人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

佐藤亜紀さんの朗読会に行ってきました。

2016-07-18 14:48:35 | 佐藤亜紀関連
7月16日(土)に佐藤亜紀さんの朗読会(@本の場所)に行ってきました。

内装や木の椅子(ちょっとお尻が痛かったけど)も可愛くて、
前(というべきか、演台の後ろというべきか)にかけてあった絵も素晴らしく、
とても素敵な会でした。

絵は真野暁亭のもの。虎の絵の毛並みの描き方、爪の感じなど、可愛くて、中央にかけてあった涅槃図(は涅槃図としか説明がなかったので、特に作者名とかは分かってないのかな??)も、動物たちが集まってきて嘆き悲しんでいる様子が、動物好きにはたまらない感じです。

ちょっとどの程度詳しく書いても大丈夫なのかよく分からないのですが、
(1)最初に少し『吸血鬼』の制作に関わるあれこれについてお話しされて、
(2)その後第4章の朗読、
(3)質疑応答
(4)『スウィングしなけりゃ意味がない』(現在『文芸カドカワ』において連載中)の朗読
という流れでした。盛りだくさん。

偶然なのでしょうけれど、『吸血鬼』のなかには朗読会の場面もあるので、その『吸血鬼』で朗読会、というのが素敵ですよね。
あえて朗読会ではない場面を朗読されたのが佐藤さんらしいと思いますが…。
作中に出てくるクワルスキの詩は、典型的なロマン主義の詩をイメージしてのもの、「バイロン卿ごっこ」とのことでした。

すでに何人かツイートされている方がいらっしゃるようですが、
まず初めに『ブレーキングバッド』の話から入り、『ブレーキングバッド』についていた(付録の?)台本からの発想で、
描写をどこまで切り詰められるか、どこまで省いてもイメージが湧くか、ということをやりたかった、というお話。
また、物(から)の一人称視点というのも、試しているそうです。
これは『小説のストラテジー』や『小説のタクティクス』からも連続する内容でした。

あと、これは質疑応答のときに出てきたお話だったでしょうか、
舞台になっている地方(ガリチア地方)の、言語の話や、ルテニアカトリックの話も面白かったです。
ルテニア語というのはほぼウクライナ語なんだそうです。

本文中で使用している方言は佐藤さんの地元の方言なのだそうですが、
あ、こういう風に読むんだ、というイメージが朗読を聞いて初めてつかめました。
ただ、新潟方言は全然発声から違う、それを一緒に朗読するのが難しい。
標準語の部分と一緒に読むために、発声などは標準語的なものになっている、とのことでしたが。
実際にはルテニア語とポーランド語(あるいはドイツ語)との違いは、標準語と新潟方言よりも大きい、けれども自分がつかえる方言が地元の方言だけだった、とのこと。

そして何より、ご本人は朗読というものをするのは初めてだ、とのことでしたが、
朗読の時間が素晴らしかったです。
『スウィング…』の朗読まで聞けて…。

サインいただきました(ちゃんとサインペン持ってくんだった)。




紙の上の蠹虫:佐藤亜紀『吸血鬼』(その2)

2016-03-27 15:34:55 | 佐藤亜紀関連
(続きです)

【様々な物語】
ゲスラーの物語、英雄として死ぬというクワルスキの物語、叛乱を画策するヤンの物語、刺繍の布を奉納し、ゲスラーの魂をこちら側にとどめておこうとするエルザの物語。
「これは芝居の筋書きだ。詩人は拒否する」(254頁)など。
さまざまな人々の物語が、しばしば自己言及的に語られるが、最終的に裏で糸を引いていたのはウツィアであったという。ウツィアの物語。

【穴】
村民たちは変死者や産死をしたものがいた場合、「壁に穴を開けて足のほうから出」し、その「穴」を塞ぐ(66頁)。
紙についた蠹虫が開けるのも穴。
村民たちは貧しく食べるものがなくなった場合、「納屋に穴を開けて」物持ちの家から盗みをする(238頁)。
エルザが亡くなったときに、穴を開けることができなかったために官舎の窓から出し、窓を塞ぐ。
クワルスキも自死だったため、窓から出し、そこを塞ぐ。
クワルスキが「自分で射撃の的にした」ために、肖像が「何箇所も破れ、顔の部分は完全に穴が空いている」が、ゲスラーは「修復に出せばいい」と言う(277頁)。

