人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

「死の都」としてのハンブルク―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』その3、および論文掲載情報

2017-08-06 02:07:34 | 佐藤亜紀関連
こんばんは。
ずいぶん遅くなってしまいましたが、『スウィングしなけりゃ意味がない』レビューの続き、書きました。
何だか結局まとまらなかったんですが、とりあえず今回でおしまい、です。

その1
その2

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4.地下と裏庭――穴掘りは得意

 ところで湖沿いの家は地形上どうもみなそうなっているようだが、エディの家の地下室は、防空壕になっていて、裏庭に通じている。かつて仲間たちがジャズのレコードを聴きながら、芝生の上に置いたデッキチェアに座り、あるいはパンチを飲み、あるいは水面で戯れた裏庭だ。この地下室と裏庭で、エディがエヴァと踊り、両親が亡くなり、両親を埋め、両親を改葬させた後には金を埋める。
 エディとエヴァが一緒に踊る場面を見てみよう。
 
 踊ってくれるだけでいい、とぼくは言った。電蓄のところに行って、親父が地下に下ろしたレコードの中から一枚を探し出して、掛けた。(中略)甘ったるい腑抜け音楽だ。でも胸が痛む。(96頁)

 わざわざ「親父」の「レコード」をかけていることに注意したい。というのも、この場面でエヴァは、「お袋」の「古いカクテルドレス」を着ているからだ。「薄いクリーム色の絹で、胸元で布地を交差させて腰高にスパンコールを一面、ベルトのように縫い留めてある」。(95頁)。エディが「お袋はもう入らない」と言って、エヴァにあげたのだ。

 デュークとエヴァが結婚する場面で、

コニーがお針子を雇って、ぼくがやったドレスのサイズを直し、飾り襟と袖を仮留めした。ぼくはお袋から結婚式の時のヴェールを借りて来るよう厳命された。(175頁)

とあるから、このドレスはおそらくエヴァのウェディングドレスに仕立て直された。そしてヴェールもエディの母親のもの。エヴァはドレスを着られるくらいなのだから、おそらく「お袋」と背格好が似ているのだろう。エディの恋人になったのは教授の娘でクラリネットを吹くアディだったけれど、エディはそんなエヴァが好きだった。そして「親父」のできなかったことを代わりにする、とあるように、エディの恋愛や欲望は両親の模倣や代理なのだ。
 空襲がひどくなったある日、父親が工場を見に行った後パニックに陥る母親をエディは宥めに掛かる。

実際、お袋に何かわかるとは、ぼくは思わなかった。今でも後悔の種だが、馬鹿扱いしていた、というのは本当だ。その時ぼくがしたのもまさにそんなことだった。お袋の脇に坐り込んで、親父に他にやることがなければやるように、宥めに掛かったのだ。(229頁)

 その時エディは、「ナチに尻を捲ってや」り、「やりたい放題をやること」について、「ぼくは父さんの望んでいることを代りにやってたから」(230頁)と言うのだ。

 その両親は、地下室で亡くなる。

 地下室も、それ自体は呆れるほど無傷だ。親父とお袋は、ぼくとアディのお気に入りの革のクッションに頭を乗せて、敷物の上に横になっている。(259頁)

 すでに触れたように、空襲で工場が焼けてしまった後、「古い映画をまた見てるような気になる。子供の頃のぼくの家、みたいな。七十とかになってから、親が生きていた頃に撮ったフィルムを見てるみたいな」(再掲、253頁)とエディが感じるように、両親は過去に回帰している。

 ぼくは泣く。息子が留守なのをいいことに、田舎に送る荷物には入れなかったカクテルドレスとタキシードを着込んで、警報が鳴るとシャンパングラスをもって地下室に下りて、死ぬほど阿呆なレコードを掛けて踊って。防空壕の中で眠るように死んでいる、無傷の、薔薇色の頬をした死体。(中略)たぶん、自分が死ぬことにさえ気が付かなかった死体。
 ぼくは庭に穴を掘る。穴掘りは得意だ。二メートル掘って、敷物に包んだ親父とお袋を埋める。(中略)
 死体はその後三ヶ月間、庭に埋まっている。(260頁)


