地震がきたら古い我が家は大丈夫か?と・・・なると これは地震が来てみないと判らん。
大丈夫と思わないととても生きて行けない。
我が家は築30年を越している?構造はツーバイ・フォー(別称:パネル構造)である。
阪神大震災で ツーバイフォーの家が・・・・なまじっか少しの被害で耐えたのが災い?したのか?ツーバイ・フォーは地震に強いというイメージが広がった。
メーカーもそれを「売り」にした。
我輩から見れば在来工法の家が多くツーバイ・フォーの家が少なく残った家の比率から見ればそれが目だったのでは?と疑問視しているが?
最近 この近くで新築される家を見ると木造といえども耐震補強金物は非常によくなっている。あれなら先ず震度7でも大丈夫だろうな?とその良心的な施工に感心してみている。
確かに以前(30年前)と比べると比較にならないように現在の建売の木造建築は耐震金物が確実に施工されている。建材もしっかりしている。時代の変遷に驚くばかりである。
基礎と土台、土台と柱、柱と梁、小屋組み、どれをとっても手落ち無く耐震補強金物が使われている。
勿論 30年前にもこのような金物は存在していて取り付けることになっていたが我輩が見るに我が家であるが残念ながら床下だけではあるが そのような金物は見付からない。
台所改修のときに土台とパネルを見たが満足するアンカーボールトを使った場所は一箇所も無かった。パネルと土台は最低で2箇所は締め付けて居なければならないと思うが それも部材の中央から かなり外れていたり無かったりしていた。それとパネルの部材が小さいのも気になったが・・・。部材は2インチ×4インチが基本寸法となっているが日本式?に小さくなっているように感じた。
耐震補強金物は多分 見積もりには入っていたと思うが当時 確実に取り付ける業者、大工さんは見たことがない。壁(パネル)が貼られれば確認は不可能である。
地震補強金物:ホールダウン・山形プレート・タンザク・ハゴイタ・カネオリ・・等
あの金物だって当時は一軒辺り50万や60万はしたと思う。それがそっくり利益になってたのでは?当初から購入していなかったか?購入してあっても現場大工が、そのまま知り合いに安く転売し売りつける・・・・。
各地で大量に建売住宅が建設されたのでこのようなことは容易に想像できる。
もう30年も経過しているから時効でもあると思う。昔は「終の家」と言われていたが30年前は大量に造られた建売の家は消耗品化していた。
我が家のお隣も もう5~6年前に建て替えられた。その時も古い家の解体時に耐震補強金物らしき金物は一つも見ることは出来なかった。
在来工法が地震に弱いのは基礎らしきものが無く柱は玉石の上に設置されていて、その上は根絡め・筋交い・ひうち・・・後は部材の日本独特の接続法により固められていた。
地震で上下左右に揺すられれば柱は玉石から外れててしまう。柱が一本でも外れれば、あとは家に「ねじれ」が生じて回転模様で倒潰してしまう。
当 団地の住宅の構造は「ツーバイフォー」と「軽量鉄骨造」の二種類である。軽量鉄骨造は多分 地震には大丈夫と思うが我が家はツーバイフォーなので どうなるか?わからない。
なんとかしたいが・・・この歳ではもうどうにもならない。
忘れていた・・・シロアリも怖い・・・外来シロアリは日本の木材は大変なご馳走らしい?
