人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

謹賀新年

2021-01-01 10:47:04 | 日記
 明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。

 旧年は本当に何が何やらよく分からないままに過ぎて、いろいろな意味でしんどい年でしたが、本年が少しでも良い年になるように祈っています。

 旧年中に発表したものとしては、査読のない論文が1本、依頼原稿1本、口頭発表1本で、少し寂しい1年になりました(最後に、『ユリイカ』の依頼原稿を書けたのは良かったですが)。
 なかなかまともに自分の文章や研究に向き合うことのできない状態が続き、これではだめだな、と身に沁みましたので、本年はきちんと自分の文章に向き合える年にしたいです。
 自分で食べていかないといけないと思うと、どうしてもしんどいことになるのですけど、そういう生活を続けていては、結局先がないので。

 非常勤先で担当している、日本文学と、ポップカルチャー論の授業は、本にしたいと思っています。
 ずっと言っていることなのですが、博士論文をもとにした専門書も出したいのですが、それはもう少し金銭的にも時間的にも余裕がないと難しいかな、と思っています。

 とりあえず、ちょっと幸せになりたい(もっとわんもふと長く一緒にいたい)です。


(うちの今年の年賀状です、弟作成)。

若い女性だからといって舐めるんじゃない!

2020-05-12 23:21:25 | 日記
…って、私の話じゃありません、もちろん。
 私はもう若くないですしね、さすがに私のことをなめてかかる猛者はそんなに多くないです。きゃりーぱみゅぱみゅさんの件です。

 歌手のきゃりーぱみゅぱみゅさんが、「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグでツイートを投稿したところ、「歌手やってて、知らないかも知れないけど」という前置きで「文化人放送局」を名乗るアカウントからマンスプレイニング(「男性が女性を見下ろす感じで説明すること」『現代用語の基礎知識』2019)を受けたり、「政治的なこと」について意見を公にすることに関して、「がっかりした」「イメージが崩れる」「やらないほうがいいですよ」などのコメントがあり、結果として「ファン同士がけんかするのが悲しい」という本人の説明つきでツイートが削除されることになりました。

 この、「歌手だから」(芸能人だから)「政治的なこと」については意見を表明しないほうがいいですよ、というの、「漫画家だから」とか「作家だから」とか、いろんなバリエーションがあって、いったいどんな人間であれば、「政治的な」意見を表明してもよいのか、と思ってしまいます。
「政治的なこと」というのは、何も特別なことではありません。
「個人的なことは政治的なこと」というのは第二派フェミニズムのスローガンですが、逆に言えば、どんなに個人的なことも、日常生活も、政治と地続きでつながっています。
 例えば私は大学院を出て学位をとった研究者ですけれども、私自身がまともに生きていけるかどうか、そして研究を続けていけるかどうかということは、国の文教政策や科学技術政策と密接に結びついています。そして私のような研究者という特定の人間だけではなく、今回の新型コロナウィルスによる感染症の流行に関しては、より多くの方たちが、自分たちの生存や生活が政治と直結しているという状況に、対面せざるを得なかったと思います。
 そういう、自分自身の生活や利害と密接にかかわっているものが「政治」ですので、政治的なことについて意見を公にすることはごく普通のことであるはずですし、逆に全く意見を表明しないというのは、一個人としての責任を健全に果たしていないようにも思えます。

 そしてもう一つ、若い女性が政治的(なり何なり、古い価値観で「女性にふさわしくない」と言われる領域のことについて)意見を表明すると、すぐにマンスプレイニングを受けるという問題があります。
 きゃりーぱみゅぱみゅさんは、例えばこういう記事「きゃりーぱみゅぱみゅは、なぜ今変わる? 世間へのプチ反逆を語る」(『CINRA.NET』2018年10月5日)を見ても、きちんと自分で考え、自分のことばでものを語ろうとしている人のように思えます。衣装も歌詞もエッジのきいた感じで、「ただのかわいいアイドル」という雰囲気じゃない。もちろんどんな女性でも(いわゆる「かわいいアイドル」という感じの女性でも)、マンスプレイニングを受けていいわけはない(受けているのを見るとむかつく)のですが、これだけ頑張っててエッジィな感じにしてても、若い女性でぱっと見なんか可愛ければ、おっさんになめてかかられるというのは絶望しかない、どんな頑張りも意味がないのか、という感じがしてしまいます。

 こういうかたちで、一人の女性が自分なりに発信したはずの「ことば」が消されてしまったことが、なかったことにされてしまったことが、本当に悔しいです。
 悔しいです。



セクシャリティは「趣味」なのか

2018-08-17 13:39:22 | 日記
こんにちは。
例の杉田水脈議員の記事についてのあれ、ですが。

「セクシャリティは趣味」「LGBTは生産性がない」
との文言について、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏がご自身のブログで批判したことが話題になっています。
■「「ここにいるよ」と言えない社会」(ロバートキャンベル公式ブログ『つぶて文字』)

