少し前のことになりますが、また、就活に失敗しました。
詳細は省きますが、今の状況の中でキャリアを次につなげることの困難を改めて感じました。
非常勤講師の仕事だけで生活することは難しく、かといって非常勤のすきま時間の中でうまくやりくりできる仕事を見つけるのは難しい。
現在私の非常勤は前期5コマ、後期9コマですが、5コマで生活することは不可能で、9コマでもギリギリかちょっと足りないくらいです。
でも正直、授業準備のペースからいえば、5コマくらいでちょうどよいです。
新しい授業が一つあるので、教科書も固定だし、補助教材などは常勤の先生方が作ってくださっている授業ではありますが、
それでも準備に1日くらいはかかりますので(これが完全オリジナルの講義であれば、その何倍も時間がかかります)。
現在の非常勤講師のコマ給は、それで生きていけるようには設計されていないのだなあ、と改めて思います。
研究者の就活は、年度の途中から採用になるお仕事(特に任期付きなどの初期キャリアは)も多く、常に難しい判断を迫られますよね。
任期付の特任助教や准教授のポストは、任期があるとはいえ、非常勤とはお給料も全く異なりますし、各種保険もつきます。
その後の可能性も広がりますので、リスクはあってもトライしたいものではあるのですが…。
こちらがそう思っていてもなかなかかなわないものです。
研究を続けていると、自分の好きな仕事をしているのだから我慢しろ、
みたいな価値観に出会うこともありますが、
別に私は自分のやりたいことを仕事にしたいと思っていたわけではありません。
確かに院生時代に後輩たちの教育に多少なりともかかわることができたのは楽しかったですし、
結構向いているのかなと思ったりしましたが、
十分な稼ぎと余暇があり、自分の時間で研究を続けることが可能な仕事があれば、
(死ぬほどいやというわけでなければ)特に研究職を目指す必然性は自分にとってはなかったです。
研究職以外に研究を続けられる道がないと悟ったため、遅ればせながら研究職に的を絞ることになりました。
もしかしたら、ものすごく有能な人だったら何か別の選択肢があるのかもしれませんが。
で、そんな感じで生きているとやはり、現在世間で主流になっているような、
仕事にクリエイティビティや生きがいを求めるあり方がよく理解できません。
以前に、『恋せぬふたり』に関する評を、このブログでも書きましたが、
全般的にはよかったと思いつつも、主人公である咲子の仕事への向き合い方には違和感しかなかったです。
たぶん、私より若い世代の価値観なのだと思うのですが、仕事に生きがいとかやりがいとか「好きな仕事」というのを求めすぎる。
その癖して、その職場は「恋愛しろ」ということを強要するような場で、
いったいどこに生きがいだのやりがいだの好きな要素だの、というのがあるのか、まったく理解できないわけです。
資本主義社会の中で仕事をしていく以上、仕事というのは何らかのかたちで他者の欲望に当てはまったものであるはずなので、
そこに生きがいだのやりがいだのクリエイティビティだの好きだの、を感じられるというのは、
他者の欲望に自分の欲望を一致させられるという特技をお持ちなのだと思います。
その際たるものが、咲子が後輩から引き継いだ「恋する○○」シリーズの企画に、悩む場面です。
咲子は「恋」が分からないことから、自分がそんな企画を担当してよいのか、企画営業の仕事に向いてないんじゃないかと悩みます。
それは正当な悩みだと思うのですが、問題はそれに対する「カズくん」や高橋さんの対応と、それに咲子があっさり納得してしまうことです。
「カズくん」は、「企画部のおっさんたちが女子力フェアとか美容フェアとか」絶対わかっていない、ということを対比させつつ、
「恋愛」分からないでも「分かった気はいや!」「喜んでもらいたい」という咲子が「企画営業の仕事が向いていないわけない」と言い、
高橋さんも、「恋愛脳の人たちは勝手に何でも恋愛で補完」するから、「まずは咲子さんの納得できるものを…」、と言い、
咲子は何とあっさりそれに納得してしまいます。
私にとって、『恋せぬふたり』随一の、もやもやシーンでした。
咲子は企画営業の仕事として、「恋する○○」なんて仕事を担当するのであれば、
恋愛に関するイベントやフェアばかりの多い、恋愛至上主義社会に加担してるんですよ!
