人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

迷いこんできた蛾の物語―W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ』

2013-08-06 11:59:35 | 書評の試み
 こんにちは。今日は原爆の日ですね。
 ちょっと前までは、原爆の日というともっと大々的に報道されていたような気がするのですが、震災以降なんだか控えめな気が…。私がテレビをまったく見ない(というか、地デジ化以降うちでは見れなくなった)せいで、そう感じるだけかもしれませんが。

 今日は久々に、小説の話。結構前に読んだ本なのですが、一度きちんと書評を書きたいと思っていました。作者のW.G.ゼーバルトは、1944年生まれ。ドイツ出身のドイツ語作家で、やがてイギリスに移住。ドイツ近現代文学をイギリスの大学で講じていたこともあって、小説ともエッセイとも批評ともつかない、魅力的な散文作品を沢山残しています。将来のノーベル文学賞候補と目されながら、2001年に自動車事故で死去。
 『アウステルリッツ』はゼーバルト作品のなかでは最も小説らしい小説で、また評価も高い、代表作です。


   *   *   *

 物語は1960年台の後半、イギリスからベルギーへの旅を繰り返していた語り手の、その旅の1つ、アントワープの駅舎から語り始められる。そこで出会い、以後幾度も再会を繰り返すジャック・アウステルリッツという人物が主人公。博学で、何かについての研究をしているらしい彼は、二次大戦中に救われ、イギリスに移住させられたユダヤ人の子どもの一人であることがやがて明かされる。増殖する批評的言説、間接話法を多用した文体のなかで、断続的に語られるアウステルリッツの物語を辿ってゆくと、彼は彼を愛してくれた女性のもとからも、50歳を過ぎてから自らの物語を辿り直し、辿り着いた両親を知る女性の元も逃げ出し、ついには語り手の前からも姿を消す。

 建築、めまい、視覚、鉄道、要塞と収容所、図書館、動物園と植物園…。作品中で増殖する批評的言説は、アウステルリッツの物語と密接に関わりながら、近代という陰鬱な、抜け出すことのできない、間違った場所に連れて来られた…、物語を形づくる。
 思えば、冒頭に語られる語り手の悪寒…、夜行獣館と駅舎の待合室の人々に対する感慨も、アウステルリッツの物語を象徴する。

 今くっきりと脳裏に灼きついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。(中略)真剣な面持ちで小さな川のほとりに蹲り、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずり込まれた、このまやかしの間違った(ファルシュ=ルビ)世界から逃げ出せるとも思っているかのようだった。(4頁)

とある洗い熊の描写は、「故郷を追われるか滅亡するかした民族の、数少ない生き残り」「自分たちしか生き残らなかったがゆえに、動物園の動物と同じ苦渋に満ちた表情を浮かべている」(6~7頁)かのような旅行客のなかで、「ただひとり漠然と宙に視線を漂わせていない」「メモやスケッチを熱心に取っていた」(7頁)アウステルリッツの様子に重なってくる。

 あるいは、駅舎の天蓋のなかで、「最も高い位置に鎮座」する、「針と文字盤で表される時間」(12頁)。これは絶滅収容所のなかで途切れた線路、彼らを効率的に輸送するシステムが、時間の管理=時刻表によって可能になったとの指摘を想起させずにはおかない。翻訳者の鈴木仁子が(ナポレオンの三帝会戦だけではなく)「AusterlitzがAuschwitzを連想させる」(訳者あとがき、294頁)ことを示唆するゼーバルトのインタビューを紹介するが、私にはドイツ語の語感は分からないものの、途切れた線路のその先を、この物語が「消失点」として持っていることは確かだろう。
 けれども彼ら、東方へ、東方へと移送された彼らと異なり、救われて別の列車に乗ったアウステルリッツの物語は、ついに彼らを取り戻すことができない。

 とりわけ印象的なのが、アウステルリッツの自宅に彷徨い込んできた蛾の描写だろう。

 あたたかい季節には、我が一匹、二匹、私の家の狭い裏庭から家の中に迷いこむことがあります。朝早く起きて見ると、蛾が壁にとまったまま、じっとしている。彼らはおのれが行く先を誤ったことを承知しているのだと私は思うのです、とアウステルリッツは語った。なぜならそっと外へ逃してやらないかぎり、命の灯の消えるまで、ひとつところをじっと動かないのですから。それどころか断末魔の苦悶にこわばった小さな爪を突き立てたまま、命がつきたのちもなお、おのれに破滅をもたらした場所にひたと取り付いたままでいる――いずれ風が引き剥がして、彼らを埃っぽい片隅に吹き去るときまで。(91頁)

 この蛾たちは、裏手にある東欧ユダヤ人たちの墓から迷い込んできたことが後に明かされる。

 私の家の窓からはまったく見えないのですが、あの壁の後ろには、菩提樹の木立やライラックの茂みに囲まれて、十八世紀このかた、彼の地の東欧ユダヤ人社会に生きた人々が埋葬されてきた墓地がある。(中略)いま思うと蛾たちはあそこから私の家に飛んできていたのでしょうが、私が墓地に気づいたのは、ロンドンを離れる数日前のことでした。(277~278頁)

 間違って彷徨ってきた魂…。
 重要なのが、これが、青年時代の幸福な思い出…、憂鬱なことも多かった思い出の中で唯一幸福な思い出のなかに挟まれた描写であることだろう。寄宿学校で友情を結んだジェラルドの実家「アンドロメダ荘」に招かれた日々の思い出であり、そこは蝶や貝、甲虫などの博物標本の溢れる魅力的な別荘だった。世界中のものを集め、分類し、標本箱のなかにピンでとめる欲望。ただし、蝶、あるいは蛾は、単に分類され、ピンでとめられるものであるだけではなく、生きた、自由な、開放のイメージも併せ持つ。

 夜のとばりが降りてまもなく、私たちはアンドロメダ荘からかなり登ったところにある山の端に腰を下ろしていました。背後は急勾配の山腹、眼前は漆黒の闇に包まれた渺茫たる海。エリカの茂みに囲まれた浅い窪地にアルフォンソがガス灯を置き、灯をつけたと思うまもなく、登り道ではひとつも出会わなかった蛾が、忽然と、まるで虚空から湧き出たかのように、あるものは弓なりに、あるものは螺旋をえがき、あるものは輪をかいて無数に群がってきたのです。(88頁)

 初期の短編を集めた『移民たち』においては、蝶、あるいは蛾は開放される魂を象徴し、関わって描かれるナボコフらしき人物は、主人公を自死から救う存在として描かれる。それでもその多くは自死や過酷な電気治療の結果としての死を迎えることとなるのだが、それでも蝶・蛾が一抹の救いのイメージとともに描かれることは注目に値する。

 対して、『アウステルリッツ』では、墓地から彷徨い込んできた蛾は、命が尽きた後まで、間違った場所に取り付いたままでいる。「まやかしの間違った世界」から逃げ出す方途がないように。
 アウステルリッツ、語り手とともに、私たちは「まやかしの間違った世界」のなかに閉じ込められたままだ。それでもほんの少し、開放の可能性があるとしたら、「そっと外へ逃してやらないかぎり」という留保がついていることだろうか。

*本文引用は鈴木仁子訳『ゼーバルト・コレクション [改訳]アウステルリッツ』(白水社、2012年)による。
 
   *   *   *


おまけ:テリちゃん。前髪で目が見えない。