明後日
私にとって茶の道の大先輩であり
恩人でもある二人のお茶人を
玄庵にお招きしています
ところが先日
この度の世情を鑑みて
今回のお茶事を辞退するべきではないかとの
お尋ねをいただきました
しかしながら
大勢の方が一堂に会するような催しではなく
ご無理でないようでしたら
是非お越しいただきたい獅ィ伝えし
あらためて今回のお招きを
受けていただくことになりました
私が何の迷いも無く
そのように申しあげたのには
一つ理由があるのです
本日はそのことを
書かせていただきます
今日
京都四条にお茶事の買い出しに行き
東本願寺に立ち寄ると
晴れた空から
静かに優しい天気雨が降り注いできました
去る2月23日の深夜23時24分
愛知県に住む義父が
満90歳の生涯を閉じました
2月13日に腹水のために
食事ができなくなって入院してから
わずか10日でした
入院してすぐに
「もう十分生きた・・いい人生だった」と
義母に語り
私がお見舞いに行った時には
静かに手をさすると
「いい嫁さんだった・・ありがとう」と
何度も繰り返し言って下さいました
そして
亡くなる数日前に
「日曜日まではもたん」と
自ら予告した通り
その日曜日の深夜に旅立ちました
実は
私はまさか義父との別れが
そんなに早くくるとは思っていなかったので
日曜日の午後は
大阪のシンフォニーホールで
コンサートを聴いていました
最後から2番目の曲
それが今から思うと
とても不思議なのですが
ベートーヴェンのピアノソナタ「告別」を
聴いていた時のことです
つい眠気が誘い
視線をピアニストから向かい側の客席に
向けると
そこに義父にそっくりの老紳士が座っているのが見えました
義父はクラシック音楽をこよなく愛する人で
まさかとは思いましたが
こういうのを”虫の知らせ”と
いうのでしょうか
私は予定を変更し
コンサートの最後の一曲を聴いた後
アンコールも聴かずに
夫と共に駅に向かって走り
新幹線に飛び乗りました
病室に着くと
義父は身体をやや横にして
少し苦しそうに肩で息をしていました
義母と夫が今後のことを話し合っている間
私は義父の背中をずっとさすっていました
やがて血圧と呼吸が落ち着いて
看護士さんが良かったですねと
仰る笑顔を見て安心し
私は一人大阪に戻りました
しかし自宅に帰り
そのちょうど一時間後に義父は
義母や夫たちに見守られて
静かに息をひきとりました
翌朝早朝に再び新幹線で向かい
その翌日がお通夜
翌々日26日が告別式でした
告別式のすんだ後
私一人帰阪させていただき
2月29日のお茶事の準備にかかりました
なんだか
義父が全てを計算して
最期の日を自ら選び
残された私達に
「たとえ周りにどんな事があってもぶれることなく
粛々と自分の務めを果たすように」
と言い残していったように思えたのです
そして
きっとそうすることが一番の供養になると
自分に言い聞かせながら
目の前の自らのすべきことをしています
今日の錦市場は
先日より少し賑わいが戻っていました
日々の営みは終わり無く
淡々と続いています