【血と生殖】
馬車の軸が折れたとき、通りかかったヤレクが「産後の肥立ちの悪い女が一人死んだだけ」(8頁)という話をしている。
二番目の怪死であるオパルカの妻も出産中の死。
エルザも流産による死。
ウツィアも最初の妊娠のときに流産してしまい、おそらくそのためにその後妊娠ができなくなったのだろう、子供がいない。
エルザの流産では大量の血が描かれるが、出産は血が出るもの。
一方で吸血鬼は血を吸うものであり、「怪死」は、まるで血が抜かれているようだと言われる。
ただし、「ウピール」とも呼ばれる「吸血鬼」は、「ゲーテが書いたような美女でも、バイロン卿が書いたような青褪めた美男子でもない」「最初は形がない。家畜や人を襲って血を吸うと、ぶよぶよの塊になる。更に餌食を貪ると、次第に人の形を整える」(170頁)。
ところで、エルザが流産したときに呼ばれたバルトキエヴィッツが、妊娠について次のように語る。
「姿形は泉の精か川の娘のようでも、腹の中にはどうしようもなく下等な動物的器官を備えている。異物を飼うための器官をね。人間は寄生虫のようにその胎に取り付き、根を下ろして十月十日、ちゅうちゅうその体液を吸って肥え太る。それだけで女はもうふらふらだ。時々はちゅうちゅう吸いすぎて母親を殺す」「どうにか殺さん程度に自制して、血を吸って真っ赤に膨れ上がった蚤みたいになって、女の細腰じゃ支えきれないくらいになると這い出して来て、今度は二つのおっぱいからまた吸って更に肥える。それから二本の足で立つと、別の寄生虫を孕ませに出かけて行く」(205~206頁)。
人の胎内に宿る赤ん坊が、あるいは人間そのものが、血を吸う寄生虫に喩えられるが、「ウピール」の描写に類似することに注意したい。胎児が、それから人間そのものが吸血鬼のようなものとして語られるのである。

【紙の上の蠹虫】
ゲスラーが官舎に到着する前、古新聞の山には蠹虫が湧いていた。その新聞は竈の火で焼かれる。「炎の中で何かがぷちぷちと弾ける。袖を這う数匹を目敏く見付ける」(30頁)。虫が湧くのを防ぐために、虫除けの油が塗られる。「本が食われたら大変です。書類の方も確かめましたが、何箇所か食われていました」(30~31頁)。繰り返しとなるが、蠹虫は紙に穴を開けるものなのである。
蠹虫が、もう一度描かれる場面がある。エルザが亡くなった後、その異様な儀式中に気を失ってしまったゲスラーの夢になにものか(ウピール?)があらわれるが、ゲスラーはそのなにものかの忠告を受け入れて目を覚ますことにする。目を覚ました後、目を通した書類の隙間に蠹虫があらわれるのだ。
「紙の間から銀色に煌く何かが素早く這い出す。蠹虫だ。ゲスラーは拡大鏡を取って捕まえようとするが、それはもう姿を消している。通達の束を取って、床の上で振ってみる。辞書や要覧のページを捲って巣くっていないことを確認する」「真冬だし、大発生はあり得ない」(229頁)。
ゲスラーの夢になにかがあらわれた後の場面であることに注意したい。つまり、蠹虫は、その何か、ウピールなのである。
『吸血鬼』は、紙を食い破り、人が書いた文字に穴を開ける蠹虫と、その穴を絶えず修繕し、塞ぐ言葉の物語である。

佐藤亜紀『吸血鬼』講談社、2016年



紙の上の蠹虫:佐藤亜紀『吸血鬼』(その1)

2016-03-27 11:31:29 | 佐藤亜紀関連
お引っ越ししました。
まだいろいろ散らかってます。
ようやく佐藤亜紀『吸血鬼』を入手して読んだので、気づいたことをメモ的に書いていきます。
まだメモ的な段階で、とっ散らかっておりますが…

*********
【梗概及び登場人物】
主な登場人物は、役人のゲスラー、妻エルザ。ひそかにエルザを慕う、官舎で働くマチェク。マチェクの父。
かつての詩人で領主のクワルスキと元農民の娘の妻、ウツィア。甥のヤン、医者のバルトキエヴィッツ。
異様な風習を実行してお金を稼ぐよそ者の「正直者のヤレク」。
ゲスラーの夢にあらわれるなにものか。

