
私の研究対象は、自治体を法律学と政治学の切り口から解きほぐすものである。このブログに何度も書いたが、もともとは法律学から入ったが、どうもそれでは、地方自治の諸課題が解けないことを体感し、政治学に関心を広げていった。そこが政策法務に惹かれる理由である。
大学受験で、幸いにも中央大学の法学部と早稲田大学の政治経済学部が受かり、このとき、自分は法律学を学ぶべきなのか、政治学のほうがいいか、少し悩んだ。当時の知識では、弁護士の道か新聞記者の道か、どちらが向いているかというくらいの選択であった。
結局、私は、新聞記者は、向いていないと考えて、法律のほうを選んだが、実際、今考えみても、私は、ジャーナリズムは向いてなかったろう。ジャーナリスは、現状に対する鋭い批判精神が必要であるが、つつましいけれども寛容な家庭に育った私の場合は、ジャーナリズムを育てる教育条件としては、適切でなかったろう。
幸い、法律学を学んだので、その限界もよく分かる。
�法律学の理論は精緻であるが、それはいわばコップの中の理論争いのようなものである。もともと法律は後追いで時代に遅れになりがちなものである。つまり、コップという枠自体が違うという場面があるが、それにもかかわらず、コップ内で一生懸命、真面目に議論しているときがある。当事者は真面目であるが、はたから見ると可笑しく、それをやればやるほど、大事なことを見失なってしまう。
�法律は適法か違法かの二者択一であるが、年を重ねると、世の中は、そんな二分論ではとても割り切れないということがよく分かる。形式的には、違法かもしれないが、目くじらを立てる必要がないものもあるし、形式的には適法かもしれないが、やっていはいけないことも山ほどある。ここらあたりを整理するのが政治で、だから法律学のほか、政治学があるのだろう。
地方自治法に、住民訴訟制度があるが、もともとこの制度は、地方自治体の財産上の損出を防止する制度である。自治体の政策をただす制度のように誤解されているが、これは誤りである(そちらは直接請求の事務監査のほうである。だから50分の1の署名を集めて、問題提起することになる)。しかし、判例によって、当該財務行為が適法でも、先行する非財務行為が違法ならば、住民訴訟を起こすことができるとされているので、実際には、自治体の政策をただすことを目的とする訴訟が頻発する。
政策上の意見の相違は、本来は、政治過程の中で解決すべきことである。主張をぶつけ合い、程よい決着点を見つけるのが政治である。その分、関係者には、相手の主張もそれなりの理由があることを受容すること、相互によいところを取り入れて発展・止揚していくことが求められる。これが私たちの民主主義である。
それをやらずに、水戸黄門のような、超然とした第三者に判断をゆだねるようなことを続けていくと、結局、私たちの民主主義を弱めるばかりである。それでも司法の判断に委ねるというのは、行政や議会が信用できないからだという理由はよく分かるが、それならば、行政や議会を変え、私たちの市民力を鍛えていくことが、私たちが、まず、なすべきことである。
私たちの未来を社会的訓練も乏しく、責任を取る立場でもない裁判官に委ねるのは、あまりにも危ういというのが、何人かの裁判官を知っている私の個人的感想でもある(みな個人的にはいい人であるが)。裁判官の多くだって、「そこまで期待しないでよ」というのが本音だろう。
少し前に、TBSの水戸黄門が打ち切りになったが、それだけ、自分たちで考え、解決しようという人が増えたためだろうか。そう信じたい。
大学受験で、幸いにも中央大学の法学部と早稲田大学の政治経済学部が受かり、このとき、自分は法律学を学ぶべきなのか、政治学のほうがいいか、少し悩んだ。当時の知識では、弁護士の道か新聞記者の道か、どちらが向いているかというくらいの選択であった。
結局、私は、新聞記者は、向いていないと考えて、法律のほうを選んだが、実際、今考えみても、私は、ジャーナリズムは向いてなかったろう。ジャーナリスは、現状に対する鋭い批判精神が必要であるが、つつましいけれども寛容な家庭に育った私の場合は、ジャーナリズムを育てる教育条件としては、適切でなかったろう。
幸い、法律学を学んだので、その限界もよく分かる。
�法律学の理論は精緻であるが、それはいわばコップの中の理論争いのようなものである。もともと法律は後追いで時代に遅れになりがちなものである。つまり、コップという枠自体が違うという場面があるが、それにもかかわらず、コップ内で一生懸命、真面目に議論しているときがある。当事者は真面目であるが、はたから見ると可笑しく、それをやればやるほど、大事なことを見失なってしまう。
�法律は適法か違法かの二者択一であるが、年を重ねると、世の中は、そんな二分論ではとても割り切れないということがよく分かる。形式的には、違法かもしれないが、目くじらを立てる必要がないものもあるし、形式的には適法かもしれないが、やっていはいけないことも山ほどある。ここらあたりを整理するのが政治で、だから法律学のほか、政治学があるのだろう。
地方自治法に、住民訴訟制度があるが、もともとこの制度は、地方自治体の財産上の損出を防止する制度である。自治体の政策をただす制度のように誤解されているが、これは誤りである(そちらは直接請求の事務監査のほうである。だから50分の1の署名を集めて、問題提起することになる)。しかし、判例によって、当該財務行為が適法でも、先行する非財務行為が違法ならば、住民訴訟を起こすことができるとされているので、実際には、自治体の政策をただすことを目的とする訴訟が頻発する。
政策上の意見の相違は、本来は、政治過程の中で解決すべきことである。主張をぶつけ合い、程よい決着点を見つけるのが政治である。その分、関係者には、相手の主張もそれなりの理由があることを受容すること、相互によいところを取り入れて発展・止揚していくことが求められる。これが私たちの民主主義である。
それをやらずに、水戸黄門のような、超然とした第三者に判断をゆだねるようなことを続けていくと、結局、私たちの民主主義を弱めるばかりである。それでも司法の判断に委ねるというのは、行政や議会が信用できないからだという理由はよく分かるが、それならば、行政や議会を変え、私たちの市民力を鍛えていくことが、私たちが、まず、なすべきことである。
私たちの未来を社会的訓練も乏しく、責任を取る立場でもない裁判官に委ねるのは、あまりにも危ういというのが、何人かの裁判官を知っている私の個人的感想でもある(みな個人的にはいい人であるが)。裁判官の多くだって、「そこまで期待しないでよ」というのが本音だろう。
少し前に、TBSの水戸黄門が打ち切りになったが、それだけ、自分たちで考え、解決しようという人が増えたためだろうか。そう信じたい。