今は気にしないで余生を楽しもう・・・・。
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http://mainichi.jp/opinion/news/20120522dde012070022000c.html 以下全文
牧太郎の大きな声では言えないが…:東京タワー、今でも世界一
毎日新聞 2012年05月22日 東京夕刊
不況が人の一生を左右する。
日露戦争後の造船不況。東大で造船学を学んでいた内藤多仲(たちゅう)(1886〜1970)は建築学に“転向”。新設された早大建築学科の教授に収まる。念願のアメリカ留学を果たしたのは大正6(1917)年のことだった。
旅行用トランクを片手に、現地の大学を訪問しているうちに「仕切り板」を外して使っていた愛用のトランクはめちゃくちゃに破損してしまった。
特別の成果もなく、シアトルから横浜港への帰路。嵐で船は激しく揺れた。
ところが……中蓋(なかぶた)を付けたままのトランクはまったく壊れていない。一枚の中蓋という「壁」がトランクの中の空洞を支えていた。大きなヒントだった。
「壁のない骨組みでは変形してしまうが、空間を仕切る壁が入れば揺れに対して強くなる」
内藤の「耐震壁による架構建築耐震構造論」が生まれたキッカケだった。
第一次世界大戦後の好景気。東京・丸の内ではアメリカ直輸入のスピード工法のビルが林立した。が、大正12(1923)年の関東大震災で次々に崩壊する。でも、内藤が構造設計した、完成3カ月後の日本興業銀行本店ビル(渡辺節設計)だけは無事だった。
耐震構造の父・内藤が一生で構造設計を担当した建造物は500以上。その中でも、最も美しい建造物は東京タワーだろう。
. 昭和32(1957)年6月から1年半の短い工期で完成した「高度経済成長のシンボル」。依頼主・前田久吉さん(当時の産経新聞社長。のちの日本電波塔社長)は「世界一高い塔でなければ意味がない。千三百余年も前に高さ57メートルもある五重塔を作った日本人だ!」と高さ380メートルを主張したが、内藤らは「想定される最大級の風力、関東大震災の2倍の地震力に耐えられる333メートル」(正確には332・6メートル、海抜351メートル、塔脚の間隔88・0メートル)を選んだ。
「安全第一で無駄のないものを追求すれば、塔自体が都市美を形成する」と内藤は言った。
正直言えば、今日「日本2位」になった東京タワーの方が東京スカイツリーより「男前」のような気がする。
スカイツリーのような鉄骨鉄筋コンクリート塔、ワイヤなどで支えられた塔を除けば、東京タワーは「純鉄骨造り自立鉄塔」としては、今でも「世界一の高さ」である。
脚を広げた安定感は「男前」である。(専門編集委員)
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つぶやき
確か昭和のすえか?平成に入った頃か?外圧に負けて外国の木材が輸入され木造3階が許可された。外国の木材の強度が強いというわけではない。木材強度に大差はないが3階が許可去れれば木材の消費が高まり外材の輸入が増加する・・・・と言うだけである。
エンピツのような住宅が出来始めた。ある地方では申請図面と出来上がりのプランが全然違う・・・・と言う無責任工事がまかり通ったと言う。売りやすいようにプランを変えたのである。
役所の竣工検査は皆無といってよい時代だった。
阪神大震災では この木造3階建ては壊滅したのでは?・・・話題にはならなかったが・・。当時 気になり写真を見たが分からなかった。倒潰すればただの瓦礫の山である。地震に耐えた、木造3階は私は見ることはなかった。或いは見落としたのかも?
東日本大震災での木造3階建てはどうだったのだろうね?無いわけはないのだが?RC造がツナミに強いことは強調されていたが・・・。
なにはともあれ 市民の住む住宅は何事にも安全でありたい。
マンションであろうと木造一軒屋であろうと・・・。
アジサイはまだ大丈夫??
時期を過ぎると駐車場が無料に成るのですよね
左折する車が行列デシタネ
今日もすこやかん 行って来ます
訪問とコメ有難う御座います
近いので つい見そこないます。車が無いほうが出やすいのでしょうね。駐車場の収容台数が少ないのも困ります。私は傷害者なので時に傷害者用に止めてもらえます。駐車料金も無料ですが・・。足が痛くなければいいのですがね。目下 猛特訓?中です。苦笑
これから太極拳の練習に出かけます。膝の痛みでヒイ・ヒイ言っていますが・・・。
コメント&応援有難うございました。
メル友の花畑にお越し頂き有り難うございました。
2x4工法の住宅は確かに強い様ですね。
公庫の耐用年数は確か木造より長く30年だったのでは?
耐震補強金物も昔から使っていた様に記憶してます。
シロアリ対策をしっかりしておればまだまだ十分耐えると思われます。
('_')今朝は今メル友のお宅の花畑に咲いている花を動画とデジブックにしましたので御覧下さいね。
('_')それではまた金曜日に伺わせて頂きま~す!
('_')Gooブログへ来訪・コメントをお待ちしていま~す!バイ・バ~ィ!!
我が家は乱造期なのでなんともいえません。終の家が私と共に終りそうです。田舎の家はこの我が家より頑丈に見えます。(築80数年:入母屋造りの純日本建築)昔の建物はよかったですね~
コメント&応援有難うございます。