人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

昨日の続き。

2013-05-16 21:14:55 | 国語教育と文学
 井口時男「それでも言葉を書く」読みました。
 ご本人のブログで見ることができます()。
 昨日書いたことを、たぶんそれほど修正する必要はない。

 どのあたりから引用されたのか、確証はありませんが、たぶん、「文学は現実の悲惨に指一本触れられない。~文学の自由は真に試される。」あたりか、結論部分の「文学の声は多様なのだ。~文学は死ぬ。」あたりですかね?
 最初あげた部分は、安易に現実と関わろうすると宣伝や扇動となる。現実から自由である文学は一見無力にも見えるが、自由でありつつ現実と対峙する緊張のなかに、文学の意味はある、ということ。
 結論部分は、文学は多様な人々の声を拾い上げるものであるということ。この部分は、ちょっと修辞は多いけど、さして難しいことは言ってないかな。
 課題文があるので、200字くらいで要約してから論を展開するようにしてください。

 では!


ヨーグルトの容器で遊ぶカイちゃん。黒い犬だから、やっぱりあんまりきれいに映らない。


国立国会図書館採用試験「文学」教科書の企画案が、閲覧されてるようですが・・・

2013-05-15 22:40:06 | 国語教育と文学
 最近、国立国会図書館採用試験の「文学」を利用した、教科書の企画案が、やたら閲覧されてるようですが、試験が近いからでしょうか?

 検索してみて、「教科書作りませんか?」みたいな記事につきあたっても、受験生としては困ってしまいますよね…。

 だからちょっと、実際に「文学」で受験する人のためにアドヴァイスをしようと思います。
 ただ、まだちゃんと調べがついてないし、さすがに私もお金も貰わないで模範解答を書くなどの手間はかけられないので、簡単なコメントだけ。受験するつもりであれば、それこそきちんと図書館で調べてください。
 引用文もおそらく著作権の関係から省略されてますが、できるだけ探しておくようにしてください。

 最初の語句の問題は、文学辞典などで引いておくこと。丸暗記するのではなく、関連する情報なども見て、立体的な文学史の把握ができるようにしておいてください。
 きっちり字数通りに情報をまとめる訓練も重要です。

 昨年の試験問題についてですが、共通問題の「メタフィクション」の役割。
 フィクションがフィクションであることを明示した、フィクションの構造に自己言及的なタイプのフィクションを指すのですが、これ、国語の教科書などでは絶対出てこない感じのもので、知らない人は全然知らないかもしれない。ピンと来ない人は、とりあえずボルヘスの「バベルの図書館」(『伝奇集』)でも読んでください。図書館ネタだし、図書館受ける人にはいいと思う。最近のものだと、昨年芥川賞とった円城塔の小説は「メタフィクション」って言われてます。
 独自問題の「震災」との関連から言えば、「原発」との関係から、笙野頼子の『水晶内制度』or『おんたこ』三部作、というのもありかも。ただ、字数内で論じられるほど単純な話ではないので、あまりオススメは出来ない。
 わざわざ「メタフィクション」と言われる小説を読んで論じるよりも、何でも自分が専門とする(卒論のテーマとか)作品のなかで、メタフィクション的な部分を探してきたほうがいいかも(例えば私の専門とする『源氏物語』だと、末尾に「とぞ本に侍るめる」、とあるような)。
 論理の流れとしては①「メタフィクション」の定義づけを行うこと。②具体的な作品の分析(or紹介)。③「メタフィクション」の役割。と進めるといいと思います。ただ、600字~800字だと、大したことは書けない。
 「メタフィクション」の役割、というのも、何に対する役割なのか、ちょっと、曖昧ですね。だから、自分で決めなくちゃいけない。現実社会に対する役割なのか、個人に対する役割なのか、あるいは、純粋に文学的な役割なのか。個人的には、フィクションのフィクション性を自覚させることで、世界を変容させるとか、違和感をもたらす、みたいな方向性だと持っていきやすいです。
 国語教育などでの文学の扱われ方って、共感的な、登場人物に感情移入して、気持ちを理解するみたいな感じだと思うのですが、「メタフィクション」はそれとは方向性が逆。だから、国語教育的な、「人の気持ちを理解する」みたいな方向性だと、全然役に立ちません。まずそのことに触れ、それに対する反論として構成すると書きやすいと思います。