 かつてエディとエヴァが躍った地下室で、両親もむかしのレコードをかけ、むかしのドレス――「むかしの」とは書いていないけれど、おそらくむかしの、ひょっとしたらイギリスを旅行した頃に作ったドレスではないだろうか――を着て、踊りながら亡くなったのだ。イギリス軍による空襲によって。
 その二人の遺体を、エディは庭に埋める。エディが埋めてしまったものは、いったい何だったのか。とは言え二人の遺体は、それほど長く庭に埋まっているわけではない。

裏庭では運転手の子供たちが鶏を追い掛けたり鶏に追い掛けられたりする。親父とお袋を改葬した後はちょっとした菜園に変っている。(294頁)

 エディが「穴掘り」が得意になったのは、ジャズのパーティーが原因で入れられた収容所において、エルベ運河の拡張作業に従事させられたからだ。

隣にいた収容者が、監視兵の目を盗んで短く何か言う。理解できない。もう一度何か言いながらやってみせてくれる。少なく、浅く。たぶんロシア語。ぼくは一度にたくさん掘り進むことを諦めて、少しずつ手早く掘る。三日目、ぼくは一人だけになっている。(199~200頁)

「少なく、浅く」。少しずつ掘るやり方を、エディは体得して、両親を埋める穴を掘り、最終的に徴兵されて(おもちゃの兵隊みたいな軍隊で)「塹壕を掘れと言われ」(307頁)ては掘り方を指導し、

 掘った土は外側に積み上げろ、深さが稼げる、とぼくは指示する。それから掘り始める。
 冷たい小雨の中で、ぼくたちは黙々と溝を掘る。幾らも掘らないうちに溝は泥沼になる。(中略)幅一メートル、深さ一メートル、長さ四メートルを手早く掘り上げて、ぼくは上に這い上がり、マックスと一緒に後ろから溝掘りを監督する。ああ、それは駄目だ、腰を痛める。焦らなくていい、浅く少しずつ掘れ。(307頁)


ドルを手に入れては穴を掘って埋める。戦争終結間際、SSのヘッカーが金庫の金を盗もうとした後も、エディは残りの金を庭に埋める。

ぼくは残り四万ドルを家に持ち帰って埋める。金庫も良し悪しだ。何か入ってます、って宣伝しているようなものだ。他の金もだが、油紙で包んでから缶に詰めて深く埋めたので、上で野苺くらいは栽培できる。焼け跡で生えているのを掘り返して持ち帰ったのだ。たぶん、五月の末には食べられるだろう。(317~318頁)

 そしてこの金もいつかは、必要な時に、掘り返され、使われるのだろう。
 黒い雨が降り、炎と風が荒れ狂っても。いつの間にかこちら側が「死の都」になってしまっていても、両親は正しく墓地に改葬され、墓石は燃えることがない。土はほんの少し掘り返され、繰り返し何かが埋められ、また掘り出されるだけで、「向こう側」の世界まで、穴が到達することはない。

足元では、誰かが町を追い出され、誰かが首を吊り、飢えて倒れるまでただ働きさせられ、泥の中で殴り殺され、焼き殺され、地下室で窒息して死に、生き残りは廃墟に巣くい、ぼくは穴を掘って金を埋める。(309頁

・佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』KADOKAWA、2017年。

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 拙稿「『源氏物語』の人形論――雛と「人形」の手法」が『頸城野郷土資料室 学術研究部 研究紀要』に掲載されました。
『源氏物語』における雛と人形(ひとがた)を、人形(にんぎょう)として総合的に見ることで、フィクション構築の手法として考察することを試みた論文です。西原の人形論として、最初に論文化されたものです。最初に学会発表をしてからずいぶん時間が経ちましたが、おかげで男女関係や女性性を身につけるものとしての雛と、男女関係や女性性を穢れとして、仮託して払いのけるものとしての「人形」(ひとがた)という結論に辿り着けたのは良かったです。
 リンク先からPDFもダウンロードできます。どうぞよろしくお願い致します。

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 実家で一時預かり中の保護犬ちゃん、7月16日に譲渡会に参加したようです。
 
 ご縁はなかったようですが、だんだん譲渡会にも慣れてきたようです。
→2020年1月2日に急逝しました。

→保護主さんのブログ「おうちで暮らそう
→詳しい譲渡条件、お申し込みも保護主さんのブログをご確認ください。







「佐藤亜紀さんと車座トーク」参加記

2017-07-03 15:08:13 | 佐藤亜紀関連
6月30日(金)、蔵前の本屋さんで行われたイベント、「佐藤亜紀さんと車座トーク」に参加してきました。
他にも何人か、イベントの感想などについて書いてらっしゃる方がいらっしゃいますが、私も内容を以下に纏めておきます。