役人のヘルマン・ゲスラーはポーランドの田舎村に美しく若き妻、エルザを連れて赴任する。
村には、かつての詩人クワルスキが暮らす領地があった。
村は貧困で、迷信がまかり通っており、その前任者が赴任したばかりのころ、暴動を未然に防ぐためにおぞましい儀式が行われたのだという。
「市民的」なゲスラーは、そのようなやり方を避け、村に文明をもたらしたいと考えるが…。不審死が相次ぐなか、自分もその方法をとらざるをえなくなる。妊娠した妻が流産で亡くなると、村人たちの手前、妻に対してもその異様な儀式を行わざるをえなくなり、さなかにゲスラーは3日間意識を失う。
一方でクワルスキの甥で養子のヤンは、叛乱を企て、クワルスキの詩の朗読会の夜、バルトキエヴィッツとともに屋敷の納屋に武器を持ち込む。
クワルスキもウツィアもそれを知っており、ヤンが無理やりマチェクを引っ張ってきたため、マチェクもその場にいたことにされてしまう。
やがてヤンが捕まり、ウツィアに武器を見せられたゲスラーは、被害を最小限に抑えるために、クワルスキがそれを「発見して引き渡してくれ」た体をとろうと説得するのだが。反対にクワルスキは農民を集め、「武器を取れ」と唆すものの無理だと悟ると、銃で自殺する。
ヤンを密告したのは実はウツィアであり、領地を捨てて出ていきたいと言い出して聞かないクワルスキを領地に閉じ込めるために彼女が仕組んだことだと分かるが…。物語はウツィアとゲスラーとの会話でとじられる。

【詩と法と演劇】
小説の中には、詩と法律と演劇という、質的に異なる三つの言葉が描かれる。
(1)詩
物語はクワルスキの詩の引用から始まる。
クワルスキはかつての流行詩人であり、今では誰の記憶にも残っていないが、実は今も書き続けているのだと言う。クワルスキが行う自作の詩の朗読会が、物語の舞台にもなる。
ゲスラーもかつては詩を書こうとしたことがあり、ゲスラーの夢に現れるなにものかは、詩にとって大切なのは「韻律」ではなく、「小さな子供たちに雨の後の虹を見て取ったり、小川のせせらぎにひっそり囁く声を聞き取ったりする」ことであり、ゲスラーの「声は詩人の声」だという(26頁)。
異様な儀式の日、そしてなにものかに魅入られて向こうに行ってしまいそうなゲスラーを守るためにエルザが教会に刺繍の布を奉納するときにあげられる祈祷は、聖書の「詩篇」の第二篇である。

(2)演劇
朗読会のときのクワルスキの声についてマチェクが「役者にでもなれば良かっただろうに。何て声だ。読みっ放しで声が嗄れるどころか、ますます調子を上げてるじゃないか」(125頁)と思う。
「本物の英雄」として死のうとしたクワルスキの詩集を出版することで、ゲスラーは「言葉のほうが強く、長く残ることを証明」しようとする(280頁)。

(3)法律
ゲスラーは役人であり、「出産、結婚、死亡の記録と収税」が仕事である(11頁)。
「大奥様」と呼ばれる先代の領主から学費の援助を受けてもう少しで学位をとるところまでいったマチェクが、ゲスラーから「いずれ地方官吏の採用試験を受けられるよう推薦する」からと言って勉強するよう勧められたのは法律であった。
ゲスラーとマチェクが整理して紙に書きつける書類は、村民を「数字で勘定する」仕事である(36頁)し、実際的なウツィアも、義母から言われて「帳簿」をつけていた(54頁)。物語の最後で、ウツィアとゲスラーが話し合うのは土地の活用のことであるし、マチェクに学位をとらせて弁護士にしようとする。

【物言う林檎】
詩人であった時代、「農民の娘を娶ることで、身分の別を超えたポーランド人の一致を身を以て示そうと考えた」クワルスキがたたえたのは、彼女の「物言う林檎のように色付いた小さな唇を持つ胸乳」であり、「その胸乳と囁き交わす密やかな対話」であり、当局が問題にしたのも「この物言う乳首」であった(4頁)。ウツィアは「林檎の君」「二十年後の林檎の君」である(20頁)。
ところで、ヘルマン・ゲスラーというのは「「ヴィルヘルム・テル」の悪代官」(21頁)の名前と同じだが、「ヴィルヘルム・テル」と言うと、息子の頭の上に置いた林檎を、この悪代官に強いられ射貫いたエピソードが有名だろう。
クワルスキはポーランド独立の反乱の「英雄」になろうとして死んだが、ウツィアは何度かゲスラーを誘惑し、ゲスラーも「放蕩者」でもある。物語は「林檎の君」ウツィアとゲスラーとの恋の雰囲気の中で閉じられる。

