少し前になりますが、7月5日(土)と6日(日)に、東京大学駒場キャンパスで開催された、
表象文化論学会第9回大会に行ってきました。
遠かった!!
「パネル8:匣のなかの科学者と少女――京極夏彦『魍魎の匣』による科学文化論の試み」のコメンテーターを担当しました。
ほかにも聞きに行ったパネルもあるんですが、いろいろ言い忘れたこととかあるし、とりあえず自分のパネルについて先に書いときますね。
私たちのパネルは、京極夏彦『魍魎の匣』を、ハコ、科学者、少女の三つの観点から読み解くもの。
企画者は西貝さん。
ハコ…奥村大介さん、科学者…西貝怜さん、少女…鈴木真吾さんが発表し、
コメンテーターの私はとりあえずこの三つの発表をつなげるのが自分の役割だと認識した。
司会は金森修先生です。
まずは奥村さんが古今東西の様々な「ハコ」表象を紹介しつつ、『魍魎の匣』のあらすじを説明します。
個人的には、サティアンの「ハコ」が面白かった。
西貝さんは、京極夏彦の別の作品である、『ルー・ガルー2』と比較しながら科学者表象についてその差異と理由を検討します。
『魍魎の匣』の美馬坂は、死ぬべきではない、哀しき科学者として描かれているが、『ルー・ガルー2』の佐倉遼は殺されるべき存在として描かれていることについて、
「閉じた世界で幸福を追求した科学者・美馬坂は、科学者として更生の余地がありつつも死んでしまったため、死ぬべきではなかった存在として描かれている」と結論づけます。
鈴木さんは、江戸川乱歩「押絵と旅する男」引用について確認した上で、「「(少女)人形」を媒介として駆動する欲望」について、人間関係を整理し考察したもの。
人形になりたい欲望、人形にしたい欲望、人間を人形として愛したい逆ピグマリオン・コンプレックス(@谷川渥)、親子関係、疑似親子関係、欲望の三角形など。
最終的には久保と美馬坂との関係を考察し、「美馬坂・須崎らの科学技術は久保にとっての「オカルト」」であり、「久保の「ガラテア」を完成させる最後の要素」でもあること、
久保と美馬坂とのずれが久保の悔恨を招き、「久保の側から見れば、科学は自らの欲望を叶えないばかりか、理想とは異なる姿へと身体を変貌させる悪夢のような力」である、と結論づけます。
私のコメントは、①少女を箱に詰めて、そこに科学が関わるのだからこの三つの観点は無関係ではない、
②この三つは、人間とは何か、という疑問に集約することができる、
③ハコや人形と言う比喩は、フィクション構築の手法と重ねられている、というもの。
科学とは境界であってハコであるのだが、美馬坂は「人間は脳である」という極めて近代的な人間観を持っている、ということ(そこが美馬坂が「捨てた部分を拾った」「部分を生かす研究」の須崎とはいっしょにできない)。
司会の金森先生のほうから、臓器移植は脳死のときに逆にほかの臓器をとること、ゴシック小説の伝統にすでに科学表象が組み込まれている(『フランケンシュタイン』)、近代科学(唯脳論)と妖怪という前近代的なものとの取り合わせに特徴があることなど、コメントいただきました。
会場のほうからも、いろいろ質問があって面白かったです。
・文学の科学表象を見ることは文学の側から見て有益であることは分かるが、逆に科学の側から見て文学が有益であるような例はあるか。
・近代以前の文学における妖怪について
・円朝の「真景累ヶ淵」について(←神経が掛けられている)、近代科学が入ってきた時期に妖怪的なものをプッシュ。
・西洋における人形や人造人間の表象に大きな影響を与えているのがデカルトの人間機械論だが、日本においてそういうものはあったのか。
・統合失調の幻想や幻覚など、科学的に一歩一歩解明されてきているが、その幻想や幻覚の内容は文化によって左右される。もう一回文化的なコードが参照される方向に揺り戻しが来るのではないか…
などなど…
(記憶があやふや)
