補完性の原理の誤用が、コロナ問題で顕在化してしまった。
補完性の原理の誤用は、何度か書いている。本にも何度か書いている。
直近では、2020年11月に、ブログに、次のように書いた。
「Withコロナ時代は、これまでの価値を問い直すことになる。自助、共助、公助もその一つである。
菅義偉総理は、自民党総裁選出馬時に、「まず自分でできることは自分でやる、自分でできなくなったらまずは家族とかあるいは地域で支えてもらう、そしてそれでもダメであればそれは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものを行っていきたいと思います」(NHKニュースウォッチ9)と語っている。
しばしば語られる、「自助・共助・公助」論であるが、自助、共助、公助の重要性は、私も、そのとおりだと思う。問題は、これに順番をつけることである。順番論では、自助→共助→公助の順となっている。
EUができるとき、自国との関係を説明するために、この順番論が用いられた。たしかに統治の仕組みでは、身近な自国政府からスタートするという考え方は、よく理解できるし、実際的なことだと思う。EUを立ち上げるためにも、納得性が高い理論だったと思う。
問題は、それを暮らしやまちづくりに持ち込む点で、そこが間違いだと思う。暮らしでは、自助が得意なところは自助で、共助が得意なところは共助で、公助が得意なところは公助でという、得意分野論が正しいと思う。」
コロナに当てはめれば、
(1)三密を防いで、感染しないようにする。これは自助である。国や自治体は、市民の自助が進むように、後押しするのが仕事である。ただ、国や自治体のメインの仕事ではない。
(2)コロナに罹ったら、病院に入れ、隔離する。あるいは軽症から、中等症、重傷化しないようにする。これは自助ではできない。公助の役割である。そのために、知事は病院施設等を整えるのが仕事である。法律にそう書いてある。国はその方向性を示し、後押しをする。これが国や自治体のメインの仕事となる。
今回のコロナ騒動では、補完性の原理の順番論で、(2)まで、自助の世界となってしまった。医療行為のような自分ではできないことも、自分でやらなければいけなくなった。
正直、あきれ、温厚な我が家でも、とても怒っている。
知事に期待することは、これもブログに書いた。
「今から、1年前、我が家では、こんなコロナ対策が話し合われた。
中国の例をみても、隔離が一番なので、県ごとに、臨時コロナ病棟を立てるという案である。災害のための緊急住宅を建てる能力があるので、2,3週間で建てる。石垣山の一夜城のようなコロナ病棟である。
我が家では、候補地も考えた。神奈川県東部は、わが家の近くのうみかぜ公園をまず思いついたが、ここは風が強く、津波になったらまずいだろうということになって却下。そこで、逗葉新道から入った南郷公園がいいとなった。山に囲まれて、緑も多く静かで、土地も広い。反対する住民もいないだろう。ここならば、いくらでも病棟が建つ。
その病院の担い手である医師、看護師は、知事が、自ら医師会に掛け合って、医師会で調整してもらう。どうせ病院は、閑古鳥が鳴いている。週1回くらいなら、余力を出せるだろう。医師会は、抵抗するかもしれないが、こういう時こそが、医師会の出番ではないか、そういって説得するのが、知事の役割である。同時に、国に働き掛けて、国を動かすのが、知事の役割である。」
この話は、第1波の時の話である。連れ合いは、補完性の原理を知らないが、それぞれの得意なところをやるというのは、当たり前ことなので、当たり前に考えれば、我が家のような素人だって、思いつく。
難しいことはよく分かるが、挑戦すれば、たくさんの応援団が出てくる。それもやらずに、できもしない「ロックダウン」だとか、「修学旅行中止」とか、自助の世界の施策にとどまっていては、さすが、温厚な我が家でも、「仕事をしろ」ということになる。
こんな役割分担論は、厚生労働省や県のお役人ならば、とっくに、頭の整理がついて、分かっているのだろう。それが、政策にならないところに、今日の病理があるように思う。