 独自問題が、「文学は震災に対して何ができるか」。
 これ、実は私まだ、井口時男「それでも人は言葉を書く」の調べがついてません。読んだらまた、記事書きますね。『新潟日報』と出展も明示されてるので、調べるのはそれほど難しくないはず。コピーをとったらまず、どこから引用されたかな、と予想を立ててみましょう。

 まだ調べがついてない状態なので、具体的なことはあとで書きますが、一般的に、「文学」と「震災」というテーマで考えてゆくときに、まず、文学は震災に対して無力である、という考え方について触れなければなりません。その上でそれに、反論する。
 「無力である」と言われるときの言われ方には3つくらいパターンあって、現実に圧倒されるから、どんなフィクションよりもインパクトが強いから、というのが1つ目。2つ目は、震災について言われるときの言説が、クリシェ(決まり文句)でしかない、生な実感を伝えるものにはなりえない、というもの。それから、どれほど頑張って言葉を紡いでも、現実を変えることが出来ない、というのが3つ目。字数がさほど多くないので、一つに絞って書くといいと思います。
 これに対して反論するのはなかなか難しいのですが、
・和合亮一のツイッター詩について
・いくつか、関東大震災後に影響を受けたといわれる小説もあるので、それについて触れる、など。
みんな書くでしょうが、600字~800字の小論文で、独自性を出す余地はあまりない。
 
 まあ、まず、「それでも人は言葉を書く」を読んでみないことにはどうしようもないですが。

 私の好きな作家に、W.G.ゼーバルトという人がいるのですが、「空襲と文学」というエッセイのなかで、ドイツには空襲を描いた文学はない、この作品とこの作品は一応書いているように見えるけど、単なるクリシェだとか、修辞であるとか、描いているとはいえないと言って、猛烈な勢いでダメ出ししていくんですよね。で、結局どういう書き方があるのかというと、ただ淡々と、修辞を廃して、書いてゆくしかない、というような。
 「空襲と文学」で扱われているのは、第二次大戦末期のドイツの空襲なのですが、「表象不可能」と思われるようなおおきな事件、事故、災害などについて言われているということで、思い出しました。

 こう見ていくと、共通問題にも独自問題にも共通するニュアンスを感じますね。文学は現実に対して何ができるか。世界をどう変容させることができるのか。もちろん、簡単に論じきれるような内容ではないですが、考えることはムダではない。

 関連する情報として、図書館のアーカイブ機能(震災の記録を残す)、最近の話題として、電子図書関係のことなど、調べておくと良いかも。


門の外を眺めるのすけちゃん。人が通ったので、吠えたそうに口が半開きになってる(吠える寸前)。

 

香川県の教育はヘン?

2013-05-12 20:39:44 | 国語教育と文学
 
のすけちゃん。

 なんだか久々の(ような気がする)ブログ更新。
 今日は長年抱いてきた、教育への違和感を書いてみます。

 私ずっと、子どもの頃は白髪があったし(いまはほとんどないと思う)、生きたくなかったし、大人になりたくなかったし、随分後ろ向きでした。学校をすごく窮屈に感じてた。なんで生きたくなかったかというと、学校では、生きていることは素晴らしいという価値観をおしつけてくる、というのもひとつだったと思うんだけど。そのくせ多様性なんて欠片も認めない偏見の塊で。

 大学に入ってから、しばらく忘れてたんですが、働くようになって、やっぱり息苦しさを感じるようになりました。
 ただ、ちょっと疑問に感じたのが、香川県人の気質の問題もあるかなあ、と(次の仕事は、変わった子どもたち対象だし、わりとふわふわした感じなので、大丈夫…だといいなと思ってます)。名古屋でいたときは、この種の息苦しさは感じなかったので。

 説明しますね。香川県人の気質って、わりと勤勉だし、けちで、業績主義なんですね。たぶん、貧しいけど、近畿からは近いし、おおきな災害などがなくて、地道に生きてれば小金持ちくらいにはなることができる土地柄だ、ということが影響してるんでしょう。勉強するのも、成績が良くなるとか、よい仕事にありつけるとかじゃないと、しないわけ。だから、いまみたいに学歴と仕事との関係が崩れてしまうと、とたんに統一学力テストの結果が下がったりする。
 教育もだから、論理的な思考を身につけるとか、よりよく生きるため、自由になるため、というような発想は全くなく、ただ成績が良くなること、あるいは「いい子」になることを目的にしている感じでした。