金森先生のほうからも、科学と人文社会学であれば、結局経済や政策の話になってしまう(STSとか)。それは自然科学のふりをした人文学であって、人文学でなければわからないことではない、ちょっと限界がある…というような解説がありました。
近代以前における妖怪に関して、私『源氏物語』の「もののけ」についてお答えすればよかったんでしょうけど、すっかり飛んじゃってました。
でも、紫式部の「もののけ」って正直、例の有名な『紫式部集』の、もののけだとみるのは自分のうしろめたさのせいでしょ、という歌
「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ」も、つまらないと言えばつまらない。
近代の研究者の評価が高いのは、近代的な合理性を先取りしてる、みたいな感じなんでしょうけど、唯脳論とはちょっと違ったものをベースにしているかもしれません。たぶん、「身」に対して「心」という言葉がフォーカスされるようになって、「魂」という概念が弱まったことによって出てきた発想なのではないかと。
言えなかったことをもう一つ。
『魍魎の匣』と『ルー・ガルー2』の対比において。
『ルー・ガルー2』の視点人物の一人である律子が、物語の世界では既に使用されていない、昔のバイクを組み立てる場面があるのですが、
「基盤やチップは何が何だか解らない。あれは、要は電気信号が複雑に行き来しているだけなのだろうと思う。人に準えるなら脳だ。/でも、こういう昔の機会は手足である」(17頁)と思う場面があるんですね。
で、このバイク、後半で結構活躍するんです。
だから、『ルー・ガルー2』のほうはすでに、唯脳論的な枠組みではなくて、脳の上の情報を、身体性によって攪乱する物語、と言えなくもない。
会場、人少なかったんですが、質疑応答も盛り上がったし、和気藹々として楽しかったです。
終わった後の二次会も楽しかった。
Twitter上の仲良しがたくさん来てくれて、なんだかオフ会みたいでした。
では。もし余力があったら、ほかのパネルの感想も書くかもしれません(がたぶんないと思う)。
おまけ。1日目の服装。
中はこんな感じ。
表象文化論学会第9回大会に行ってきました。
遠かった!!
「パネル8:匣のなかの科学者と少女――京極夏彦『魍魎の匣』による科学文化論の試み」のコメンテーターを担当しました。
ほかにも聞きに行ったパネルもあるんですが、いろいろ言い忘れたこととかあるし、とりあえず自分のパネルについて先に書いときますね。
私たちのパネルは、京極夏彦『魍魎の匣』を、ハコ、科学者、少女の三つの観点から読み解くもの。
企画者は西貝さん。
ハコ…奥村大介さん、科学者…西貝怜さん、少女…鈴木真吾さんが発表し、
コメンテーターの私はとりあえずこの三つの発表をつなげるのが自分の役割だと認識した。
司会は金森修先生です。
まずは奥村さんが古今東西の様々な「ハコ」表象を紹介しつつ、『魍魎の匣』のあらすじを説明します。
個人的には、サティアンの「ハコ」が面白かった。
西貝さんは、京極夏彦の別の作品である、『ルー・ガルー2』と比較しながら科学者表象についてその差異と理由を検討します。
『魍魎の匣』の美馬坂は、死ぬべきではない、哀しき科学者として描かれているが、『ルー・ガルー2』の佐倉遼は殺されるべき存在として描かれていることについて、
「閉じた世界で幸福を追求した科学者・美馬坂は、科学者として更生の余地がありつつも死んでしまったため、死ぬべきではなかった存在として描かれている」と結論づけます。
鈴木さんは、江戸川乱歩「押絵と旅する男」引用について確認した上で、「「(少女)人形」を媒介として駆動する欲望」について、人間関係を整理し考察したもの。
人形になりたい欲望、人形にしたい欲望、人間を人形として愛したい逆ピグマリオン・コンプレックス(@谷川渥)、親子関係、疑似親子関係、欲望の三角形など。
最終的には久保と美馬坂との関係を考察し、「美馬坂・須崎らの科学技術は久保にとっての「オカルト」」であり、「久保の「ガラテア」を完成させる最後の要素」でもあること、
