人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

ある愛の行為―マルグリット・ユルスナール〈世界の迷路〉三部作

2015-09-26 15:03:39 | 書評の試み
そんなミシェルが、ようやくにして、ひとつの文学的な仕事を最後まで推し進めることをおのれに課しているのだ。単語を操り、その重さを量り、意味を探ることが一種の愛の行為であることを、彼ははじめて理解する。(154頁)

 詩や小説を書こうとしたこともあるが、なにひとつ完成させたことのない、なにごとも成し遂げるということをしない父・ミシェルが、チェコの作家コメニウスの『世界の迷路』という小説を翻訳(英語版からフランス語への重訳)しようとするくだりである。『世界の迷路』は、ミシェルと、三巻の中で重要な位置を占めるジャンヌとエゴンの夫婦の間で読まれ、この三部作のタイトルとなる。のちにエゴンがとある音楽作品に利用したもののうまくいかず(170頁)、「いつの話になるかわからない、先の長い計画になっていた」(317頁)。

 ユルスナールの〈世界の迷路〉三部作は、「自伝的」な作品として書かれ、「私が私と呼ぶ存在は、一九〇三年六月八日月曜日の朝八時ごろ、ブリュッセルで生まれた」(10頁)とはじまるものの、第一巻『追悼の栞』の記述は主に母方の親族の歴史に費やされ、第二巻『北の古文書』では父方の親族の歴史が語られる。第三巻『なにが? 永遠が』においてようやく幼いユルスナールが登場するものの、主に語られるのは父ミシェルの後半生と、母フェルナンドの友人であり、おそらくミシェルの愛人であったジャンヌと、エゴン夫婦の物語である。ジャンヌとエゴンは、ユルスナールの最初の本格的な小説であり、死の床にあったミシェルに「これほど透徹したテクストを見たことがない」というメッセージを貰ったという『アレクシス――虚しき戦いについて』のモデルとも言われている。なお、三巻目の『なにが? 永遠が』は完成されずに、遺言において、もし完成されないまま亡くなった場合ここまで、と指示された部分までの死後出版という形で刊行されている。
 そのようなテクストに、父ミシェルが初めて訳し、ジャンヌとエゴンにとっても縁の深い『世界の迷路』がタイトルにとられ、その翻訳が「愛の行為」であると語られることは、意義深い。ユルスナールにとって「単語を操り、その重さを量り、意味を探ることが一種の愛の行為」であることが、そこでは告白されているからだ。それは父や、ジャンヌ、エゴンへと結びつく愛の行為としてあるのだろう。

 ユルスナールが、自らの家系を辿り「自伝的」とも言う小説を語る行為は、『ハドリアヌス帝の回想』を書く行為とさほど隔たってはいないと評され(小倉孝誠、2015年9月18日、東京堂におけるイベント)、実際に

このような自己同定に感じる非現実感を、部分的にであれ乗り越えるためには、やがて試みることになる歴史上の人物についてと同様、一人どころか十人もの仲介者を経て受け取った記憶の断片や、人が屑籠に投げ込むのを怠った手紙や手帳の切れ端から引き出した情報などにしがみつかなければならない。(1巻、11頁)

とも語られるのだが、『ハドリアヌス帝の回想』の罅割れのない、限りなく美しい統一した一人称語りと、〈世界の迷路〉三部作の語りはかなり異質なものに感じられる。また、翻訳者の堀江敏幸によれば、〈世界の迷路〉第一巻、第二巻と、第三巻はかなり異質な文体を持つのだと言う(2015年9月18日、東京堂におけるイベント)。

 〈世界の迷路〉第三巻『なにが? 永遠が』で重要な役割を果たす、ジャンヌとエゴン夫婦をモデルとしたユルスナールの『アレクシス』は、ゲイであることを自覚した夫が家を出たのち、妻に書いた手紙、という設定で書かれている。『なにが? 永遠が』の中では、エゴンはジャンヌの元に戻り、その後も長く夫婦生活を続ける。「いつも、とうてい許しがたいというようなことに対しても、やさしい気持ちを見せる」(318頁)ジャンヌの自由な精神は、感動的なほどに美しく描かれ、おそらくユルスナールにとっての理想なのだろう。
 自らのセクシャリティをアイデンティティとして責任をもって引き受ける『アレクシス』の在り方はとても切り詰められて美しいのだが、『なにが? 永遠が』の中のエゴンとジャンヌの関係は、性愛によって結ばれえない者同士が寄り添うような、もっと豊かなものとなっているように思われる。何よりも「自由」であるために厳しく自らを律するジャンヌの在り方は感動的である。自由であるために何事もなさず、放浪し、財産を蕩尽し、刹那に生きたミシェルと、ジャンヌの在り方はともに魅力的でありながら、対立する。
 〈世界の迷路〉においてユルスナールは、罅割れ、破壊された世界において、それでもなおかつ世界を愛する、強靭な言葉の世界をかたちづくっているように思う。

 例えば『なにが? 永遠が』のなかで、大戦にあったモン・ノワールの地所について語る部分。

かつては樹齢百年をこえる大木が珍しくなかったこの地方で、小学生の一団を引率している人が畏敬の念をこめて七十五歳の古木を教えているのを見て、私はまた心を動かされている。(293頁)

 第二巻『北の古文書』では「一九一四年の無益な殺戮」(12頁)よりもはるか太古の時代から森の歴史が振り返られるのだが、『なにが? 永遠が』のこのくだりを読んだときに、破壊され、ばらばらにされたこの森の物語が、『北の古文書』で語られる太古からの記憶に接続される。

 破壊され、ばらばらにされ、汚染された土地と歴史。そしてばらばらな「私が私と呼ぶ存在」。『ハドリアヌス帝の回想』においては、ヨーロッパ的なギリシャ・ラテンの教養を完璧に身につけたものにとっての理想的な語りが展開される。しかしながらそのようなヨーロッパ的な教養は、二度の大戦を経た後には――とりわけ二度目の大戦ではヨーロッパを離れたユルスナールは――、分断されざるをえなかっただろう。〈世界の迷路〉三部作は、破壊され、ばらばらにされ、汚染された土地と歴史と、そして「私」を、言葉によって結びつける――それは彼女が築いてきた言語世界に強靭に裏打ちされている――、強くて濃密な愛情に、貫かれている。

・マルグリット・ユルスナール『世界の迷路Ⅰ 追悼の栞』岩崎力訳、白水社、2011年。
              『世界の迷路Ⅱ 北の古文書』小倉孝誠訳、白水社、2011年。
              『世界の迷路Ⅲ なにが? 永遠が』堀江敏幸訳、2015年。→白水社サイト

おまけ…夢ちゃん。