人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

角田源氏のラディカルさ

2020-04-16 22:50:36 | 国語教育と文学
 角田光代訳『源氏物語』が完結し、同時に池澤夏樹編集の『日本文学全集』が完結したとのことで、様々な場所でレビューが出て、河出の『文藝』で特集が組まれています。
 和服姿のプロモーション写真もいろんなところに出ていて、これまで角田光代さんに和服のイメージはなかったので、『源氏』を現代語訳するとなるとやっぱりこういうイメージになってしまうのかな、と思いました。

 角田訳の『源氏』は「圧倒的に読みやすくて、親しみやすく、いい意味で「身近」」(たられば「「角田源氏」が繋ぐ、千年前と今と千年後」『文藝』2020年夏号)、「批評的な語り手の声」「モダンな多層構造」を「鮮やかに浮彫りにした」(鴻巣友季子「「角田源氏」、その翻訳の可能性」同)、「展開が早く、とにかくおもしろい」(助川幸逸郎「【書評】岐阜女子大教授・助川幸逸郎が読む『源氏物語 下』角田光代訳 極上の娯楽小説を実感」『産経新聞』2020年4月12日)などと評価されています。

 さて、今回私が注目したいのは、角田さんがとても説明的な言葉で訳していることです。
 まだ上巻が出たくらいの頃だったと思いますが、三田村雅子さんが、日本文学協会の大会で(角田訳の桐壺巻について)「他者への共感とか惻隠の情」である、「連帯の「あはれ」」を全部「悲しい」で訳していて、そのために同化とか共感、連帯の「あはれ」と、そこからずれていくものとの相克がなくなってしまうのではないか、と危惧していました(「光源氏物語の〈内〉と〈外〉:「あはれ」と「あやし」の視点から」『日本文学』2018年4月号)。
 確かに、例えば桐壺更衣が亡くなったときの若宮(のちの光源氏)の様子を語る部分では、

 通常の場合では母親と死に別れることはとてつもなく悲しいものだけれど、こんなふうにまだ何もわからない様子なのが、よけいに人々の悲しみを掻き立てる。(上、12頁、傍線は引用者)

と、一文の中で「悲しい」「悲しみ」と繰り返されていて、気になるといえば気になる。
 ちなみに私が一番重視している、「あはれ」と思って下さいという源氏に対して女三の宮が、「かゝるさまの人はもののあはれも知らぬものと聞きしを、ましてもとよりかゝらぬことにて、いかゞはきこゆべからむ」(柏木、4巻28~29頁、傍線は引用者)と返す場面は、

 「こうして尼となった者は、この世の情けとは縁のないものと聞いていましたが、まして私はもともと情けというものをわかっていなかったのですから、どう申し上げることができましょう」(中、463頁、傍線は引用者)

とあるように、「この世の情け」。柏木が死んで「おほけなき心もうたてのみおぼされて、世に長かれとしもおぼさざりしを、かくなど聞き給ふは、さすがいとあはれなりかし」(同、27頁、傍線は引用者)は、

 大それた督の君の心をただ厭わしく思うだけで、生きていてほしいとも思ってはいなかったのだが、亡くなったと聞けばさすがに、あわれなことだと思うのである(同、461~462頁傍線は引用者)

で、ちょっと訳しにくかったのでしょうか、「あわれ」のままで、「悲しい」ではないですね。

 学校の文学史の授業ではたぶん、『源氏物語』というと「もののあはれ」の文学だ、という風に習ったと思います。ですが、『源氏物語』には、同化の「もののあはれ」「あはれ」だけでなく、そこからはみ出す異化の要素もあって、それが物語の動きをつくってきましたし、研究者も考察してきました。その「あはれ」を、「悲しい」という風に、説明的な言葉で訳してしまうことで、そういう同化と異化の相克が消されてしまうということは、確かにそうなんだろうと思います。ただ私は、そもそも同化も共感もできないような説明的な言葉で、「あはれ」という感情を「悲しい」と、説明しなければ分からないものとして、訳したことの意味は大きいと思うのです。

 角田光代という作家は、私の認識では、純文学の枠組みの中で書いて、きちんと純文学の枠組みの中で評価されてきた人です。純文学の枠組みの中で書いて、その中で、題材やストーリーによって新規性や同時代性を出してきた、そういう作家だと認識しています。つまり、現代の純文学作家に許されないような書き方はしていないはずなのです。
 小説技巧書などでしばしば言われることで、「説明するな描写しろ」というものがあります。「悲しい」であれば、ただ「悲しい」と書くのではなくて、読み手が悲しいと感じるように書け、という風に。この呪縛は本当に大きくて、おそらく角田さんが自分の小説を書くときは、このルールを守っているだろうと思います。でも『源氏物語』の現代語訳をする上で、「悲しい」という説明的な言葉を繰り返してしまう…、これは『源氏物語』の現代語訳を通して、「説明するな描写しろ」の呪縛からようやく逃れることができた成果というべきでしょう。

 ところで、角田訳の『源氏物語』、さくさくと読みやすくリズミカルなのはさすがと言うべきですが、それでもこの文体、何かに似ているような気がします。
 学校や大学受験の古文の解答や解説の現代語訳で用いられる、あの文体です。
 以前、「説明するな描写しろ」の小説技巧と、「登場人物の気持ちを説明しなさい」の国語問題の共犯関係を、仮説として、お話したことがあります(「描写と説明について」)。「登場人物の気持ちを説明しなさい」という問題に解答するには決まったパターンがあって、「……(本文中を直接の根拠とする説明)して悲しい(嬉しい・恥ずかしい、など感情を直接言い表す言葉)気持ち」というかたちで書きます。古文の問題でもやはり解答の仕方は共通する部分があって、「あはれ」みたいな文脈によって変わってくる共感の言葉は、「悲しい」のような言葉に言い換える必要があるでしょう。自分がその「あはれ」にちゃんと共感して、分かってるって示さないといけないので。描写されたものを、繰り返しそうやって説明的に言い換えていくことで、そういう同質的な感情のパターンを学習する機能があるわけです。
 ひょっとすると角田さんは、そういう感覚で、古文の訳し方の定型をおさえたつもりで、「悲しい」と訳してしまったのかもしれません。でもその結果、「悲しい」と説明されているので、角田訳『源氏物語』の読者はもう共感する必要はありません。

 文科省の学習指導要領でも、国語の文学教材、特に古典は、「日本人の心を学ぶ」みたいな位置づけがなされていると思います。「もののあはれ」もその一つでしょう。古典作品がどのようにカノン化されてきたかということは、様々に論じられていますが(例えば、ハルオ・シラネ、鈴木登美編『創造された古典』新曜社、1999年)、『源氏物語』の近代以降(特に戦後)のカノン化について言えば、近代日本文学において小説に重きが置かれたために、近代小説のようなものとして位置づけられてきたことが大きい。そういった文脈の中で、共感可能な、日本人の感性を表すようなものとして(一般には)位置づけられてきた『源氏物語』を、異質な、説明しなければ分からないようなものとして(しかも一般向けに分かりやすく)翻訳すること。そこに『源氏物語』を近代小説の呪縛から解き放つ可能性があるのではないか、と、ちょっと思っています。

※角田光代訳『源氏物語』上、中、下(河出書房新社、2017~2020年)
原文は『新日本古典文学大系』(岩波書店)。