久保と美馬坂とのずれが久保の悔恨を招き、「久保の側から見れば、科学は自らの欲望を叶えないばかりか、理想とは異なる姿へと身体を変貌させる悪夢のような力」である、と結論づけます。
私のコメントは、①少女を箱に詰めて、そこに科学が関わるのだからこの三つの観点は無関係ではない、
②この三つは、人間とは何か、という疑問に集約することができる、
③ハコや人形と言う比喩は、フィクション構築の手法と重ねられている、というもの。
科学とは境界であってハコであるのだが、美馬坂は「人間は脳である」という極めて近代的な人間観を持っている、ということ(そこが美馬坂が「捨てた部分を拾った」「部分を生かす研究」の須崎とはいっしょにできない)。
司会の金森先生のほうから、臓器移植は脳死のときに逆にほかの臓器をとること、ゴシック小説の伝統にすでに科学表象が組み込まれている(『フランケンシュタイン』)、近代科学(唯脳論)と妖怪という前近代的なものとの取り合わせに特徴があることなど、コメントいただきました。
会場のほうからも、いろいろ質問があって面白かったです。
・文学の科学表象を見ることは文学の側から見て有益であることは分かるが、逆に科学の側から見て文学が有益であるような例はあるか。
・近代以前の文学における妖怪について
・円朝の「真景累ヶ淵」について(←神経が掛けられている)、近代科学が入ってきた時期に妖怪的なものをプッシュ。
・西洋における人形や人造人間の表象に大きな影響を与えているのがデカルトの人間機械論だが、日本においてそういうものはあったのか。
・統合失調の幻想や幻覚など、科学的に一歩一歩解明されてきているが、その幻想や幻覚の内容は文化によって左右される。もう一回文化的なコードが参照される方向に揺り戻しが来るのではないか…
などなど…
(記憶があやふや)
金森先生のほうからも、科学と人文社会学であれば、結局経済や政策の話になってしまう(STSとか)。それは自然科学のふりをした人文学であって、人文学でなければわからないことではない、ちょっと限界がある…というような解説がありました。
近代以前における妖怪に関して、私『源氏物語』の「もののけ」についてお答えすればよかったんでしょうけど、すっかり飛んじゃってました。
でも、紫式部の「もののけ」って正直、例の有名な『紫式部集』の、もののけだとみるのは自分のうしろめたさのせいでしょ、という歌
「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ」も、つまらないと言えばつまらない。
近代の研究者の評価が高いのは、近代的な合理性を先取りしてる、みたいな感じなんでしょうけど、唯脳論とはちょっと違ったものをベースにしているかもしれません。たぶん、「身」に対して「心」という言葉がフォーカスされるようになって、「魂」という概念が弱まったことによって出てきた発想なのではないかと。
言えなかったことをもう一つ。
『魍魎の匣』と『ルー・ガルー2』の対比において。
『ルー・ガルー2』の視点人物の一人である律子が、物語の世界では既に使用されていない、昔のバイクを組み立てる場面があるのですが、
「基盤やチップは何が何だか解らない。あれは、要は電気信号が複雑に行き来しているだけなのだろうと思う。人に準えるなら脳だ。/でも、こういう昔の機会は手足である」(17頁)と思う場面があるんですね。
で、このバイク、後半で結構活躍するんです。
だから、『ルー・ガルー2』のほうはすでに、唯脳論的な枠組みではなくて、脳の上の情報を、身体性によって攪乱する物語、と言えなくもない。
会場、人少なかったんですが、質疑応答も盛り上がったし、和気藹々として楽しかったです。
終わった後の二次会も楽しかった。
Twitter上の仲良しがたくさん来てくれて、なんだかオフ会みたいでした。
では。もし余力があったら、ほかのパネルの感想も書くかもしれません(がたぶんないと思う)。
おまけ。1日目の服装。
中はこんな感じ。