【火と紙と文字】
(1)火
赴任途中、馬車の車軸が折れたために急遽泊まることになった宿屋の「煉瓦を積んだストーヴ」は「火が入っている」(10頁)。官舎の「書斎のストーヴには朝から火が入っている。少しずつ、ゆっくり温めないと罅が入る」から(28頁)。
ゲスラーの前任者が恐れたのは、誰かが隣の村で嫌われ者の「家に火を付けた」(14頁)から。
たばこに火を付ける場面も。マチェクの父は煙草を作るのが上手。

(2)火と紙
ゲスラーの前任者は、「焚き付けとか、色々と用途がおありでしょう」(11頁)と言って、「開いた痕跡もない古新聞の山」(10頁)を置いていくが、これには蠹虫が大量に湧いており、台所のかまどで燃やされる。
おぞましい儀式の夜、クワルスキは「書き掛けの原稿」を「鷲摑みにして暖炉の前に引き返し、中に放り込む。紙は縁からじりじりと黒く縮れ、やがて炎を上げて燃え始める。暖炉の縁に手を突いたままクワルスキは原稿が灰になるのを眺める。屑だ、と思う。こんなものは全部屑だ」(194頁)。

(3)紙と文字
赴任時、宿屋に泊まることになったゲスラーは、宿帳に「ペンを取って、彼は名前を書き付ける。――ヘルマン・ゲスラー、及び妻エルザ」(10頁)。
前任者には「字はお綺麗なようなので、書記は必要ないでしょう」(10頁)と言われる。
ゲスラーはクワルスキの詩集『夢の中で』に、サインをもらう。「クワルスキは本を手にしたまま書物机に歩み寄り、立ったままペンを取って書く。丁寧に吸取紙にインクを吸わせると、開いたままゲスラーに差し出す。美しい筆跡は、親愛なる代官殿に、友にして敵アダム・クワルスキ、とある」(18頁)。
ヤン逮捕後の場面でも、ゲスラーは「素早く走り書きを認め」、マチェクへ届けてもらう(248頁)。ウツィアの各策を知った後も、「用箋を出し、報告書を書き始める。ペン先が引っ掛かる度に無理矢理押し切るようにして、インクが飛ぶのも意に介さず暫く書き続けているが、不意に手を止め、用箋を細く丁寧に畳んで捻る。また書き始める」「立って、書き損じを纏めて摑んでストーヴに放り込む」(269頁)。

【様々な言葉】
田舎で訛りがひどい、違う言語を話しているなどで、言葉が通じないという状況が描かれる。
クワルスキはポーランド語で詩を書き、ゲスラーの妻はポーランド語がよく分からない。この地域の人たちは「ルテニア語」を話すが、読み書きができるものは少ない。ゲスラーはかつては「チェコ語」で詩を書いていたが、「何語でも」詩の「才能」はないと言う(19頁)。マチェクは「ルテニア語、ポーランド語、ドイツ語とラテン語が一応。フランス語も少し」(31頁)できたために通訳のようになり、エルザに地元の言葉を教えもする。
ゲスラーはプラハに行ってクワルスキの遺作を印刷する。

******
…長くなってきたので、いったんこの辺で切ります。
またあとで続き書きます。





顔の物語:佐藤亜紀『小説のタクティクス』

2014-04-25 11:30:55 | 佐藤亜紀関連
あ、いま近くの自衛隊で大砲が鳴った。
のすけちゃんが震えているわ、可哀想に…

最近、気候が良いせいで犬を庭に出すとやたら長い間遊んでいるので、
それを見ている間(うちの犬はなぜか人が見ててあげないと安心できないらしい)暇でしょうがなく、本を読んでいます。
なので、ようやく積読本が少しずつ片付いてきました。

感想、書いておきますね。

 佐藤亜紀『小説のタクティクス』(筑摩書房、2014年)は、前作『小説のストラテジー』(青土社、2006年)と対をなす、小説の表現をめぐる評論です。

 『小説のストラテジー』は早稲田大学での講義、『小説のタクティクス』は明治大学での講義をもとにしたもので、どちらも詩や小説を書きたいと思っている学生が対象だったと思います。『ストラテジー』のほうは戦略、『タクティクス』のほうは戦術。戦術は戦略を実現するための個別の方策をさすもの。

