服を払った」「落ちてゆくコイン」「振り落した言葉の夕立」
見上げる(めがけて)…「夢の斜面見上げて」「夢の心臓めがけて」(「夜明けを追い抜いてみたい」)
走る…(on your mark)「いつも走り出せば」

PVのほうも、基本的には3つか4つくらいの動きに還元できます。
トンネルのような場所を抜ける、見上げる、(落ちる)、走る、飛ぶ…
空間の構造も基本的には2種類。
円形の細長い空間(円筒状の建物)と、水平に広がる空間、ヴァリエーションとしての一本道。
これの組み合わせでPVは成り立っている。


3、生殖の隠喩

で、トンネル、飛行物体、原子力…これ、何かを連想しません?
そう、飛行物体に原子力って『重力の虹』だし、トンネルは出産を連想させます。
そう思ってみれば、最初に飛んでるヘリなのか飛行機なのかよく分からない小さい飛行物体、精子みたいじゃないですか??
トンネルのようなところを抜けて出てきた精子が男性器みたいな細長いビルディングを攻撃する…というのはなんだか変なのですが。
そういう意味では、生殖そのものの隠喩ではありません。
まあ、宮崎駿だしね(だから『風立ちぬ』は結構びっくりしたんだよ)。

おわり。





映画感想:ダンサー・イン・ザ・ダーク

2014-04-13 20:36:36 | その他レヴュー
これも、教え子が見ろと言って貸してくれたDVD。
見たのが随分前になるんですが、いちおう感想書いておきます。

主人公はチェコからきたセルマ。
遺伝的な病気のために失明することが分かっており、彼女の息子もまた同じ運命にあるため、息子を手術させるためのお金を貯めています。貧しいけれどもミュージカルが大好き。
何かと手助けしてくれる年上の友人のキャシー、ひそかに心を寄せるジェフ、親切な隣人のビル夫妻に囲まれて、セルマは何とか明るく日々を送っていました。
ある日隣人のビルがもうお金がないこと、家が差し押さえ寸前であるという秘密を打ち明けた代わりに、セルマは息子の手術のためにお金を貯めていることを打ち明けます。
やがてセルマの病気は進み、工場もクビになります。貯めたぶんのお金だけで、何とか手術してもらおう…ところが、お金はビルに盗まれてしまいます。取り戻そうと揉み合いになるうちに、誤って発砲し、ビルを殺してしまったセルマ。
それでも裁判でも二人の間の秘密を明らかにせず、死刑を言い渡されてしまいます。
友人たちが何とか彼女を救おうと、彼女が息子の手術費用を貯めていたことを突き止め、その費用で新しい弁護士を雇おうとしますが…彼女はあくまでも息子の手術費用と、受け入れません。
死刑への恐怖や看守との心の交流が描かれながら、セルマは絞首刑になります。

主人公のセルマを演じるビョークの演技と、隣人夫婦のダメっぷりがともかく素晴らしい。

途中、主人公の夢想が描かれるところで、ミュージカルのような場面が何度もあり、ミュージカルを見慣れない私は戸惑いました。
しかも、手ブレカメラに酔ってしまって気持ち悪くなり、何が何やら…
(手ブレカメラのせいだと分からなかったんだけど、教え子に教えてもらった。いやもう、ほんと気持ち悪くなったんだから。私、電車のなかでも絶対本読むと酔っちゃうの、あんまり三半規管強くないのね)。

主人公がずっと練習してるミュージカルが、『サウンドオブミュージック』だというのも、見終わってから気づきました。

『サウンドオブミュージック』は、オーストリアからスイスに逃げ、米国に渡った一家の話ですね。
あの一家は、アメリカで大成功します。
一方でセルマは、アメリカで散々な目にあって絞首刑になるわけですが…ともかく息子の手術だけは成功しました。

最初、セルマが演じていたのは主人公のマリアなのですが、
病気が進み、主人公を演じることが無理だと感じたセルマは、主人公をおりることを監督に告げます。
で、代わりに与えられたのが主人公一家を逃がす尼僧の役。

でもセルマは、映画のなかで最後まで主人公なんですよね。
尼僧の役割なのが、監獄で親しくなった看守の女性。
看守の女性は、『サウンドオブミュージック』とは異なり、主人公を逃がすことはしませんが、最期まで付き添い、処刑台までのみちのりを一緒に歩きます。