自分を苦しめたはずの、まさにそのものに加担してるんです。
でももちろん、人間誰しも生きていかなければいかないわけだから、仕事だと思って割り切っているならわかる。
それは仕方のないことで、自分で自分を加害しているという点において悲惨なことであるにしても、
責められるべきことではありません。
でも咲子は、「今は一番仕事が楽しい」とか、「好きな仕事」とか、「仕事も私生活もベストな状態」とか言うわけです。
私にはまったく理解できません。
恋愛しないマイノリティである咲子が、恋愛するマジョリティの欲望に奉仕することが、やりがいであり、好きな仕事であり、ベストな状態であるなんて。
恋愛しないマイノリティである「私」(咲子)が、恋愛するマジョリティである「みんなに喜んでほしい」ということを、
「やりがい」としているなら、何という奴隷根性でしょう。
どうして、恋愛するマジョリティである「みんな」ではなく、
恋愛しないマイノリティ、あるいは恋愛しないマイノリティも含むいろんなセクシュアリティの人に、喜んでもらえる商品を企画しないのでしょうか…。
この後、自分にとってルッキズムは(確かに問題あるにしても)もともとそんなに嫌いじゃなかった、
外見さえちょっと普通っぽくしてれば、自分の心を自由にしてくれるものだった
(でも今はそうじゃないね)、みたいな話を書こうと思ってたんですが、ちょっと疲れたな。
ルッキズムって、もちろんどんな人にとっても問題があるには違いないんだけど、
外見はとりあえず世を忍ぶ仮の姿!という人と、
外見やファッションにこだわりがあり、オリジナリティや自分らしさを表現しなければならないと考えている人にとって、
受け止め方が違うと思うんですよね。
私は氷河期世代の終りくらいですが、
私は学校の内申で積極性とか内面的なものが評価されつつあった時代において、
内面を評価するなんてとんでもない、内面は自由であるべきだ、という気持ちから、
外面を評価されることにはむしろそこまで抵抗がなかったです。
今は本当に、ファッションも外見も、内面や自分らしさを表現するものとされていて、
それがさらに仕事や就活や生きがいだのやりがいだのにつながっているので、息苦しいだろうなあと思います。
外見を評価するとか、内面を評価するとか、
もちろんそのどちらも仕事を判断する基準としては適切でなく、
はっきりと数値化できるものを評価すべきであるとしても。
資本主義社会の論理から自由になれる場所を確保しないと、
(仕事に)やりがいだの個性だの生きがいだの自分らしさを求めるだのは、
自分自身を商品化することになってしまって、息苦しいだけだと思うのですけど。
詳細は省きますが、今の状況の中でキャリアを次につなげることの困難を改めて感じました。
非常勤講師の仕事だけで生活することは難しく、かといって非常勤のすきま時間の中でうまくやりくりできる仕事を見つけるのは難しい。
現在私の非常勤は前期5コマ、後期9コマですが、5コマで生活することは不可能で、9コマでもギリギリかちょっと足りないくらいです。
でも正直、授業準備のペースからいえば、5コマくらいでちょうどよいです。
新しい授業が一つあるので、教科書も固定だし、補助教材などは常勤の先生方が作ってくださっている授業ではありますが、
それでも準備に1日くらいはかかりますので(これが完全オリジナルの講義であれば、その何倍も時間がかかります)。
現在の非常勤講師のコマ給は、それで生きていけるようには設計されていないのだなあ、と改めて思います。
研究者の就活は、年度の途中から採用になるお仕事(特に任期付きなどの初期キャリアは)も多く、常に難しい判断を迫られますよね。
任期付の特任助教や准教授のポストは、任期があるとはいえ、非常勤とはお給料も全く異なりますし、各種保険もつきます。
その後の可能性も広がりますので、リスクはあってもトライしたいものではあるのですが…。
こちらがそう思っていてもなかなかかなわないものです。
研究を続けていると、自分の好きな仕事をしているのだから我慢しろ、
みたいな価値観に出会うこともありますが、
別に私は自分のやりたいことを仕事にしたいと思っていたわけではありません。
確かに院生時代に後輩たちの教育に多少なりともかかわることができたのは楽しかったですし、
結構向いているのかなと思ったりしましたが、
十分な稼ぎと余暇があり、自分の時間で研究を続けることが可能な仕事があれば、
(死ぬほどいやというわけでなければ)特に研究職を目指す必然性は自分にとってはなかったです。
研究職以外に研究を続けられる道がないと悟ったため、遅ればせながら研究職に的を絞ることになりました。
もしかしたら、ものすごく有能な人だったら何か別の選択肢があるのかもしれませんが。