 「こういうことを考えるのは子どもらしくない」という制約がたくさんあって、自由にものを考えられない環境。勉強しても頭が良くなることを禁じられている感じでした。高校時代の私はさして頭良かったとは思わないけど、手当たりしだいでばらばらな感じでしたけど、そういう教育だったので、統一的な思考を持つことが出来なかった。エネルギーありあまった子どもが暴れるのと、たぶん現象としては同じなんだろうな。私は体が動かない方だったので、体の動きを制限されるのは何とも思わなかったけど、思考を制限されるのはストレスでした。おかげで、大学入ってから、一から人格形成やり直さないといけなかったし(随分落ち着きましたが)。

 エリート教育がないんですよね。優等生教育だけで。大学、大学院と県外でいたので思うのですが、旧制高校だったところはふつうもう少し自由だよ、と。
 ときどき、社会学者の本田由紀さんが、受験生時代にいっぱい勉強して、勉強すればよい仕事につけると思ってたけど、そうじゃなかった、そのショックが研究するきっかけだった、というようなことを言ってますが、彼女、香川県の出身。彼女が通ってたのは、私が通ってたところよりもっと上の、県庁所在地にある県下で一番の進学校。そこでもそんなに、ガリ勉な感じなんだなあ、と。
 優等生的な雰囲気は、二番手の高校とかに多いよね、と言われたことがありますが、香川県という地域自体が、二番手気質なのかも…、と思います。

 私の専門は日本文学なので、塾講などでは国語を教えることが多いのですが、国語はとりわけ道徳教育的な傾向が強くて厳しいです。女の人は男の人を愛して、子ども産んで、母性愛を持つものだ、という価値観を暗に前提としている。これがもう…、息が出来ない。

 で、とりたてて結論めいたものもないのですが。


ろこちゃん。早くご飯がほしいのでお茶碗かじってます。
 

描写と説明について

2013-03-24 20:52:35 | 国語教育と文学
 小学校や中学校の頃、作文や読書感想文において、「思ったことを思ったまま書きなさい」と指導された記憶はありませんか? 
 私はこれ、どうしても理解できなくて、だって、素直に思ったことを思ったままに書いたら、どう考えても求められているものと違うものになるのに、でも、だからと言ってどう書けばよいのか分からなかったので。
 これ、今思うと、「説明するな描写しろ」ってことだったんですね。私たちは無意識のうちに、「私小説の書き方」を指導されていたわけです。

 さて、今日は研究テーマの3つ目。描写と説明について、国語教育と新人賞メディアとの関係を考えます。
 たぶん、綴り方(作文)教育における「思ったことを思ったままに書きなさい」的なものと、昭和前半辺りの文芸との関係は既に考察されていると思うのですが、私が対象としたいのは、もっと最近の話。「小説の書き方」「新人賞のとり方」的な本がたくさん出版される時代のこと、そして、受験産業が発展し出した頃の話です。
 小説の書き方本で、必ず言われるのが、「説明するな描写しろ」ということ。「…と書かずに…と感じさせるように書きなさい」という、あれです。
 一方で、国語の受験問題で必ず出題されるのが、「傍線部の登場人物の心情について、説明しなさい」というもの。このふたつをよぅーく眺めて見てください。何か、関連があると思いませんか。
 つまり、規範的な小説においては、登場人物の心情は説明されず、描写されるのです。一方で、その「描写」を「説明」させるのが、国語教育。だから、この2つには共犯関係があると言えます。
 「思ったことを思ったままに書く」→「…と書かずに…と感じさせるように書く」への変化は、書くことの視点が書き手から読み手へとシフトしていて、その原因を考察してゆけば何か出てくると思うのですが。

 と、だいたいこんな感じですが、この研究、ちょっと面倒なんですよね。「小説の書き方」本+国語の受験参考書を、たくさん集めて目を通さなければいけないので。

 あと、ピンポイントで細かいところでは、『無名抄』の国語教育における扱われ方を考察したいと思っています。
 『無明抄』には俊恵が藤原俊成に、自分(俊成)の歌の中でどれが一番良いと思うか尋ねる。すると俊成は「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」という歌が第一の歌だと言い、世間の人が「面影に花の姿を先立てゝ幾重越え来ぬ峰の白雲」を優れているものとする理由が分からないと言う。その後俊恵は私(=鴨長明)にこっそりと言ったのだった。

 「彼の歌は、「身にしみて」と云ふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり。これ程になりぬる歌は、景気をいひ流して、たゞ空に身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじういひもて行きて、歌の詮とすべきふしをさはといひ現したれば、むげにこと浅くなりぬる」