 比較的分かりやすい本でしたし、最後に懇切丁寧なまとめがありましたので、私のほうで概要をまとめることはしません。
 近代特有の概念である「固有の顔」が成立し、崩壊する過程を、いくつかの絵画や映画、小説を通して分析したもの、とだけ紹介しておきます。「顔」や「薄皮」など、美術史や表象文化論方面でよくつかわれる比喩が用いられていたことも特徴かな。

 比較的飲み込みにくいかと思うのが、「戦略」と「戦術」の関係。
 戦略のほうが大きく、戦術のほうが細かい、固有の方策を指すのですが、いわゆる私たちが描かれている「内容」だと思っているものが、「戦術」なんですよね。
 大事な部分なので引用します。

小説における戦略は、形式をめぐって展開されます。では、その形式はどこから引き出されるのか、何がある形式を生み出すのか、何からある形式を作り出せばいいのか。これが、小説における戦術上の問題です。(15頁)

 異なる時代、地域の芸術作品を目にしたときに、われわれが受け取ることが出来るのは形式だけである、したがって形式が戦略となる。そして、その形式をいかにして埋め、充実させるか、ということが戦術である、と佐藤は言います。

 芸術における戦術の問題とは、即ち、様式の問題です。戦略の観点から言えば、作品を形式においていかに充実させるか―どのように十全に感覚への刺激を機能させ、どう組織化していくか、が最重要の問題になりますが、戦術的には、今、ここで、何をどのように取り上げるか、その結果どのような形式が可能になるか、が問われることになります。これは完全に同時代的な問題であり、故に常に移ろっていく、様式の変化の問題でもあります。(26頁)

 ここさえ飲み込めれば、あとは、先程述べたように、固有の顔をめぐる比較的分かりやすい分析になります。
 ところで、この部分の飲み込みがたさ、形式=戦略であり、内容=戦術である、ということも、「固有の顔」をめぐる概念と関わっているように思います。なぜならば、その人の統一された人格を象徴する「固有の顔」という概念がまさに、「内容」を信奉する小説観を形作っているように思われるからです。

おまけ:私が仕事に行く準備をしているので、いじけてるのすけちゃん。

後ろに写ってるのが犬ベッドの残骸。前にある敷物(古い足ふきマット)もかじってます。

  

侯爵夫人の靴―佐藤亜紀『金の仔牛』

2013-04-10 10:23:29 | 佐藤亜紀関連
 今日はシフトが午後に変わったので、のんびり。
 午前中のほうが家でいてもすることが少ないので、(午後仕事のほうが)ゆっくり論文書いたりなど、できます。
 そのぶん、おうちのなかのことを手伝ってないことになりますが…。

 しばらく積読状態だった、『金の仔牛』をやっと読んだので、レヴュー書きます。


   ***   ***   ***

 前作『醜聞の作法』と似たテイストの小説。前作では「醜聞」(スキャンダル)が物語を展開させるが、『金の仔牛』では、株と紙幣がモチーフとなる。共通点はどちらも、人の噂を媒介に膨れ上がるものであること。主人公は若い追い剥ぎだが好感度は高いし、なんと言ってもヒロインが可愛い。

 18世紀フランスを舞台とした佐藤亜紀『金の仔牛』は、若い追い剥ぎアルノーと故買屋の一人娘ニコルの恋と、株取引が重ね合わされる歴史小説だ。投資家カトルメール、故買屋ルノーダン、金細工師で裏で糸を引くヴィゼンバック兄弟に、人を殺すことに快楽を覚え、ニコルに執心する「人喰い鬼」の貴族オーヴィリエなど、一癖も二癖もある登場人物たちが暗躍する。

 アルノーはある雨の日、襲った老紳士から、儲け話を持ちかけられる。それが、フランス政府の借金を肩代わりし、北アメリカの開発を目指す通称「ミシシッピ計画」の投機をめぐる話だった。投機をめぐって資金を調達する話を引き受けたアルノーは、たまたま宿屋で夫らしき男性(実は忠実な使用人)から逃げ出そうとしていた娘を一緒に連れ出す。彼女が、アルノーも世話になっている故買屋ルノーダンの大事な一人娘であったことから、物語は新たな展開を見せる。ルノーダンは怒りのあまり、アルノーの首を賭け金に、オーヴィリエを投機話に誘い込むことになるのだ。一方でアルノーは、投機話を持ちかけた投資家のカトルメールに目をかけられ、ニコルと二人、着飾ってパリの社交界にデヴューすることになる。株価は膨れ上がり、アルノーは摂政殿下にまで覚えめでたき青年実業家となる。パリに豪華な邸宅を買い、立派な結婚式を挙げる。
 けれども豪華な生活にふと虚しさを感じたある日、アルノーは株取引から足を洗い、田舎に引きこもることにする。期を同じくして株価の暴落が始まり、カンカンポワ街での取引が禁止されたのだった。カトルメールはイギリスに渡り、カトルメールの秘書ゴデが、新しい株取引のシステムを思いつく。その株取引に引っ張り出されたアルノー。やがて株取引は、株券と紙幣の段階的切り下げのために破綻する。参加する投資家の一人、オーヴィリエのもとから送り込まれた通称「蜥蜴」の資本には、実はアルノーの首が賭けられていたのだが、アルノーの危機を救ったのがニコルのつくった金貨だった。