・『スウィングしなければ意味がない』を書くきっかけになったことを問う、豊崎由美さんの質問からスタート。

ドイツ内の反ナチ運動についてまとめた本の中で、スウィング・ボーイズ(ユーゲント)について知ったのは92、3年の頃。
そのあまりに頭悪くノンポリであるさまに感銘を受けた。
ナチス時代のことを書く人は他にもいろいろいるだろうが、このあほなガキたちの話を書きたいと思うのは自分しかいない、と思ったのが書こうと思った経緯。

「エーデルワイス海賊団」などのほうがまだ政治性がある。

スウィング・ユーゲントの特徴は消費文化。
かなり層が広いが、中産階級(豊かな層)であることが多い。
ファッションのお手本はアンソニー・イーデン(イギリスの政治家)とウィンザー公。
ファッション誌に「内閣特集」(!)というのがあって、それを見て真似をする。
イギリスのファッションが、世界中どこにいようと、メディアに乗ってどこへでも届く、そういう若者の消費文化の最初の時代が、この頃。
ジャズについて(同時代に)よく言われるのが、こんなのは音楽じゃない、消費文化だ、ということ。
音楽がレコードという媒体に乗せられて店で売られる、その最初の時代であって、それがさらにラジオで流される。
ちなみに戦前まではBBCでもまじめな時間帯にはジャズは流していなかった、でも戦時中になり、ジャズを流すとドイツ人が食いついてくることに気づいてゴールデンタイムにも流すようになった。
消費文化に毒された若者が、大人から「お前みたいなやつは軍隊に送ってやる」と言って怒られる、その最初の時代。

ギュンター・ディッシェという400枚のSP版を集めた実在の人物がいる、その人物がモーリンゲンに送られて、帰ってきてなくなったレコードを買いなおす、そして生涯を通じて収集を続けるのだが、その人物がなぜそこまでするのかと問われて答えたのが、「そこには絶対の自由がある」ということ。
「絶対の自由がある」というのはかっこいいんだが、でもちょっと待てよ、と。
消費文化に首根っこ捕まれて、それが欲しいように習性づけられて、それが「絶対の自由」なのか。
でもその反面、その消費文化すらも消費できないということは、すごく「権利」を踏みにじられているという感じがする。
その複雑な関係のところを描きたかった。

・父と子の関係について。
父親の世代は第一次大戦中に戦争を送った世代。
主人公は1923~24年生まれだが、戦死率も徴兵率も一番高かった世代。
親子というのはせいぜい30歳くらいしか違わない。長いスパンで言えば同時代。

・体験したことのない感覚を体感したように思わせることと小説という媒体について。
『天使』を書いたときは、実はフォン・ノイマンの伝記を念頭に置いていた。(数的感覚に優れた人には)何かすごく感覚のねじれのようなものがある。たぶん見えている世界が違う。それを書いてみたかったのだが、数学は分からないため、ああいうかたちになった。
実は音楽も分からない。
ゾラがセザンヌに絶交された話があったが、美術であれば、(美術史が専門だったし)何かそれなりのことがいえる自信はあるのだが、音楽については、例えば同じ構造が離れた部分に二回出てくる、それは分かるのだが、それが何なのか、そのことによって何が見えなければならないかということが分からない。
だから音に優れた感覚を持っている人の見ている世界というのを私は書くことができない。

・プロット等考えるのか。
プロットというかたちでは書かない。
楽譜に喩えると、「コードの展開は考えているが、メロディの展開は考えない」。

・資料、同時代の証言が最近になって出てきた、ということについて。
スウィング・ユーゲントがあまりきれいな説明の構造に乗らないものだから、冷戦構造がゆるむまではあまり出てこなかった。
ユダヤ人を収容所から借りてきて働かせていたという資料なども、比較的最近になって編纂された社史などで書いている。