 という部分があるんですよね。これ、いくつかの高校の国語教科書にも採られているらしいのですが、「説明するな描写しろ」ってことですよね。要するに。「身にしみて」と言わずに読み手にああ、身にしみたんだなあ、と思わせるのがいい。歌の要となる部分を、はっきりと言い表したから、浅い感じがする…、というのだから。
 国語教科書にも採られているものなので、教科書ガイド的なものを参照することで、扱われ方を探ることができると思うのですが。今そういうものを簡単に目にすることの出来る環境にないので、まだ手をつけてません。

大造じいさんと雁

2013-03-15 16:31:59 | 国語教育と文学

今日の子犬ちゃん。どんどん大きくなるよ。
本文と画像とは、関係ありません。

 今日は定番の国語教材、「大造じいさんと雁」の話題を。
 前にもちょっと触れた石原千秋が、『国語教科書の思想』という本のなかで、「大造じいさんと雁」をめぐる論争を取り上げています(というか、「大造じいさんと雁」を巡る論争についての、田中実の論文を)。

 ここで石原は、田中実の、

大造じいさんがおとりに使った雁を隼から救うために命がけの体当たりをした「残雪」を見て、撃ち取るチャンスであったにも関わらず、「なんと思ったか、再び銃を下ろしてしまいました」という記述の意味が、子どもたちには理解されない、それはこの場面の記述が「残雪」に寄り添っているために、大造じいさんの「心情」を理解することが出来ないからだ、この場面で大造じいさんの「心情」を問うこと自体に無理があるという国語教育学者もいる、

という意見に対し、
1.「リアリズム小説」は「書いてないこと」を楽しむ芸術だということ
2.教室空間は「書かれていない」気持ちを読む空間であること
3.国語教科書のテーマ「動物との交感」を考えれば、それに合致する「正解」が得られる
という3つの理由から反論しています。

 ですが私は、田中の意見にも、石原の反論にも違和感を覚えるんですね(というかまず、「大造じいさんと雁」がリアリズム小説かどうかから検討しないといけないんじゃないの?)。
 大造じいさんが銃を下ろした理由が、「大造じいさんと雁」には書かれていると考えるからです。ただしそれは、大造じいさんの「心情」ではありません。

 残雪の目には、人間も隼もなかった。ただ救わねばならぬ仲間の姿があるだけだった。(96頁)

とあるのが、それです。
 説明しましょう。これまで、「大造じいさんと雁」は、雁を仕留めようとする大造じいさんと、雁のリーダー残雪の、戦いの物語を描いてきました。ところがここでは、残雪の目には大造じいさんは、ない。したがって、大造じいさんと雁の、戦いの物語はここで終わらざるをえない。だから大造じいさんは銃を下ろした。
 ここで銃が何を象徴するのか、ちょっと考えてみたい誘惑にかられますが、それは置きます。
 再び残雪が大造じいさんを見るのは、隼ともつれあった残雪が地上に落ち、人が近づく気配に隼が飛び去った後です。その時物語は、大造じいさんと残雪との、交流の物語という別の物語を描き始めます。単純な男同士(?)の戦いの物語という男の子的な物語とはずらした部分で展開していて、そこが評価できると私は思います。結局最後は、「正々堂々と戦おう」的なことを言って終わるんですけど。
 大造じいさんと残雪との交流は、地上に降りてきた異界の生き物が再び異界に戻るという、白鳥処女譚のようでもあり、あだち充的な、ライバル同士の友情の物語のようでもあります。


 私のような経歴の人間は、教職をとって国語教師になるか、あるいは塾講でもするかというのが、キャリア形成にも金銭的にも一番いいのですが、それが到底無理だと思うくらい、私には国語教育が分からない。
 その分からなさにはいくつかの種類があるのですが、
 即物的なレヴェル、心情的なレヴェル、物語構造のレヴェル、表現技工のレヴェルなどいくつかのレヴェルで回答可能な質問を、どのレヴェルで答えれば良いか分からない、というのもそのひとつです。
 心情的なレヴェルで答える場合(特に、即物的なかたちで書かれているものを、心情のレヴェルで捉え直し、説明する場合)が多いのですが、必ず心情のレヴェルで答えるというものでもない。その違いが、私にはわからないのです。単に、問1からいきなり心情は問わない、とか、そういうことでいいんでしょうか?
 私は、何を聞いているのか分かりやすく問う必要があると思うし、もっと書かれていることをきちんと読み取ることを重視すべきだと思います。単純に、そうしてくれないと、私が分からんから私の仕事ない…。

本文引用は『椋鳩十の本 第十巻』理論社、1982年より。