亀井勝一郎の青春論では、「快楽」をめぐって議論した。ここで快楽とは、その言葉の通り、心地よさ、楽しさである。授業を終えた学生たちの表情もすがすがしいものとなった。
学生たちに、本を読んで、特に琴線に触れたところを語ってもらった。多くの学生は、「快楽を妨げる高い障壁があってこそ、心地よく、また楽しくなる」という記述に惹かれたようだった。そういえば、私も今から45年ほど前、学生と同じ年頃だったとき、自ら進むべき道を見失っていた時にこの本を読んだので、学生たちと同じように、今ある壁を乗り越えてこそ、道が開かれるのだとろうと思いながら、この本を読んだことを思い出した。
それから幾年月、今回、私が共感したのは、「小さな幸せにも快感を感じる」という部分だった。たしかに最近の私は、例えばこの日の一日だけをとっても、授業が楽しかったこと、久しぶりに懐かしい友人に会ったこと、苦手としているため延び延びにしていた出張申請書を事務に出したことなど、小さな幸せに、十分な幸せを実感するようになった。亀井は、楽しさは変化するとも書いているが、その通りだと思う。
小さな幸せの中にも、十分な幸せを感じるというのが、結局、私の行動様式となったが、その反面、欠点を指摘するというのは苦手となった(だから政策形成論の中で評価の部分はいまだに苦手である。かつてはやった事業仕分けやマニフェスト評価などはとてもできない)。おそらくこれは研究者にとってはハンディなのだろう。しかし、マイナスばかり見て、欠点ばかりをあげつらうのは、人生の無駄とついつい考えてしまうので、これは仕方がないことなのだろう。ときどき、私と同じような世代の人が、自分の住む自治体の悪いところをブログなどに書いている場面に出会うことがあるが、その怒りの源泉は、果たしてどこから来るのだろうか。怒りは若さの特権なので、若さの発露なのだろうか(そう考えると私は若さがないということになる。ちょっとがっかり)。
その意味では、私は今の仕事に向いているようだ。大学で教えることの楽しさは、学生たちのよさを発見して、それを伸ばしていくことであるが、それまで自信をもてなかった学生が、私との出会いをきっかけに、少しずつ変わっていく姿を見るのは、とても楽しいものである。
地方自治という仕事でも同じである。地方自治も善悪の二分法では決められない。どこの町でも、よいところもあるし、悪いところもある。私は、よそ者ゆえの強みを活かして、まちの良さを指摘し、それを後押しするのが仕事だと思っている。その結果、まちの人たちが自信をもち、新たなまちづくりを始める場面に出会うときが、楽しいときでもある。
何十ぶりかで学生と読む『青春論』は、青春時代を思い出し、あるいは、今を考えるよい機会となっている。さらに読み続けることにしよう。