・暴力と権力について。
『戦争の法』と『ミノタウロス』と『スウィングしなけりゃ意味がない』について、地場産業の息子三部作、と呼んでいるのだが、そこで描かれる暴力には密度の濃淡がある。それがどこから来ているのかというと、『戦争の法』で描いたのは、すべての法が停止した状態であらわれる法以前の法。それが何かというと、地縁と血縁。あれは関東の方なんかには、そんなの嘘でしょう、そんな世界ないでしょう、って言われるんだが、自分の生まれ育った長岡の世界をモデルにしている。ほんの少し前までは本当にああいう世界だった。だから暴力と権力は嫌いで、何の魅力も感じないが、自分が一番よく知っている世界について書くとそういう風にならざるをえない。

一方で『ミノタウロス』は、ウクライナが舞台なんだが、あれは地縁も血縁もない世界。地味は豊かだが水がないのでもともとそんなに人が住んでいなかったところに、いろんな場所から人が入植してつくった土地。そういう世界で社会が転覆すると何もない。

『スウィングしなけりゃ意味がない』は、ものすごく強固な伝統的社会があるところに、その下層にナチズムが入ってきて、その上方にうっすらと消費文化が見えてきている、そういう状態。

・読みやすさについて。
『スウィングしなけりゃ意味がない』は、たまたま比較的読みやすいものになった。たぶんそれはティーン・エイジ・スカースの問題だ。
スカースというのは、デヴィッド・ロッジの『小説の技巧』などを見てもらえると分かるが、喋りを再現したもの。
ちなみに会話文を「――――」で書いているのと、「「」」で書いているのは、距離感を表現しようとしたもの。

・佐藤賢一について(?)。資料を参照したものの一部しか使わないことについて(?)。
佐藤賢一さんのは、歴史を書いているが、私のは、「歴史を語るとはどういうことか」について書いたもの。
(資料を本の一部しか使わないのは研究も同じなので、個人的には、大学院時代に培った感覚なのかな、と思いました)。

 他に、おすすめの小説や映画についての質問などがありました。

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最初に写真をアップしたときに、佐藤さんから「ものすごく美形」だとお褒めの言葉を預かったこの子

ですが、今ではすっかり大きくなり、15㎏程度になりました。去勢済みです。

まだ里親募集しています。
→2020年1月2日に急逝しました。
→保護主さんのブログ。「おうちで暮らそう

また、7月から少し私のお仕事が変わりました。
国立国語研究所で、広報関係の研究員として働くことになっています。





「死の都」としてのハンブルク―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』その2

2017-06-26 01:31:15 | 佐藤亜紀関連
以前記事を書いたときからずいぶん時間が経ちました。
ようやく記事を更新しようと思うのですが…、今回もちょっとまとまりがつきそうにないので、また続き書きます。

前回の記事

2.空から降ってくるもの
 ハンブルクの空襲場面、空襲による炎と、それによる煤を含む黒い雨が描かれる。水の描写に注目したとき、空襲後、おそらく炎による気圧の変動や空気の流れ

 防火性の堅い胡桃の中身を燃やすにはどうすればいい? 彼らはまず殻を叩き割る。(中略)そこに、真っ白く火を噴くアルミニウムと酸化鉄とケロシンの混じった燃える液体を浴びせ掛ける。家々の柔らかい中身は燃え上がる。(中略)燃える液体が路上に広がると、アスファルトまで融けて燃え始める。液体は燃え上がりながら壁を伝って流れる。熱せられた空気の中で全ての炎が溶け合って大きな炎に変る。火柱が空気を吸い上げて天まで立ち上がる。強風が火柱にむかって吹き始める。(244頁)

によるものだろうが、必ず雨が降ることにも注意したい。例えば最初にハンブルクが空襲を受けた場面では、空襲が始まってしばらく後雨が降り始め、夜が明けるころに上がる。

雨が降り始める。帰ろうとしたクーが階段の上まで行ってから戻って来て、ぼくに、外を見てみろよ、と言う。
 親父はもう庭側の防火扉を開けている。驟雨がパジャマに染みを付ける。真っ黒な雨だ。湖の対岸の空が一面に燃え上がっている。(227頁)


 けれども空から降ってくるのはそれだけではない。例えば人(236頁)。そして紙。はじめてジャズを演奏しているカフェに行った夜には、空からビラが降って来る。

光と光の間を何かがちらちらしていたが、やがてぼくらのところまで落ちて来た。印刷した紙だった。
 辺りは紙で一杯になった。宙も、路上も。暗い空を無数の紙がひらひらと落ちて来る。ぼくたちは落ちて来る紙に飛び付き、拾い集めた。(23頁)