監獄から108歩。
ミュージカルの練習をする場面で、ほぼ完全に見えなくなったセルマは、舞台の決められた場所までどうやって出て行けばいいのか分かりません。
「何歩?」と尋ねる彼女に、友人のキャシーが歩数を数えて教えてくれます。
自分の足で歩くこと、道を辿ることが、重要な意味を持つようです。

映画感想:Life Is Beautiful

2014-01-26 15:47:19 | その他レヴュー
こんにちは。
最近、個別指導の教え子が映画のDVDを持ってきて見ろと言います。
今も二本借りてる状態。
この前家に犬が11匹もいる…と言ったら、そりゃあ大変だと言って、DVD見るのいつでもいいよと言ってくれました。
ちょっとほっとした。

『Life Is Beautiful』は最初に貸してくれたもので、
ちょっと時間経ったけど、せっかく見たので感想書きます。

有名なものなので、同じようなことを言っている人がいるかもしれませんが。


*****

(あらすじ)
ユダヤ系イタリア人のグイドが主人公。
本屋を開くためにイタリアのとある街にやってきたグイドは、小学校教師のドーラと恋に落ち、駆け落ちのようにして結婚する。
数年後。息子のジョズエをもうけ、ドーラの母親にも結婚が受け入れられそうな様子。
ジョズエの誕生日、イタリアに進行してきたナチスドイツ軍に家族は強制収容所に送られてしまう。
グイドは収容所でジョズエに嘘をつく。
これはゲームであり、いくつかのルールを守れば点数をもらえる、違反すれば原点。
それが1000点貯まったら勝ちで、本物の戦車がやってきて、お家に帰れる。
開放直前にグイドは射殺されてしまうが、
グイドの言葉通り、イタリアに進行したアメリカ軍によって収容所は開放され、戦車が現れる。
戦車に乗せてもらったジョズエは、帰路ドーラと再会することができた。

私が指摘するまでもありませんが、
嘘をつく→嘘が真実となる
ことは、言葉とフィクションの力を象徴しているのでしょう。

強制収容所に入れられてすぐの場面で、ナチスの将校がドイツ語で収容所のルールを説明するわけですが、
ドイツ語の分かる人は…と訊かれて手を挙げたグイドは、
イタリア語で先に息子についた嘘、ゲームのルールを話します。
相手の言葉(ドイツ語)ではなく、自分の言葉(イタリア語)で物語を語ることを象徴しているように思います。
同様のエピソードは他にもあって、
収容所の医者がかつてイタリアでホテルの給仕をしていたときに親しかった人だったことから、
グイドはドイツ人たちの夕食会の給仕を命じられ、
ジョズエをドイツ人の子供たちに混ぜてもらうことに成功します。
一言も喋ってはいけない、と言われていたにもかかわらず、うっかり「グラッチェ」と言ってしまうジョズエ。
とっさにグイドはドイツ人の子供たち全員に、「グラッチェ」という言葉を教え、ことなきをえます。


この物語、ひとつのモチーフでいくつかの場面がつながってゆく構成になっているようです。

例えば、冒頭に出てきた卵
グイドが卵をもらう→(後にドーラの婚約者と分かる)知事?の頭上で卵が割れる→ドーラの婚約パーティーであり、グイドがドーラと駆け落ちする場面で、知事?の頭上に卵が落下

や、空から何かが降ってくる、
ドーラがグイドの上に落下→鍵が降ってくる→知事?の頭上に卵が落下

何かに隠れる
家でジョズエがシャワーを嫌がって隠れる→収容所でも隠れる→開放
など。


そのなかでも特に、移動のモチーフは一貫してあるように思いました。

グイドが街にやってくる。
→おじさんの車を借りてドーラを連れ出す(しかも運転できない)。
→おじさんの馬でドーラと駆け落ち
→自転車で移動
→列車で強制収容所に
→戦車で帰る。

しかも、借り物の乗り物で移動すること。
途中、強制収容所に連れてゆかれるとき、最初はグイドとジョズエだけだったのが、ドーラが私も連れていって下さい、と言って列車に乗せてもらうんですね。
これは、ドーラがグイドに馬で連れ出してもらったことに対応しているんだろうな、と。
ドーラはグイドに連れ出してもらったから、自分もグイドについて行く。
しかもグイドが駆け落ち場面でドーラを乗せて連れ出した馬は、よろしくない人たちにいたずらで「ユダヤ人の馬」とペイントされてしまった馬でした。
そして、最初のグイドが街にやってくることと、ドーラとジョズエの街への帰還は、対応してるんだと思います。