で、そんな感じで生きているとやはり、現在世間で主流になっているような、
仕事にクリエイティビティや生きがいを求めるあり方がよく理解できません。
以前に、『恋せぬふたり』に関する評を、このブログでも書きましたが、
全般的にはよかったと思いつつも、主人公である咲子の仕事への向き合い方には違和感しかなかったです。
たぶん、私より若い世代の価値観なのだと思うのですが、仕事に生きがいとかやりがいとか「好きな仕事」というのを求めすぎる。
その癖して、その職場は「恋愛しろ」ということを強要するような場で、
いったいどこに生きがいだのやりがいだの好きな要素だの、というのがあるのか、まったく理解できないわけです。
資本主義社会の中で仕事をしていく以上、仕事というのは何らかのかたちで他者の欲望に当てはまったものであるはずなので、
そこに生きがいだのやりがいだのクリエイティビティだの好きだの、を感じられるというのは、
他者の欲望に自分の欲望を一致させられるという特技をお持ちなのだと思います。
その際たるものが、咲子が後輩から引き継いだ「恋する○○」シリーズの企画に、悩む場面です。
咲子は「恋」が分からないことから、自分がそんな企画を担当してよいのか、企画営業の仕事に向いてないんじゃないかと悩みます。
それは正当な悩みだと思うのですが、問題はそれに対する「カズくん」や高橋さんの対応と、それに咲子があっさり納得してしまうことです。
「カズくん」は、「企画部のおっさんたちが女子力フェアとか美容フェアとか」絶対わかっていない、ということを対比させつつ、
「恋愛」分からないでも「分かった気はいや!」「喜んでもらいたい」という咲子が「企画営業の仕事が向いていないわけない」と言い、
高橋さんも、「恋愛脳の人たちは勝手に何でも恋愛で補完」するから、「まずは咲子さんの納得できるものを…」、と言い、
咲子は何とあっさりそれに納得してしまいます。
私にとって、『恋せぬふたり』随一の、もやもやシーンでした。
咲子は企画営業の仕事として、「恋する○○」なんて仕事を担当するのであれば、
恋愛に関するイベントやフェアばかりの多い、恋愛至上主義社会に加担してるんですよ!
自分を苦しめたはずの、まさにそのものに加担してるんです。
でももちろん、人間誰しも生きていかなければいかないわけだから、仕事だと思って割り切っているならわかる。
それは仕方のないことで、自分で自分を加害しているという点において悲惨なことであるにしても、
責められるべきことではありません。
でも咲子は、「今は一番仕事が楽しい」とか、「好きな仕事」とか、「仕事も私生活もベストな状態」とか言うわけです。
私にはまったく理解できません。
恋愛しないマイノリティである咲子が、恋愛するマジョリティの欲望に奉仕することが、やりがいであり、好きな仕事であり、ベストな状態であるなんて。
恋愛しないマイノリティである「私」(咲子)が、恋愛するマジョリティである「みんなに喜んでほしい」ということを、
「やりがい」としているなら、何という奴隷根性でしょう。
どうして、恋愛するマジョリティである「みんな」ではなく、
恋愛しないマイノリティ、あるいは恋愛しないマイノリティも含むいろんなセクシュアリティの人に、喜んでもらえる商品を企画しないのでしょうか…。
この後、自分にとってルッキズムは(確かに問題あるにしても)もともとそんなに嫌いじゃなかった、
外見さえちょっと普通っぽくしてれば、自分の心を自由にしてくれるものだった
(でも今はそうじゃないね)、みたいな話を書こうと思ってたんですが、ちょっと疲れたな。
ルッキズムって、もちろんどんな人にとっても問題があるには違いないんだけど、
外見はとりあえず世を忍ぶ仮の姿!という人と、
外見やファッションにこだわりがあり、オリジナリティや自分らしさを表現しなければならないと考えている人にとって、
受け止め方が違うと思うんですよね。
私は氷河期世代の終りくらいですが、
私は学校の内申で積極性とか内面的なものが評価されつつあった時代において、
内面を評価するなんてとんでもない、内面は自由であるべきだ、という気持ちから、
外面を評価されることにはむしろそこまで抵抗がなかったです。
今は本当に、ファッションも外見も、内面や自分らしさを表現するものとされていて、
それがさらに仕事や就活や生きがいだのやりがいだのにつながっているので、息苦しいだろうなあと思います。
外見を評価するとか、内面を評価するとか、
もちろんそのどちらも仕事を判断する基準としては適切でなく、
はっきりと数値化できるものを評価すべきであるとしても。
資本主義社会の論理から自由になれる場所を確保しないと、
(仕事に)やりがいだの個性だの生きがいだの自分らしさを求めるだのは、
自分自身を商品化することになってしまって、息苦しいだけだと思うのですけど。