ハンブルクの市民諸君、と太字で書いた下に、裏側まで細かい文字がぎっしり詰っていた。ドイツの軍隊はポーランドを攻め、イギリスはさすがに怒り、戦争になった。それで自分たちがどうなるかよく考えた方がいいぞという話だ。(同)

 イギリス軍の伝単である。エディたちがこれを拾い、家々の郵便受けに放り込んだことが、後にゲシュタポに責められることになる(30頁)。空からもたらされる紙は、やがて戦況が進み空襲が始まると、レーダーを狂わせるための銀紙となる。

音は近付いてくる。そら、銀紙が降って来る。見えはしないが、かすかな音を立てて、甲板に、湖面に落ちて来る。
 ああ、と顔だけ出したクーが手で受けて、薄い金属箔の感触で言う。「そういう仕掛けか。電波弾くもんな」(243頁)


 この銀紙はレーダーをはじき、エディたちが音楽を録音しているラジオに「雑音」をもたらす(242頁)。伝単も銀紙も、何かを攪乱させるために投下されることは共通する。そして空襲の炎も、伝単も、電波を狂わせるための銀紙も、海の彼方からもたらされるのだ。
 空から降ってきた銀紙は、空襲が終わり、雨が上がった後、「雨に流され泥まみれで道の端に溜まっている」(258頁)。

3.最後の審判の日
 「死の都」としてのハンブルクの描写に注目したとき、焼夷弾が墓地に落ちたことも見逃せない。

「ヤコビ墓地に焼夷弾落ちたの、知ってるか」
 マックスは軽く顔をしかめる。墓所があるからだ。婆さんもそこに葬られている。
「むきになって何発も落としたらしい。ぼんぼん燃えてたって。まあ墓石はもつだろうけど」(254頁)


 まるで生きている人がそこにいるかのように、飛行機は墓地に焼夷弾を落とす。死者が埋められている墓地に焼夷弾を落としたところで、死者が死ぬはずはない。埋められている死者が、最後の審判の日によみがえることができないように、燃やしてしまおうとしたのだろうか。ハンブルクを「死の都」と感じるマックスも、「最後の審判の日には」「もしかすると」「生き返る」かもしれないと、思っている。
 そういえば空襲のひどさは「天罰」に喩えられ、

町が焼け落ちる。天罰でも下ったみたいに。炎の竜巻が空まで煙を吹き上げる。火口が開いて噴火しているようにも見える。やがて真っ黒な豪雨が降り始める。(245頁)

パリが陥落したことを聞いたマックスは、「忘れられない」顔をする。

喜びとかではない。最後の審判の日には、とマックスは言ったが、甦る死者は皮を剥がれるような苦痛を味わうに違いなかった。(295頁)

 マックスがハンブルクを「死の都」だと言った場面で、そのことをレンク教授に話した後どう言われたのかと問われた時、マックスはこう答える。

「生き返る日はあるのかね、と訊かれた」
「あるの?」
「最後の審判には、もしかすると。でもぼくはあんまり信じてない。それでオルガンを弾きに行くよう勧められた。そう、希望があると信じることは大事だと思うようにはなった。少しはその助けになっている気がすることもある。日曜日とかは全然駄目だったけど。何の役にも立てないのはすごく辛い」
「今週も行くの」
「行くよ。教会が残っていてオルガンが動くなら」
「今度こそ誰もいないと思うけど」
「もともと誰もいない。死者だけだ。だから空っぽでも一緒だよ」(254頁)


「今度こそ誰もいない」、というのは、最初のひどい空襲の後、オルガンを弾きに行ったことについての会話を踏まえている。

彼自身はいつものように規則正しく家を出て、自転車でエッペンドルフの教会に向った。外が真っ暗だろうと教会から見える辺りまで炎が迫っていようとお構いなしだ。誰も来ないだろ、とぼくが言うと、そう思ってたけど、と答える。
「坐りきれなくて外まで立ってた」暗い顔をする。「焼け出された人たちが」
 礼拝はふつうに行われた。電気は止っていたが、手動に切り替えてふいごを寺男に動かさせるとなんとかオルガンは動いた。牧師は事前にマックスを呼んで、礼拝の内容を変更すると告げた。(中略)あんな礼拝は一度もなかった、とマックスは言った。泣いている人が何人もいた。他にどうしようもなくて教会に来たんだ。ぼくも泣きそうになった。どう弾いたらいいのかわからなくなって、何度も指が止りかけた。(234頁)


