こんにちは。今日は、先週日曜日に参加した(というか、自分も発表した)日本文学協会第33回研究発表大会について、簡単なレポートを。日文協の夏の大会は時代別に分かれていて、並行して発表が行われる形式なので、すべての発表を聞くわけにはいかないのですが、自分が参加したぶんだけ、簡単に感想を書きます。
まあ、自分の発表でそれどころじゃなかったので、あんまりちゃんと聞けてないんですけどね~。
実は私は『源氏物語』が専門なので、だいたい古代後期のお部屋にいました。
午前一本目は堀江マサ子さんの「「中の戸開けて」対面する紫の上―六条院の秩序との関わりにおいて―」。「中の戸」という空間装置に着目し、「中の戸」を開けての対面が、対面する両者の身分差の顕にならない対面であること、それによって六条院空間の秩序が「再編」された、と結論づけるものでした。質疑応答によって、女三の宮と明石女御の対面に乗っかるかたちで対面した紫の上のずるさが明るみになりました。
二本目が私の発表。すでにさんざん自分で宣伝したような気がするので、これ以上何を言おう、という感じですが、一応。
私の発表は、大君の臨終場面で、彼女の身体が「雛」に喩えられることに着目し、男性のオブジェ嗜好を女性自身の自己表象へと転換してゆく現代的な人形の流行と『源氏物語』の末尾を重ねあわせようとしたもの。私自身がやりたいのが人形論だったこともあって、『源氏物語』論へと戻ってこれなかったことが、一つの発表としては失敗だったと思います。でも一部の人には(笑)好評だったし、自分で楽しかったからO.K.。
後から津田博幸さんに指摘されたのですが、『源氏物語』をあくまでも現代的なものとして読んでゆくということをちゃんと言ったほうが良かった、と。確かに。
近代や近代的内面の批判をすると、『源氏物語』を古代的なものとして読む立場なのかと勘違いされてしまうこともあるのですが、私の近代批判はそうじゃないんですよね。あくまでも『源氏物語』を現代的なもの(というと語弊があるかもしれませんが)、アクチュアルなもの、そして自分の目で読むための手続きなんですよね。だからさんざんシュルレアリスムとか、絵画と彫刻と人形とか持ちだしたんだし。でも、そういえばそこを説明してなかったです。
もうひとつ、津田さんに指摘されたことで。レジュメのミスがありました…。
レジュメ5枚目、9頁。後ろから3行目。
「尼衣と墨染めの衣」→「尼衣と法要の衣」
すみません、尼衣と墨染めの衣は同じです。私このレジュメ作ってたとき、相当テンパってたのね、ごめんなさい。
ここでお昼休み。ごはん、おにぎり1つだったんですけど、それでも食べると眠くなる。
午後一本目の発表が、齋藤梅香さん「「手習」巻における浮舟の心情表現と手習歌の機能」。浮舟の「手習歌」を、作者が浮舟の心情をより直接的に表現させたもの、と結論づけるものでした。分かりやすく、それなりによく頑張った発表だったと思うのですが、これが何というか…、どう言えばいいのか分からない。三田村雅子さんが一生懸命いろいろおっしゃってましたけど。
いつだったか、大橋完太郎氏がつぶやかれてた
学生の指導や論文査読などをしていると、大きな文脈を知らないままその人なりに「論理的に」読んだものを提出されたときに、違和感を感じるケースが多いですね。本来の問題の枠組みと設定された問題との不釣り合いとでも言いましょうか。
という、この違和感。
部分部分で先行研究に反論しなければならない、という認識はあっても、研究史を全体像で捉えてないんですね、たぶん。だから保守反動で浮舟の「手習歌」を近代的なものとして捉える、という気持ちもないままに、「作者」とか「心情を直接表現」とか言えてしまう。ただ大学に入るまではそういう学校教育(国語教育)を受けてたから、ある程度は仕方ないのかな、とも思います。
ただ、私にどうしても理解できないのが、そうやって反論しようとして、ごくごく一般的な理解に戻ってしまう人って、何の疑問も持たず、問題なく社会に順応できてるわけじゃないですか。なのに研究なんかしようというモチベーションが分からない。研究なんかしたって、就職に不利になるだけなのに。社会に違和感や怒りを感じない人が、研究なんてしようと思うものなのかな? まあ、修士までだったら、専修免許をとるためなのかもしれませんが。
その次の発表は、ちょっと自分に関係がありそうなものがあったので、近代のお部屋に。林淑丹さん「聖女の仮面―澁澤龍彦「花妖記」を読む」。少しポイントを絞りきれてない感じがしたのですが、いろいろ面白いところがありました。たぶん、「聖女」と「淫女」の二面性と、鉱石(永遠性、無時間性)と球体幻想(房事に効く、孕むイメージ)の二面性は、重ねられてるんだろうなあ…。
女主人公の白梅=緬玉(賭けられる、房事に効くという玉)なのではないか、と質問したのですが、そうしたら後から、「人形の人ですね」と言われてしまった。ちゃんと、チェックしてるのねえ…。
はい、私人形の人です。
また古代後期のお部屋に戻って。
三本目の発表は宝塚。橋本ゆかりさんで、『源氏物語』を舞台化した宝塚歌劇『あさきゆめみしⅡ』について考察した発表。空間装置や宝塚オリジナルキャラ「刻の霊」、『源氏物語』を知らない人に分かりやすくする工夫などに着目した発表でした。宝塚歌劇って、いろいろなお約束事があるのね。なるほど…。
最後の発表が、大谷久美子さん「『栄花物語』の歴史叙述の一側面―女房による儀式書的性格の考察」。『栄花物語』の衣装描写に着目し、女房たちが参与できる範囲のことで、為政者を評価する方法として位置づけたもの。たいへんしっかりした発表でした。
おまけ:退屈してるのすけちゃん。
ではでは!