馬やいろんな役に立たないものを持っている、役に立たないものこそ役に立つんだ、という前時代的なおじさんもすてきでした。




空に舞い上がる魂―『風立ちぬ』の帽子、煙、飛行機

2013-08-30 10:03:32 | その他レヴュー
わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集)


 アニメ『風立ちぬ』の主人公、二郎はいつも帽子をかぶっている。白い服を着て、白い帽子を。
 風にあおられて帽子が舞い上がり、少女が手を伸ばす。帽子には二郎の夢がいっぱいに詰まっている。

 あらすじは主人公が飛行機を飛ばすまでを描く、ごく単純なもの。実在の技術者堀越二郎をモデルに、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の物語をからめた。
 主要な登場人物は、ヒロイン菜穂子、妹かよ、夢に出てくるイタリアの飛行機設計家・カプローニ、同期の本庄に上司の黒川、服部。休暇中に出会った、謎のドイツ人カストルプ(!)も登場場面は短いながら、重要な役回りだ。
 場面は少年時代、学生時代に起こった関東大震災とその二年後、就職した後の飛行機開発とドイツ留学、テスト飛行の失敗と休暇での菜穂子との恋、結婚生活、開発した飛行機の成功に、主に分けられる。エピローグ的に、敗戦後の焼け跡とゼロ戦の残骸、カプローニの夢と、夢に出てきて別れを告げる菜穂子(と白いパラソル)が描かれる。

 休暇から戻る汽車。汽車の煙は黒々と描かれ、デッキで佇む一人の乗客から、煙草の煙が上がる。その側で、二郎は座り込み、本に夢中になっている。二郎の帽子を、風が巻き上げ、隣のデッキで身を乗り出していた少女が手を伸ばし、つかむ。帽子をつかむためにデッキから落ちそうになった少女の身体を、二郎がつかまえる。

 物語は、風に舞い上がる帽子→パラソル→紙飛行機(→再び帽子)をつかまえる動きで構成される。それが二郎と菜穂子とのあいだでやりとりされ、最後に飛行機になって飛んでゆく。菜穂子は死に、飛んでいったものは再び戻ることがない。

 帽子のお礼を言った二郎に対し、ヴァレリーの詩を引用する少女。"Le vent se lève"(風立ちぬ) 返す二郎"il faut tenter de vivre"(いざ生きめやも)。
 ほどなく地震が起こり、汽車がとまる。

 ヴァレリーの風は魂の表象なのだろうし、空や煙、雲と関わってイメージの連鎖をかたちづくる。日本古典文学においても、煙は火葬の煙を象徴し、空が魂の立ち上る先であることは共通する。息は魂魄における魂。
(ちなみに冒頭に引用した和歌は、火葬の煙は関係ありません)
 だから煙草の煙は、人の思い(思ひ/火)の象徴であり、予め行われた喪の儀式であり、空に立ち上る魂を意味する。飛行機は、こちら側からあちら側の世界へと向けて、旅立つもの。

 関東大震災の場面は、地面の轟きや火災、逃げ惑う人々などがかなりはっきりと描かれる。密集する建物と群衆の動き。燃え広がる炎と、黒々とした煙。燃え上がる講堂や舞い落ちる火の粉から本を救おうとする描写は、図書館好きとしてはかなりツボだ。
 山積みの本の間から、ひらりと舞い上がる紙切れは、どうやらカプローニからの手紙らしい。

 飛行機が飛んだあとに起こったはずの戦争も、空襲も描かれず、エピローグ的な部分の後景としてしか描かれないのに比べ、震災はかなり特権的な位置を与えられる。たぶんこれがすべての炎の始発なのだろう。

 次に風で飛ばされる何かをつかまえる動きが描写されるのは、軽井沢での休暇中の場面だ。この場面で、震災時に出会った少女、菜穂子と再会する。
 丘の上で絵を描いていた菜穂子のパラソルが風に舞い上がり、下の道を通っていた二郎の目の前に飛んでくる。二郎は必死でそれをつかまえる。このパラソルは再会の場面、急に降りだした雨を凌ぐために使われる。
 作品中で雨が描かれるのもここだけであり、雨の後に出た虹も、唯一の描写だ。「虹のことなんか、忘れていたな」と二郎は言うが、虹は二度と思い出されることがない。再会の場面で、菜穂子は泉に満願のお礼を言い、涙ぐむ。だから雨は、菜穂子の涙を象徴するのだろう。
 水の描写は、これ以外では、関東大震災中に、菜穂子と、骨折したお絹(菜穂子に同行していた大人の女性。当初、二郎はお絹のほうに惹かれていたようにみえる)を背負って菜穂子の家に向かう途次、どこかの境内で休む主人公が、シャツに井戸水を含ませてお絹、菜穂子に与えた場面くらいしかない。これも同じく震災の場面で、井戸水の順番を待ち、顔を洗う二郎と(+水上タイプの飛行機の湖面or海面。夢に出てくるカプローニの飛行機は、水上タイプが多かったような)。燃え上がる炎を消す水は、あまりにも少ない。