ロバート・キャンベル氏の批判はとてもまっとうなものですが、それはそれとして、若干もやもやするものが残ります。
というのも、私自身は
セクシャリティを確立することによって自己なり自我なりが形成されるという物語
を解体したい、と考えているからです。
その中心にあるのは異性愛主義ですが、異性愛だけではなく、そもそもセクシャリティに意味をもたらす構造自体を打ちたい、のです。
だから私が重視するのはアセクシュアルな感覚やセクシャリティはよく分からない、というあり方ですし(私自身も正直セクシャリティはよく分かりません)。

ですが、杉田氏の記事のような単純な偏見に対しては、アセクシャルな感覚や「よく分からない」セクシャリティは、対抗手段として複雑すぎます。
そうはいってもやはり、自分の立場からセクシャリティは「生を貫く芯みたいなもの」というふうに言ってしまうのはためらわれる。
それだと近代社会や近代小説の文法にからめとられてしまう。
そもそもが異性愛主義にのっとって社会保障や社会の仕組みがデザインされていることが問題だと思うので、そこを批判したいのですが、
ちょっとどうしようかな、ともやもやするのでした。

どんな意味でも「生産性」のないうちのわんわんたち。
   

売れる犬をどんどん繁殖させて売ることが「生産性」なのだとしたら、そんな「生産性」は要らないよね、ゆめちゃん。
  

というかそもそも、生まれてきた命をめいいっぱい幸せにすることが大事なんであって、
生まれてもいないものを殖やせとか殖えないとか意味分からない。
2年くらい前から心臓のわるいテリちゃん。気管も老化してるって言われたけど、健康に長生きしてほしい。


避妊・去勢手術をすると太りやすいので要注意。ぽてぽてしていて可愛いけれど、健康には悪い。
   

生んだ覚えはないけれど、私の子どもののすけちゃん。


一時預かり中のくりん君、里親さん募集中です。

詳細は保護主さんのブログ「おうちで暮らそう」でご確認ください。
→2020年1月2日に急逝しました。

【追記】
私としては、同性であれ異性であれ、生活を共有するために最適な相手とパートナーと慣れればよいと思うし、そのために必要な社会的保障があればなあ、と思うのです。
それは性的な意味でのパートナーと必ずしも一致しなくていいと思うし。
だから、その個人にとってセクシャリティが重要なものであるかどうかに関わらず、またどんなセクシャリティであるかに関わらず、ともかく生活しやすい社会であればそれでよいので。
私としては、のすけちゃんが懐いてくれて(これが一番難しい)、私に何かがあったときに、のすけちゃんの世話をしてくれる相手であればそれでいいんですけど。

謹賀新年2018

2018-01-01 20:59:48 | 日記
旧年中はたいへんお世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


2017年も、2016年に引き続き大きな変化のあった年でした。
7月に転職、塾講師から研究所の研究員になりました。
新しい仕事には、まだ今一つ慣れていない感じですが、ともかくこれまでよりも次のポストにつながりやすいお仕事に就けたかなあと思っております。

9月から「哲学、文学、歴史といった人文学の研究者と、市民のみなさんを結ぶ学びの場」である「クニラボ」で、市民講座のお仕事も始まりました。
これもようやく90分の時間感覚がつかめてきたくらいで、まだまだ修行中ですが、頑張ります。

12月には拙著、『『源氏物語』女三の宮の〈内面〉』(新典社新書)が刊行されました。
私の研究の内容を一般向けにさくっとまとめたもので、〈内面〉がないと見られがちな女三の宮の心内語や心情描写が意外とあることに注目し、「恋愛しない」人物像を浮かび上がらせます。

研究論文は1本。『源氏物語』中に描かれる雛や人形(ひとがた)を、「人形」(にんぎょう)として総合的に論じた「『源氏物語』の人形論―雛と「人形」の手法」(『頸城野郷土資料室 学術研究部 研究紀要』vol.2(no.5) 、2017年8月)です。現代の球体関節人形なども参考にし、性愛に拒絶的な女性の自己像との関係も論じています。
数年前に行った学会発表がもとになっていて、ようやく形に出来たなあという感じです。
2017年は研究論文が少なかったのですが、転職もしたし、新書も出したので総合的にはまあまあだったかな、と思います。
学会発表はしなかったですね。口頭発表だけしてまだ論文に出来ていないネタが山ほどあるので、これ以上発表を頑張ってしなくても、という感じもありますが、1回くらいはやってもよかったですね。

まだまだ私の苦しい日々は続きますが、それでも少しずつ状況はよくなっている気がします。
自棄にならず、飲み過ぎないように気をつけます。少し血糖値も高いので、食生活も気にした方がいいのかな?