 この作者の小説にしてはリーダビリティも高く、明るく、ノリもよい。あまりに安定感がありすぎ、安心して読めてしまうため、この作者にトチ狂ったような迫力を求める向きには、ひょっとしたら不満が残るかもしれない。それでいて、ニコルがアルノーを救うために思う「これとあれとそれを足し合わせて、端と端がぴったり合わさるような何かを考えなけりゃならない」(74頁)が文芸行為と重なり合うなど、この作者らしいメタフィクショナルな構築性の高さも魅力だろう。

 お内儀がニコルとの恋について「これは損な取引だよ」(24頁)と言うように、恋愛模様と株取引は分かちがたく結びつき、双方向に表象し合うのだが、余計にややこしいのが、一人の人間が投機の対象でもあり、賭け金であり、プレイヤーでもあるような状況だろう。結末部分の大団円に至る展開も、ヒロインニコルが単なる投機の対象や賭け金ではなく、プレイヤーでもあったこと、そしてそれを一部の主要登場人物が全く知らなかったことによって可能になる。

 さて…、アルノーの「憑き物が落ち」、田舎に引きこもることを決める場面。財産処分に関し「衣装はお袋さんに仕舞っといて貰え」と言われたニコルは、株取引をやめればオペラなど行かないから、「売っちゃえばいいよ」(228頁)と言う。けれども結末部分でアルノーを救い出すために出かけるニコルは、「薄い青林檎色の衣装と侯爵夫人の靴」(284頁)を出させる。彼女はすべての衣装を売り払ったわけではなかったのだ。
 「侯爵夫人の靴」は、ニコルのために故買屋(ニコルの実家)のお内儀からアルノーが貰い受けてきたもので、「寸法も判ってるみたいだね。男のくれる靴なんて、がぶがぶかきつきつか、どっちかなんだけどね」(26頁)とお内儀から感心されたもの。ニコルが履いて実家に衣装をおねだりに行ったことで、アルノーとの関係がルノーダンにバレてしまう。衣装は、靴に合うものをとニコルがカトルメールにおねだりしたもの。「大使夫人が頼んだけど取り止めにした衣装」で、「ぴったりだった」(53頁)、はじめてオペラに行ったときの組み合わせだ。これ以後、彼女はたくさんの衣装を着、靴を履くが、それは全て彼女のために誂えられたものであり、「侯爵夫人の靴」と「薄い青林檎色の衣装」だけが、彼女以外の人間のために仕立てられた衣装だった。それを売らずに残していたことに注目しよう。考えてみれば故買屋も、追い剥ぎも、他人の人生を引き受け、あるいは剥ぎとって、別の人に引き渡す仕事だと言えなくもない。
 ぴったりだった衣装と靴は、結末部分では妊娠のために、衣装は「まだ直さなくてもどうにか着られる」が、靴は「少しきつい」(284頁)。結末部分でニコルとアルノーはイギリス行きのことを考えるから、「大使夫人」のような人生を、まだニコルは送る可能性があるのだろう。一方で「侯爵夫人」のような人生は、もう時効をきたしている。いかにもヒロイン然とした、賢く可愛いニコルのむくんだ足は、妊娠のために、物語から少しずつ、抜け出し始めているのだろう。

 

講談社、2012年。

   ***   ***   ***

 そろそろお昼ごはんを食べて、仕事に行く準備をしなくちゃいけないから、この辺で。もうちょっと書きたいことがあったような気もするので、後から直すかもしれません。→ちょっと手直ししました(4月10日21時頃)。
 本当は論文書き書きとか、学会発表するかどうか今週中くらいには決めたほうがいいのでどうするか判断する(25~30分程度の発表で着地できそうな範囲を見計らう)とか、したかったんですが。
 あれ…?