 体調を悪化させた菜穂子の病室に向かって、二郎は紙飛行機を飛ばす。屋根に引っかかった紙飛行機を必死で取ろうとする二郎。二郎が足を滑らせ、菜穂子が窓を開け、気づいたとき、風が起こり、紙飛行機は飛ぶ。菜穂子は紙飛行機をつかむ。
 二人の間でやりとりされる紙飛行機。菜穂子の帽子が風に飛ばされ、二郎がつかまえる。ようやく、菜穂子の夢を受け止めた二郎。

 ここから、菜穂子との婚約と、結婚、結核の悪化によって立ち去る場面、飛行機が飛ぶ場面まではほとんど一足飛びの印象だ。 テスト飛行の場面、飛び立つ飛行機を眺める二郎は、喜びもなく、何か放心している。それがついに二郎のものではなくなったこと、向こうの世界に飛び立ってしまったことを知っているからだろう。冒頭の落下の夢に暗示されるように、二郎は飛ぶことができない。地を這うことしかできない。だから飛び立つ飛行機を自分のものにすることはできないし、菜穂子がついにあちら側に行ってしまったら、手に入れることができない。

 二郎は「美しい飛行機」をつくりたいという。けれども飛行機である以上、飛ばなければならない。飛んでいってしまうものは手に入れられない。だから本当は、飛ばない飛行機をつくらなければならなかったのだろう。

 物語の終わり、カプローニの登場する夢は、やや蛇足的な印象だ。空襲の煙とゼロ戦の残骸を背景にエンドロールでも良かったと思うのだが、一切無駄のないこの映画、カプローニの夢にも一応意味がある。冒頭で少年時代の二郎が、カプローニについて書かれた一冊の本を手渡されるから。一冊の本は夢になり、手紙となり、関東大震災の炎から救い出され、風にのって舞い上がる。その意味で『風立ちぬ』は、一冊の書物によって枠どられた物語でもある。

おまけ。私の子どもののすけちゃん。

 
 
 
 

『風立ちぬ』雑感

2013-08-25 03:46:28 | その他レヴュー
 『風立ちぬ』見てきました。

 まとまったレヴューは後から書くつもりですが、まとまらないことでもたくさん書きたいことがあるので、いくつか感想めいたことを。

 思っていたのとは結構違いましたね。
 煙草、確かに要所要所では出てくるんですが、そこまで多くない。煙や炎、あるいは寒いなか吐く息の白さなどと関わって表象の網の目を形づくっているとは思うのですが、メインは風に飛ばされた帽子(→パラソル→紙飛行機)をつかまえる動き、だと思いました。それが最後に飛行機になって飛んでゆく。これについては後からまとめるつもりなのでこれ以上は書きません。

 関東大震災の描き方がすごかった! 炎の描写もしっかりあって、東大燃えてるし、本を救い出すシーンなんかもあって、かなり萌えます。関東大震災はこの物語のなかで特権的な位置を与えられているんだろうと思います。これもたぶん、後からまとめるレヴューで触れる。

 確かに泣けました。クライマックスを作って盛り上がって泣く、というのではなく、ぜんぶの部分で穏やかに、ゆるやかに泣ける感じで。そういうリズムを作り出しているんだろうな、と。
 主人公が、(構造的に)絶対手に入らないものを求めているというのも、泣ける感じを作り出す要因かもしれません。美しい飛行機を作りたい…って言うけれど、飛行機だから飛ばなきゃいけないわけで、でも、飛んでいってしまったら手に入らないんですよ。落ちる飛行機じゃないと手に入らない。でも、飛ばなきゃいけない。