 それにしてもマックスはなぜ、そんなひどい状況の中でもオルガンを弾こうとするのだろう。それはオルガンが、両親を死の世界へと導いた、自動車につながるものだからではないだろうか。

マックスは日曜ごとに「ひいひいおじいちゃんの教会」でオルガンも弾き始めた。レンク教授が勧めたのだ。(中略)実際、横から見ていると楽器というより自動車の運転のようだった。アクセル、クラッチ、ブレーキ、シフトレバー。踏んだり、引っ張ったり、押し込んだり。でかい金属筒がぶおんぶおん鳴る。小さな管が風切り音を立てる。マックスが小さな演奏席に収まって馬力も音量も巨大な楽器を操り音のサーキットを飛ばすのを、ぼくは時々見に行った。彼が幾らかでも本気になるのは、ぼくらと一緒の時かレンク教授の地下室でなければ教会だけだった。(中略)地獄の門や天国への階段が、そこからは続いていると思ったのだろう。実際に続いているのは、ロッチュのゲットーと、婆さんがぶら下がっていた客間と食堂の間の仕切りだ。(130~131頁)

 「ひいひいおじいちゃんの教会」というのは、彼の祖母の母が牧師の娘であったからだが、「自動車の運転のよう」とあることに注目したい。マックスの両親は自動車事故で亡くなっており、そのために彼は祖母から自動車を運転することを許されていないからである。「実際に続いているのは、ロッチュのゲットーと、婆さんがぶら下がっていた客間と食堂の間の仕切り」とエディは感じているが、より重要なのは、オルガンの演奏が「自動車の運転のよう」であることではないか。マックスはオルガンを「運転」して、両親のいる死の世界へと足を踏み入れる。

(→その3

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と保護犬仲間ちゃん、譲渡会に行って来たようです。

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「死の都」としてのハンブルク―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』その1

2017-04-30 20:33:16 | 佐藤亜紀関連
 こんにちは。久しぶりに本の話題です。
 佐藤亜紀さんの新刊『スウィングしなけりゃ意味がない』(角川書店、2017年)について。かなり好評を博しております。
 タイトルからも分かる通り、ジャズが重要なテーマとなっており、ハンブルクの空襲やナチスのユダヤ人政策など、様々な観点から考察することが可能です。…が、ご本人が参考文献もあげておりますし、そちらの方面からの考察は得意な方にお任せし、私は、湖や雨、空から降ってくるもの、空襲の炎などに注目して考察します(長くなりそうなので、今日は水のイメージのみ)。

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1.水の都
 言わずと知れた世紀末ロマン文学に、ローデンバッハの『死都ブリュージュ』がある。亡き妻に酷似した踊り子にのめり込む主人公が、最終的に彼女の首を絞めて殺すという、それだけと言えばそれだけの、しょうもないと言えばしょうもない話なのだが、霧と雨に降りこめられた陰鬱な都市ブリュージュの描き方が素晴らしい。それだけに、ブリュージュを殺した、として批判もされた。

 本書『スウィングしなけりゃ意味がない』が舞台とするのは、第二次大戦中のハンブルク。ハンブルクは大きな湖アルスター湖を取り囲むように発展した、「ハンザ都市」「七百五十何年だかの歴史」(309頁)のある都市だ。ハンブルクのブルジョワである、語り手エディと仲間たちがはまるのは、「敵性音楽」であるジャズ。
 消費と青春を謳歌する彼らの世界はあっけらかんと明るい。エディの家の「地下室の防火扉」を開け放った裏庭には、「アルスター湖から水を引き込んだフェーンタイヒの水面」(67頁)があり、仲間たちは芝生の上に置いたデッキチェアに座り、あるいはパンチを飲み、あるいは水面で戯れる。地下室からはジャズのレコードが流れる。
 けれども戦況の進展とともに、ハンブルクは徐々に「死の都」として描かれるようになる。例えば空襲によって工場が焼けてしまった後、ふ抜けたようになってしまった両親に、エディが違和感を抱く場面。

