松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆熟議の市長選挙㉔足をすくわれないために(三浦半島)

2017-07-30 | 1.研究活動
 公職選挙法では、事前運動は禁止されている。せっかく始まろうとしている公開政策討論会が、足をすくわれないようにするためにも、公職選挙法をきちんと踏まえて、対応する必要がある。

1.公開政策討論会と事前運動の禁止の関係

 いつくかの質疑応答集を見たが、大要、次のように整理されている。

 Q.民間団体が、告示日直前に市内の公民館において、候補者を集めて「公開討論会」を開催する ことは可能か。また、選挙運動期間中はどうか。
 A.告示日前の「公開討論会」の開催については、内容が候補者の選挙運動にわたらない限り、差し支えない。一方、選挙運動期間中は、演説会を開催することができるのは候補者個人に限られており、民間団体が主催となっての「公開討論会」は開催することができない。なお、各候補者 が主催者となっての「合同個人演説会」の形をとる場合は差し支えない。

2.選挙運動とは 
 公開政策討論会は、やることはできるが、選挙運動になってはいけない。では選挙運動とは何か。

 選挙運動とは、「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために、直接又は間接に必要かつ有利な行為」とされている。
 3つの要素があり、
 ①特定の選挙において 
 ②特定の候補者を当選させるために
 ③投票を得又は得させるために、直接又は間接に必要かつ有利な行為 

 直接的に「私に投票してください」というのは明らかにアウトであるが、間接的な行為もこれに含まれので、立候補届出前に、街頭で会った人に「次の選挙に立候補するから宜しくお願いします」と声をかけてもいけないし、辻説法をするときに、「どの選挙に立候補している」、「市長候補〇〇など」と表示してはいけない。これは、公開政策討論会でも同じで、挨拶の時に、「次の市長選挙に立候補予定の・・・」というと、アウトになる可能性があるということなのだろう。「私が市長になったら、こんなに良くなる」とも言ってもいけないことになるので、なんとも窮屈である。

 もともと公開政策討論会は、法で禁止されている事前運動をすり抜け、新しい道を開いていく行動であるので、それだけ、制約が多く、発言や行動には注意を要するということである。公開政策討論会について、快く思っていない人もいるだろうから、足をすくわれないように、細心の注意を払う必要がある。

3.違反にならないために
 ①この公開政策討論会は、自分が選挙に受かるためにやっているものと考えたら,あっという間に失言してしまうだろう。公開政策討論会は、あくまでも、新城市民が、地域の政策課題を自らの問題として考え、判断できるようにするために、政策アイディアを市民に提供し、競い合う政策コンテストのようなものであると、考えるとよいであろう。何度も言っているが、「立候補予定者のための公開政策討論会」ではなく、「市民のための公開政策討論会」と考えると、発言も行動も、枠にはまると思う。

 ②知り合いのいくつかの選管に問い合わせたが、どこも、先に述べた質疑応答集のとおりである。その中で、「公平、公正」に配慮するようにというアドバイスをしてくれたところがあった。これは、公職選挙法が禁止する事前運動の禁止を乗り越える試みなので、常に、一定の危うさが付きまとうが、「公平、公正」に行われていたら、取り締まる側も、あえて、法違反とは言いにくくなるからだと思う。市民のための公平・公正にやっているのに、それに目くじらを立てるのですかと反論されてしまうからだと思う。公平・公正さに気を使いすぎると、ちっとも前に進まないというジレンマもあるが、留意してほしいと思う。

4.おまけ 憲法論との関係
 そもそも事前運動を禁止するのは、行き過ぎではないか。憲法の保障する表現の自由、選挙運動の自由に違反するのではないか、憲法上の論点で、これについては、有名な判例がある。

 大法廷は、次のような理由で、合憲としている。
 「公職の選挙につき、常時選挙運動を行なうことを許容するときは、その間、不当、無用な競争を招き、これが規制困難による不正行為の発生等により選挙の公正を害するにいたるおそれがあるのみならず、徒らに経費や労力がかさみ、経済力の差による不公平が生ずる結果となり、ひいては選挙の腐敗をも招来するおそれがある。このような弊害を防止して、選挙の公正を確保するためには、選挙運動の期間を長期に亘らない相当の期間に限定し、かつ、その始期を一定して、各候補者が能うかぎり同一の条件の下に選挙運動に従事し得ることとする必要がある」(S44.04.23 大法廷判決)
 心配性がすぎないかと思う。

 大法廷判決の論理は、学問的には良いテキストである。
 大法廷は、「選挙運動をすることができる期間を規制し事前運動を禁止することは、憲法の保障する表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限である」として、「合理性の基準」を用いている。
 他方、学説は、基本的人権の規制について、二重の基準論を取り、精神的自由については、厳格な基準を採用して、選挙運動については表現行為の一形態であるばかりか、国民主権や民主主義と密接な関連性を有することから、「より制限的でない他の選びうる手段」などの厳格な基準で判断すべきと批判することになる。

 基本的人権の制約基準の問題であるが、最高裁の合理的基準の考え方は、融通がきき、政策法務論からは、使い勝手が良いが、逆に言うと、裁判所のセンス如何によるという頼りなさもある。その限界が露呈した判決と言えよう。合理的基準からも別の結論が出るように思う。



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