 たぶん、煙草の場面で批判されてるのは、ヒロイン菜穂子が高原病院から一時的に抜け出して、主人公と結婚し、いっしょに暮らす日々のなか。夜遅くに、主人公は菜穂子の片手に触れながら持ち帰った仕事をする。で、ちょっと離していい?タバコ吸いたい、って言うんですね。それに対して、菜穂子はダメ、ここで吸って、って言う。そして主人公が煙草吸う。この場面だと思うのだけれど。
 ここ、機能的にはベッドシーンだと思うのですよ。描けないですからね。この場面の菜穂子、すごく色っぽい。
 主人公との関係においては、一貫して菜穂子のほうから誘ってるんですよね。単に病弱なんじゃなくて、すごく積極的な人として描かれてる。それは主人公が飛行機以外のことに対して薄らぼんやりした人である、ということもあると思うのですが、菜穂子ってもう、最初の出会いから主人公の気をひこうと必死。汽車のデッキから身を乗り出したりして。
 だからこの部分(束の間の結婚生活)の菜穂子は、待ち望んでいたものをやっと手に入れた喜びに満ち溢れている。夢のなかにいるみたい、という科白もありましたが、これは菜穂子の夢なんですよね。だからこの後主人公の飛行機が飛ぶのも必然だし、菜穂子が死んでしまうのも、構造的に必然。
 菜穂子が主人公にとって都合のいい女だ、みたいなこと言う人もいますが、都合のいい女なんていくらでもいるわけなんですよ。同期の本庄が洋行前に結婚するんで、仕事に専念するために所帯を持つ、変な話だ、という科白がありましたが。二郎はめちゃくちゃエリートなんで、いくらでも都合のいい女と結婚できるわけです。その辺、いまのモテない男の尺度で測ったら、絶対おかしい。

 妹のかよも良かったです。彼女はもうずっと、お兄ちゃんの気をひこうと必死なんですが、一貫して失敗する。一貫してお兄ちゃんに約束をすっぽかされ、待たされる。子供時代の描写で、頬をすりむいたお兄ちゃんを手当しようとする場面がありましたが、あれはお医者さんになることの伏線なのね。で、お兄ちゃんでダメだったから、(束の間の夫婦生活を営んでいるお兄ちゃんのところに)「休暇をとって医者として来ます、菜穂子さんを治療します」っていうんですけど、可哀想に、かよさんが来るタイミングで、菜穂子も高原病院に帰っちゃうんですよね。菜穂子を治療しながら、他愛もないお喋りをして、いっしょにお兄ちゃんを待つ、甘い生活を夢見ていただろうに…、可哀想に。絶対にほしいものを手に入れられない妹。

 菜穂子との最初の出会いの場面でいっしょに出てきたお絹の形象も気になりました。汽車のなかで地震にあって、逃げようとしたときにお絹は足を骨折する。だから主人公は計算尺を添え木にしてお絹の足を縛って、彼女を背負って逃げますが、途中でおろし、家の者を呼んでくる、という菜穂子を送る。で、その後菜穂子の家の使用人といっしょにお絹のもとに戻ります。
 二年後(だったっけ?)にその計算尺が手紙とともに主人公のもとに届きますが、そのままお絹は去ってしまう。
 むしろお絹のほうが主人公にとって初恋な感じでしたよね。
 お絹は菜穂子のことを「お嬢様」と呼んでいるので、最初、侍女かなと思ったんですが、どうもただの使用人ではない。他の使用人からも大事にされている感じだし、菜穂子から見た心理的な距離も近い。お絹を迎えに行った使用人が、「いい青年じゃないか、お絹さん」と言っていることから、どうも彼女の結婚が、このお家にとってわりと大事な問題であることが分かる。再会した場面で菜穂子が言う、「あなたの居場所がわかったのは、(お絹が)結婚する三日前だったの」からすると、どうもこのお家からお嫁に出している感じがします。
 たぶん、親を亡くしたなどの事情で、このお家に引き取られている親戚の子供か何か、なんでしょうね。養女と使用人との中間くらいのポジション。帝大出のエリートと結婚しても不釣り合いじゃないけれど、見合いで結婚するには条件を下げないといけないような事情のある、だから彼女が自分の持っているもの(美人である、とか)を生かして、できるだけ条件を下げないで結婚することが期待されている存在なんだと思います。そう考えると、使用人たちが慌ててお絹を迎えに行く理由も分かります。震災後の混乱のなかに、適齢期の娘をほっとくわけにいかないので。
 菜穂子の母親が結核で亡くなったのが再会の二年前だとすると、お絹が結婚する前くらいで発症していたのかもしれません。だから、「私とお絹さんの白馬の王子様」(菜穂子)を悠長に探している余裕なんかなくなって、片付くものはできるだけ早くに片づけなくちゃいけなくなった→で、結婚なのかな、と。
 お絹は結局別の人と結婚して子ども三人も生んでいるようですが、夢を見ることができない、現実を選ばざるをえない存在として描かれてるのかな、と思います。