補完性の原理の誤用は、何度か書いている。本にも何度か書いている。
直近では、2020年11月に、ブログに、次のように書いた。
「Withコロナ時代は、これまでの価値を問い直すことになる。自助、共助、公助もその一つである。
菅義偉総理は、自民党総裁選出馬時に、「まず自分でできることは自分でやる、自分でできなくなったらまずは家族とかあるいは地域で支えてもらう、そしてそれでもダメであればそれは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものを行っていきたいと思います」(NHKニュースウォッチ9)と語っている。
しばしば語られる、「自助・共助・公助」論であるが、自助、共助、公助の重要性は、私も、そのとおりだと思う。問題は、これに順番をつけることである。順番論では、自助→共助→公助の順となっている。
EUができるとき、自国との関係を説明するために、この順番論が用いられた。たしかに統治の仕組みでは、身近な自国政府からスタートするという考え方は、よく理解できるし、実際的なことだと思う。EUを立ち上げるためにも、納得性が高い理論だったと思う。
問題は、それを暮らしやまちづくりに持ち込む点で、そこが間違いだと思う。暮らしでは、自助が得意なところは自助で、共助が得意なところは共助で、公助が得意なところは公助でという、得意分野論が正しいと思う。」
コロナに当てはめれば、
(1)三密を防いで、感染しないようにする。これは自助である。国や自治体は、市民の自助が進むように、後押しするのが仕事である。ただ、国や自治体のメインの仕事ではない。
(2)コロナに罹ったら、病院に入れ、隔離する。あるいは軽症から、中等症、重傷化しないようにする。これは自助ではできない。公助の役割である。そのために、知事は病院施設等を整えるのが仕事である。法律にそう書いてある。国はその方向性を示し、後押しをする。これが国や自治体のメインの仕事となる。
今回のコロナ騒動では、補完性の原理の順番論で、(2)まで、自助の世界となってしまった。医療行為のような自分ではできないことも、自分でやらなければいけなくなった。
正直、あきれ、温厚な我が家でも、とても怒っている。
知事に期待することは、これもブログに書いた。
「今から、1年前、我が家では、こんなコロナ対策が話し合われた。
中国の例をみても、隔離が一番なので、県ごとに、臨時コロナ病棟を立てるという案である。災害のための緊急住宅を建てる能力があるので、2,3週間で建てる。石垣山の一夜城のようなコロナ病棟である。
我が家では、候補地も考えた。神奈川県東部は、わが家の近くのうみかぜ公園をまず思いついたが、ここは風が強く、津波になったらまずいだろうということになって却下。そこで、逗葉新道から入った南郷公園がいいとなった。山に囲まれて、緑も多く静かで、土地も広い。反対する住民もいないだろう。ここならば、いくらでも病棟が建つ。
その病院の担い手である医師、看護師は、知事が、自ら医師会に掛け合って、医師会で調整してもらう。どうせ病院は、閑古鳥が鳴いている。週1回くらいなら、余力を出せるだろう。医師会は、抵抗するかもしれないが、こういう時こそが、医師会の出番ではないか、そういって説得するのが、知事の役割である。同時に、国に働き掛けて、国を動かすのが、知事の役割である。」
この話は、第1波の時の話である。連れ合いは、補完性の原理を知らないが、それぞれの得意なところをやるというのは、当たり前ことなので、当たり前に考えれば、我が家のような素人だって、思いつく。
難しいことはよく分かるが、挑戦すれば、たくさんの応援団が出てくる。それもやらずに、できもしない「ロックダウン」だとか、「修学旅行中止」とか、自助の世界の施策にとどまっていては、さすが、温厚な我が家でも、「仕事をしろ」ということになる。
こんな役割分担論は、厚生労働省や県のお役人ならば、とっくに、頭の整理がついて、分かっているのだろう。それが、政策にならないところに、今日の病理があるように思う。