「古い映画をまた見てるような気になる。子供の頃のぼくの家、みたいな。七十とかになってから、親が生きていた頃に撮ったフィルムを見てるみたいな」
 しばらく黙り込んでから、死の都、とマックスは言う。「ここは死の都だ。ぼくはそう思ってる」
(中略)
「だいぶ前だね。何かが死んで、それで全部死んでしまった。もちろん、ぼくもとっくに死んでいる。それはちょっと辛い。ちょっとだけだけど。(中略)でもやっぱり死んでいるんだ」(253頁)


 自分たちが青春を過ごした時代に回帰してしまったかのような両親について、「古い映画」を見ているみたいな気分になるというエディに対し、天才的なピアニストでジャズも弾くマックスは、「だいぶ前」からここを「死の都」だと思っていたと言う。マックスは八分の一ユダヤ人で、かつて両親を自動車事故で亡くし、二分の一ユダヤ人の祖母は、ユダヤ人と結婚しているために100パーセントのユダヤ人の扱いを受けるようになってしまった姪一家が当局に出頭を命じられた後、首を吊って自殺してしまった。
 やがてそのような感慨を、エディも抱くようになる。空襲で両親が死んでしまった後。

 死の都、とマックスが言ったもの――そのものではないとしても、ごく近い何かが目の前に現れる。確かに何かが死んだのを、ぼくは感じる。ハンブルクはもうぼくの知っていた町ではない。それどころか、ぼくの知っていたぼくも死んでいる。これは誰か別の人間か――でなければ死人のぼくだ。(261頁)

 空襲で建物が破壊された街は、遠くどこまでも見渡せる。「近くで言うと、ランガーツークのむこうのマックスの家の二階の窓まで見て取れる。ほら、誰かがカーテンを開いた。あれは婆さんの寝室の窓だ」(262頁)。マックスの祖母は、すでに首を吊って亡くなっている。

 海や湖、川などがあるとき、その向こう岸、つまり彼岸を死者の世界とするのがふつうの発想だろう。けれども、いつの間にか彼岸が生の世界、此岸が死者の世界へと変わってしまう。例えば海の向こう、イギリスに行くことを夢見たエディの両親は、海の向こうには行けずに空襲で亡くなってしまった。あるいは、ジャズ仲間の一人デュークとその恋人のエヴァについて。デュークは、警察とけんかしたかどで有罪になり、前線に出征することが決まったとき、出征する前にエヴァと結婚し、フリースラントの祖母の家を訪れた。そして「着いた翌日、夜が明ける前に」「祖母の家から姿を消した」(176頁)。「この国では生きてはいけない」(177頁)という「遺書」があり、「近所でボートが一艘盗まれて、後で干潟の沖合で発見された」(同)ために、自殺したものと見なされたが、「Vサインするチャーチル」(同)の落書きのある制服を祖母から見せられたエディは、デュークとエヴァが生きていて、国外に逃げ出したことを確信する。「陸路でもデンマークに潜り込むことは可能だ。海路で小さく迂回するならなおさら簡単だろう」(同)、「そこから半島を横切ってバルト海に出て、スウェーデンに渡る」(177~178頁)。海のこちら側の「この国」は生きていける場所ではなく、海の向こう側がむしろ、生の世界となっているのだ。しかもエヴァは、貧しくてまともな衣類を持っていなかったために、あんなにイギリスに行くことを夢見ていたエディの母のむかしの衣装をもらって着ていた。

 それにしても、マックスがハンブルクを「死の都」だと思うようになったのはいつのことだろう。街が空襲でめちゃめちゃになったとき? 祖母が首を吊ったとき? 戦争が始まったとき? いや、それよりもっと前、「両親が自動車事故で死んだ時」「ヨットに乗って、閘門から川まで出して、海まで行って、戻って来た」(81頁)ときだろう。「以来、もう何も感じない」(同)。死のほんの手前まで行って、帰ってきたのだから。
 だからマックスの音楽は、水のイメージ――ハンブルクの湖の、そして自分が死の手前まで行った海のイメージに満ちている。「風向きのせいで港の水位はひたひたと上がり、暗い雲が冷たい風と共に押し寄せ、雪さえちらつ」く夜、マックスは「雨の庭」を弾く。

