還り見れば酔生夢死か?

80歳代の聾人でネットの話題を書いています。足が悪いので家で得ることが出来るネット情報と私自身の唯我独尊の偏向文です。

男女の区別が付かない時代になった。

2011-12-18 07:00:06 | Weblog
キャッシャーに黙って篭を出す。

女性は店主の好みか?若いベッピンさんである。

今風に言うギャル? 

目 はパッチリとデカク 顔 全体がTVで見る醤油顔の若い女性と同じ顔である。    
品物を機械(レジスター?)に当てながら「・・・・」と言っている。

我輩は表示される金額を見ながら暗算をしていると「????」と問い掛けられた。

途端に「???」頭の中のソロバンが全てご破算となる・・・勿論 品物を取りながら入れたソロバンの総計まで・・・。どこかに素っ飛んでいった。

「すみません 私は耳が聞こえないのです」店員さんは黙って頷いて・・なにやら言っておられたが我輩には分からない。

集計が終わったのか合計金額欄を指(ユビ)指された。

会計を済ませて品物を袋に入れていると隣が騒がしい?50台?60台?の男女の方である。どうも買った品物でなにやらもめているようだ。

我輩が思わず、そちらを見ると、その男性と目が合った。

男性は軽く頭を下げられたが、それを見てお連れの女性の方も振り返えられたが女性の方はなぜか?我輩を睨みつけた。

何故 睨む???どうも分からない。

なにせ相手の言葉が分からないので会話が出来ない。

「触らぬ神に祟りなし」を決め込んだ。

近頃は男女の区別が付かない。時に後ろから見たときは全く分からない。

スカートでもはいていれば別だがね。

同じジーパン 同じような上っ張り ジャンバー 後ろから見た髪型は同じ・・

お尻も男女同じサイズ? 歩く姿も同じ?

先日は奥さんが旦那さんをひっぱ叩いた記事があった。

旦那さんが奥さんの暴力に耐えかねて家出をしたとか?

変な時代になった。

そういえば女性が通りかかりの男性を脅して「金」を奪ったニュースもあった。

DVの世界も男女同権? 男女の境がなくなった?

そうそ 昨日 TVで「全日本から手選手権大会」?名前が違っていたらごめんなさいね。

先日 掲載した空手の型で優勝された方(女性)が、また優勝された。試合中の顔と終わってからインタビューを受ける顔が全く違っていたのに驚いた。

youtubeも、あそこまでアップしてあると、また優勝者に対する感想も違うのでは?と想像した。

インタビューを受けていた選手はステキな女性だった。


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しあわせのトンボ:さわるように見る=近藤勝重 (毎日新聞)    
http://mainichi.jp/select/opinion/kondo/news/20111216dde012070047000c.html 以下全文

しあわせのトンボ:さわるように見る=近藤勝重

 朝の散歩時、よく出合う近所のワン君の頭をなでてやっていると、登校中の女児2人が「さわってもいいですか」と近寄ってきた。飼い主が「優しくね」と答えると、2人はうなずいてワン君の頭を何度もなでていた。

 これはこれだけの話なのだが、散歩から帰って、女児の言葉「さわってもいいですか」が思い出された。子供と犬の関係なら「可愛い」--「さわりたい」でいいとしても、それが人と人との関係だとどうなるのか。与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」という短歌の世界を想像したりしているうちに、そもそも「さわる」って感覚は何なのだ、と今さらのように気になった。

 骨董(こっとう)好きの文人の随筆などには「骨董狂いは恋愛に似ている」といったことが書かれている。陶器の肌ざわりが、愛する異性の肌をさわるのと通じるものがあるということだろうか。やはり骨董好きで知られた批評家の小林秀雄氏は、江藤淳氏との対談でこんな話をしている。「絵というものは、なんだか歯がゆいもんですね。さわることができないからね。だから絵を見ていると、しきりに言葉が浮かぶのです」

 察するに、さわるというのは見るだけでは得られないものを感じ取ろうとする人間の切実な感情なのだろう。それだけに、さわれれば黙して感触を味わい、さわれなければ言葉を出す。小林氏に言わせれば、「生物に一番基本的な感覚」であり、「一番沈黙した感覚」というわけだが、氏はさらにこうも言っている。

 「ぼくが物を見るというのも、さわるように見るという意味なんです」

 つまりはこういうことか。

 物事の本質というのは外に現れ出ているものだ。それを感じ取りつつ見なければ、見たことにはならない。感じ取れないとすれば、単に見えているものを見ているだけのことだ--。

 冬の日に誘われて公園に出てみた。葉を落とした数本の百日紅(サルスベリ)が枯れ木のごとく立っている。

 ぼくなりに、さわるように見てみた。サルが滑るほどに滑らかな木肌も、今はカサカサとして生気を欠く。しかし、ただの枯れ木ではない。半ばはげた樹皮の内側にのぞく肌はむしろ生々しい。ここまで死んで見せて、しかし間違いなく炎暑には熱情の紅で彩られることを思うと、この木の激しい気性に触れた感覚があった。(専門編集委員)=次回は1月6日に掲載します

毎日新聞 2011年12月16日 東京夕刊

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つぶやき

 人間の五感にはそれぞれの役割があるようだ。

その中の一つでも、それを失って、その思いもしない役割が分かる。

今は黙々と水中歩きをしている。

寒くなった。庭の寒暖計は4度(午前7時)水が一番重たい温度になっていた。我輩も重くなっているかな?(苦笑)寒くて息子と共に縮こまっています。

一言 多かった? 


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