2018年の抱負ですが、専門書(博士論文をもとにした単著)を出したい、少なくとも出すまでの話に持っていきたいと思っています。
悲願が、求む!授業歴!です。
いわゆる最初の非常勤問題をどうにかしたい…です。
産休代理でも何でもいいのでほしいです。日本語教師の資格なら持っています。

それからまだ申し込みを済ませた段階ですので詳しいことは書けませんが、一つパネル発表を企画しております。とてもいいパネルになると思います。ご期待ください。

実家で一時預かり中の保護犬ちゃん「くりんくん」もどうぞよろしくお願い致します。

里親さんになることをご希望の方は、保護主さんのブログ「おうちで暮らそう」から、申し込みができます。譲渡条件等も載っています。
→2020年1月2日に急逝しました。


炎上サントリーCMの問題点

2017-07-16 22:20:15 | 日記
こんばんは。
新しいお仕事が始まって約二週間、まだ全然分からない状態ですが、とりあえず、毎日何を着て行ってもいい自由(前の職場は厳しかったんです)を謳歌して、開放感を味わっています。ワンピが基本☆の自分に戻れて嬉しい。
ただ、なかなか朝型生活に馴れることができないので、体はちょっとしんどいです。毎日暑いですし。

なかなか『スウィング…』レビューの続きを書けなくてごめんなさい。
近日中に更新します。
今日はもうちょっと気楽に書けるネタで…。

ということで、少し前に大炎上してた、サントリーのビール「頂」のCMについて。

1.王の国見あるいは貴種流離と接待文化
簡単にどういうCMなのか説明しましょう。
基本の型は、視点人物(男)が、様々な場所に出張に出かけ、その土地土地で美味しいものを食べ、ちょっとかわいい女の子と仲良くなり、その女の子と「さし」で飲みあって、最後に男の持っていたビール「頂」を女の子が飲んで、幸せの「絶頂」に達する、というもの。
男は映像も声も一切出てきません。視聴者が男の視点に移入する…、ことが目論まれているものと思われる。
話題になって初めてショートバージョンを見たときに、これはないなあ…、と思いました、私。

いくつかの記事(→例えば、「サントリーのビールCM炎上の舞台裏 電通社員「炎上を狙うことがある」」)で指摘されていたような、「お酒飲みながらしゃぶるのがうみゃあ」「肉汁いっぱい出ちゃった」「コックゥ~ン!しちゃった」などのセリフが卑猥だと思ったわけではありません(それよりは「二週間前に彼氏にフラれて」とか「えー、一流企業」とかのほうがよっぽど不愉快だな)。それを言うならばそもそもがものを食べるということは性愛の隠喩です。

それでは何が「ない」と思ったのか。
端的にいえば、ものすごく女の子たちの行動が、「接待」臭いんです。それに加えて、男が出張で各地をまわるという設定。
これ、何か連想しませんか??
日本で高度経済成長期からバブル期くらいまででしょうか(私は1980年生まれなのでリアルには知りませんが)、盛んだった、接待文化みたいだなあ、と思うわけです。中央省庁のお役人や、本社の社員が地方に行って接待を受けるという。
もうちょっと抽象的なお話をすれば、貴種流離譚において、流離した王子がその土地土地の女性と結婚するという話型があります。あるいは、古代「采女」という官職があったのですが、これは各地から献上され、天皇に近侍して食事などのお世話をする女官で、中央から地方への支配を象徴するものとされるんですよね。
ちなみに古代の酒は、乙女たちが口の中で米などを噛んで醸造したものと言われています。
ただ言うまでもなく、「頂」のCMで想定されている男は、王や王子ではありません。ただのくたびれた勤め人であっても、中央で勤めてさえいれば、地方に行けば「えー、一流企業」とか言って女の子がせっせと接待してくれる…、なんて、冗談言っちゃいけません。そういうのはお金払ってやってもらえ。

2.オリエンタリズムと女性の周縁化
そういうわけで、中央と地方との格差を強調することで、男性が女性の接待を受け、おいしい思いをするという構造を私は不愉快に思ったわけです。
そう考えると、女の子たちが(うさんくさい?)方言を話すことも、見逃せません。中央のことばではない、その土地土地のことばで話す女の子たち。そういえば女の子たちの顔も、美人と言えば美人なのですが、女優さんやモデルさんのようなシャープな顔立ちではなく、ちょっと垢抜けない雰囲気を演出しようという意図が透けて見えます。
ここには、いくつかの格差の構造が仕組まれています。中央と地方。男と女。都市と自然。その劣位の側に、周縁の側に、主体としての自分が見る、客体として見られる側に、女性を置く発想が、問題なのです。
私のこういう見方は、たぶんかなり古風なものです。研究史的な流行で言えば相当古い。けれどもそういう古い発想で見た構造に、ぴたりと当てはまってしまうところが、何ともやり切れないわけです。

ところで、「頂」CMの炎上をきっかけに、往年のサントリー名作CMをいろいろ紹介してた人がいましたけど、これなんか、中年男性の夢や妄想と言えば妄想ですけど、「えー、一流企業」なんて言う女の子より、「だからいつか泣かせてみようと思って」って言う女の子のほうが、絶対可愛いよなあ、と思います、です。