 こんな寒い晩に、北海からの風が海水をどんどん川を遡らせ港の水を押し上げる晩に、「雨の庭」。冷たい水位が上がっていく。靴の中までずぶ濡れだ。妙にきんきんと一番上の音を強調して響かせると、まるで氷が張るように「雨の庭」は一箇所で動かなくなる。異様な和音がピアノを揺さぶる。ピアノも自分にこんな音が出せるとは知らなくて泡を食うような音だ。
 マックスはドビュッシーを、ぐいっ、とスウィングさせた。目が覚めたような気がした。幾つもの和音の下から、最高にホットなリズムを出現させた。(中略)
 マックスは、徹頭徹尾、本気だった。(55頁)


 マックスが天才的なのは、ピアノだけではない。ボートを操る技術も際立っている。例えば空襲の夜、火炎による風を避けるために帆をおろした船の中で、「マックスだけが炎に背を向け前方に目を据えたままおそろしく真面目な顔で舵を操っている」(244頁)、「マックスはゆっくりと確実に舵を入れながら、空気と水の一番柔らかい場所を手探りで切り裂く」(244~245頁)。エディの家が燃えた夜も、マックスは火が点いてしまったヨットに水をかけて消し、「不規則な波にひどく揺られながら湖に出」て、「暗いロンデルタイヒの水路に船を泊めて」「ウーレンホルストの炎のむこうで炎上するバルムベックへと吹く強風をやり過ごす」(257頁)。湖に浮かび、水と風の流れを読む技術に秀でたマックスは、水と縁が深い。マックスの祖母は「ハンブルクの白鳥」と呼ばれたというが、マックスもやはり「ハンブルクの白鳥」なのだ。

 湖のイメージに注目したとき、何度も(水面下に)「潜る」という比喩が用いられることも重要だろう。エディと仲間たちは、非合法でジャズのレコードを作り、売りさばく商売を始めるのだが、それに関わって「潜る」(212頁)「Uボートする」(211頁)という表現が用いられるのだ。結局空襲があまりにひどくなり、レコードが売りさばけるような状況ではなくなったため、「Uボート」しないのだが。

続き

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長くなりそうなのでひとまずここまで。続きはそのうち掲載します☆
☆おまけ☆
 実家で一時預かり中の保護犬ちゃん、すくすく成長して15㎏くらいになってます。
→2020年1月2日に急逝しました。
 譲渡会に行った時の写真。
 (右は、おんなじ保護主さんが保護しているわんちゃんです)

→保護主さんのブログです。おうちで暮らそう

佐藤亜紀さん『吸血鬼』ツイッター文学賞受賞おめでとうございます!

2017-03-08 00:11:00 | 佐藤亜紀関連
反応遅くて申し訳ありませぬが、
私たちが(ご本人をお呼びして)日本文学協会ラウンドテーブルで扱った『吸血鬼』が、ツイッター文学賞を受賞したとのこと。
佐藤亜紀さん、おめでとうございます。

そういえばラウンドテーブルのときに、訳語の問題で「なぜ吸血鬼」という語になったのか、「鬼」っていうのは何なのか、という話題になったのですが、
「心の鬼」の話すればよかったかなあ、とふと思いました。
紫式部に

 絵に、物の怪のつきたる女のみにくきかたかきける後に、鬼になりたるもとの妻を、のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て
44 亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらむ(『紫式部集』)


って歌があるんですよね。
ものすごく近代的な解釈で、ちょっと面白くない、って思ってたんですが。
『吸血鬼』の中で、マチェクの父親が次のように説明するんですね。

 ―ウピール、言うのはものの喩えですわ。村の嫌われ者をそう言うばっかで。あれはウピールだろ言うてこそっと後ろ指を指す分には、まだ形もねえ。皆が皆そう言うて後ろ指さして、嫌な顔をしてるうちに段々と人の形を取って、終いにはぴたっとその人間の姿形になるがれすて。ま、そうなったら人間、終いですの。(240頁)

思えば、マチェクの父親が一番近代的な解釈をしてるわけですが。「心の鬼」って、この説明に割と合致するかも、と思いました、です。

*『紫式部集』の引用は新潮日本古典集成、『吸血鬼』は佐藤亜紀『吸血鬼』(講談社、2016年)による。

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