まあ、自分の発表でそれどころじゃなかったので、あんまりちゃんと聞けてないんですけどね~。
実は私は『源氏物語』が専門なので、だいたい古代後期のお部屋にいました。
午前一本目は堀江マサ子さんの「「中の戸開けて」対面する紫の上―六条院の秩序との関わりにおいて―」。「中の戸」という空間装置に着目し、「中の戸」を開けての対面が、対面する両者の身分差の顕にならない対面であること、それによって六条院空間の秩序が「再編」された、と結論づけるものでした。質疑応答によって、女三の宮と明石女御の対面に乗っかるかたちで対面した紫の上のずるさが明るみになりました。
二本目が私の発表。すでにさんざん自分で宣伝したような気がするので、これ以上何を言おう、という感じですが、一応。
私の発表は、大君の臨終場面で、彼女の身体が「雛」に喩えられることに着目し、男性のオブジェ嗜好を女性自身の自己表象へと転換してゆく現代的な人形の流行と『源氏物語』の末尾を重ねあわせようとしたもの。私自身がやりたいのが人形論だったこともあって、『源氏物語』論へと戻ってこれなかったことが、一つの発表としては失敗だったと思います。でも一部の人には(笑)好評だったし、自分で楽しかったからO.K.。
後から津田博幸さんに指摘されたのですが、『源氏物語』をあくまでも現代的なものとして読んでゆくということをちゃんと言ったほうが良かった、と。確かに。
近代や近代的内面の批判をすると、『源氏物語』を古代的なものとして読む立場なのかと勘違いされてしまうこともあるのですが、私の近代批判はそうじゃないんですよね。あくまでも『源氏物語』を現代的なもの(というと語弊があるかもしれませんが)、アクチュアルなもの、そして自分の目で読むための手続きなんですよね。だからさんざんシュルレアリスムとか、絵画と彫刻と人形とか持ちだしたんだし。でも、そういえばそこを説明してなかったです。
もうひとつ、津田さんに指摘されたことで。レジュメのミスがありました…。
レジュメ5枚目、9頁。後ろから3行目。
「尼衣と墨染めの衣」→「尼衣と法要の衣」
すみません、尼衣と墨染めの衣は同じです。私このレジュメ作ってたとき、相当テンパってたのね、ごめんなさい。
ここでお昼休み。ごはん、おにぎり1つだったんですけど、それでも食べると眠くなる。
午後一本目の発表が、齋藤梅香さん「「手習」巻における浮舟の心情表現と手習歌の機能」。浮舟の「手習歌」を、作者が浮舟の心情をより直接的に表現させたもの、と結論づけるものでした。分かりやすく、それなりによく頑張った発表だったと思うのですが、これが何というか…、どう言えばいいのか分からない。三田村雅子さんが一生懸命いろいろおっしゃってましたけど。
いつだったか、大橋完太郎氏がつぶやかれてた
学生の指導や論文査読などをしていると、大きな文脈を知らないままその人なりに「論理的に」読んだものを提出されたときに、違和感を感じるケースが多いですね。本来の問題の枠組みと設定された問題との不釣り合いとでも言いましょうか。
という、この違和感。
部分部分で先行研究に反論しなければならない、という認識はあっても、研究史を全体像で捉えてないんですね、たぶん。だから保守反動で浮舟の「手習歌」を近代的なものとして捉える、という気持ちもないままに、「作者」とか「心情を直接表現」とか言えてしまう。ただ大学に入るまではそういう学校教育(国語教育)を受けてたから、ある程度は仕方ないのかな、とも思います。
ただ、私にどうしても理解できないのが、そうやって反論しようとして、ごくごく一般的な理解に戻ってしまう人って、何の疑問も持たず、問題なく社会に順応できてるわけじゃないですか。なのに研究なんかしようというモチベーションが分からない。研究なんかしたって、就職に不利になるだけなのに。社会に違和感や怒りを感じない人が、研究なんてしようと思うものなのかな? まあ、修士までだったら、専修免許をとるためなのかもしれませんが。
その次の発表は、ちょっと自分に関係がありそうなものがあったので、近代のお部屋に。林淑丹さん「聖女の仮面―澁澤龍彦「花妖記」を読む」。少しポイントを絞りきれてない感じがしたのですが、いろいろ面白いところがありました。たぶん、「聖女」と「淫女」の二面性と、鉱石(永遠性、無時間性)と球体幻想(房事に効く、孕むイメージ)の二面性は、重ねられてるんだろうなあ…。
女主人公の白梅=緬玉(賭けられる、房事に効くという玉)なのではないか、と質問したのですが、そうしたら後から、「人形の人ですね」と言われてしまった。ちゃんと、チェックしてるのねえ…。
はい、私人形の人です。
また古代後期のお部屋に戻って。
三本目の発表は宝塚。橋本ゆかりさんで、『源氏物語』を舞台化した宝塚歌劇『あさきゆめみしⅡ』について考察した発表。空間装置や宝塚オリジナルキャラ「刻の霊」、『源氏物語』を知らない人に分かりやすくする工夫などに着目した発表でした。宝塚歌劇って、いろいろなお約束事があるのね。なるほど…。
最後の発表が、大谷久美子さん「『栄花物語』の歴史叙述の一側面―女房による儀式書的性格の考察」。『栄花物語』の衣装描写に着目し、女房たちが参与できる範囲のことで、為政者を評価する方法として位置づけたもの。たいへんしっかりした発表でした。
おまけ:退屈してるのすけちゃん。
ではでは!