昭和20年の今日 お昼に戦争は終わった。
我輩が中学1年生の夏だ。
近くの海軍航空隊には飛行機の爆音一つしていなかった。
飛ぶ飛行機が居なかったのかも?
負けたという実感はなかったように憶えている。
一体何故負けたのだ?と言う疑問もあったが、一方、広島の「ピカドン」と言う新型爆弾が日本全土に落とされては「ダメ」かな?くらいだった。
長崎の現状も既に耳にしていた。蛇足ながら、広島と長崎の「ピカドン」の種類が異なる物だったことは数十年後に知る。
岩国駅には、その前日の14日の正午近くのB-29による500kg爆弾の絨毯爆撃により駅周辺は蜂の巣のような穴が開いていて丸い池を沢山作っていた。
我輩の住んでいたところは航空隊の直ぐ傍であったが爆弾は一発も落ちてこなかった。
家族みんなで裏の畑に作ってあった防空壕に非難した。
祖父から「防空壕の中では背中を柱から離せ!」と注意を受けた。
柱に背中をつけていると近くに爆弾が落ちた時に、その衝撃で背骨が折れるといわれたものだ。
真偽のほどは知らない。
岩国駅(家から約2Km)を中心とした空襲は20分から30分くらいだったか?長く感じた。
外が静かになり家に入ると爆弾の破片が屋根を破り水屋の井戸ポンプに当たりポンプの丸く膨らんだ部分を破壊していた。
飛来した爆弾の破片は大きさが10cmくらいで幅3~5cmくらいで端は鋭い剃刀状を呈していた。
防空壕には何度も入ったことはあるが、実質怖かったのは入った、この防空壕が崩れないかと言う不安だった。
若しも崩れたら生き埋めになる恐怖だった。
爆弾よりそのほうが怖かった思いがある。防空壕は何故か鉄道の枕木で作られていた。枕木の配給でもあったのかな?とそれも疑問の一つでもあった。
不思議に鉄路の被害は少なかったように思う。
終戦後のあとに訪れた食糧難は我輩には敗戦以上に堪えたな!
まさに、その日の食べ物がなかったのだ。
所謂「タケノコ生活」が始まったのは昭和21年か?22年だったと思い出す。
毎日腹が空いて、思わず空腹に耐えかねて井戸の水に「塩」を入れて飲んだこともあった。
500Kgの爆弾で爆撃されて出来た直径10m前後の穴に大きな“がま蛙”が繁殖して其れを釣って帰ったこともある。
この大きな“がま蛙”を我輩が慣れぬ手つきで皮を剥ぎ腸(ハラワタ)を出した時に小さな同じ子蛙がそのまま切り裂いた蛙の腹から出てきた時のショックは今でも忘れることが出来ない。以来、蛙を取りに行くことは止めた。
駅から家に帰る、畦道(アゼミチ)は爆弾の穴伝いに曲がりくねりながら帰るが、ある日のこと4~5人の人が集まり、なにやら水中の穴から引き上げていた。
あぜ道は狭く通れないので暫く見ていると引っ張っているのは2本の人の足である。
まっ白い足が引き上げられ、更に身体が上げられ後ろ頭も見られたが女性のようであった。
衣服はなく全くの裸のままであった。
急いで引き返し別の道を帰ったが、これもまた、忘れようにも忘れられない光景だった。
こうして多くの爆撃による被災者が爆弾の穴から、その後 多くの被災者の方が掘り起こされたものである。
手足バラバラのものも多く見られた。
流石に怖くて、見るやいなや引き換えしたものである。「届け出る?」何処に届ける?そのような余裕は臆病な我輩にはなかった。
終戦直後は、帰りの道はどの道を通っても見られた光景であった。
機関車のD-52が逆さまにヒックリ返っている姿は爆弾の威力を感じさせた。
今、思うと鉄橋、橋、などが無事なのは占領後の事を考慮していたのだろう。
海軍飛行場は無傷だった。スカートを履いた兵隊、顔の黒い兵隊、白い顔の兵隊、等が町に見られ始めたのは9月に入ってからと思う。
スカートの兵隊、顔の黒い兵隊、白い顔の兵隊、みんなソレゾレ同じ顔に見えた。
事件も多く起きたが日本人から見ると、みんな同じ顔に見えて犯人はわからないことが多かったと聞いた。
祖父母の家でも収入源に裏の納屋を改造して借間にして占領軍相手の女性に部屋を貸した。
結構いい賃料らしかったが、我輩は裏に行くことを禁じられたので詳しいことは判らない。貸間の出入り口は裏の勝手口で我輩は玄関を使わされたものである。
それでも、米兵は玄関口の前の道路で会うと、何かと挨拶はした。向こうから話かけられたことも再々であった。
叔母さんも米兵とよく喋っていて驚いたものである。何時 英会話を覚えたのだろうと不思議だった。
我輩は筆談が主だった。稚拙な英文でもよく通じたものだ。米兵の書く簡単な短い英文は大体理解できた。
高校1年まで祖母のところに居たのではと思うがもう、今となっては定かでない。
占領軍相手の女性から英文の手紙を見せられ日本語に訳してくれないかと頼まれて最初は面白半分に訳した経験があるが、どのように訳したか憶えていない。
いい加減な我輩のことである、多分適当至極な呆れた翻訳(?)だったのでは?
それでも不思議に喜ばれたものである。
英文の手紙で覚えているのはLoveと言う字がやたらと多いことだった。
そして同じI Love you でも「私は貴方を愛している」ではちっとも面白くない。
そこで手紙の前後の文章で適当に
① 「貴方のことが忘れられない」②「貴方ほど美しい方は私の回りにいない」③ 私は今、凄く寂しい ④ 直ぐに貴方のところに飛んで行きたい ⑤ 貴方と会ったことは運命だ。など実に思いつくままに適当に綾をつけて訳文を書いたものだ。
「大家さんの息子さんは英語が出来る」と噂が、たちまち立った。
その内に今度は日本語の手紙(恋文)を英訳してくれと頼まれた。
これには参った。
我輩の能力を超えたものであるので
「これは難しくて出来ない」と断ったが
「アレだけ(英語の手紙)訳したのだから出来るだろう?」と言う。断り切れずにまた、1~2通を適当に訳したが、今考えれば、どんな英文になっていたのだろう?
無責任といえば、これほど無責任なことはない。
へんな言葉も、この時に覚えたものだ。
何しろ辞書にないスペルがふんだんに出てくるのだ。それを書き留めて、たまたま来宅の4~5人の米兵に見せて聞いたことがあるが
「You・・・プレ・・・チャイルド!」とか言われ爆笑を買ったものだ。
以来、頼まれた恋文の中に何となく其れらしきことを書き入れて恋文に綾をつけた心算で誤魔化したものだ。
我輩が訳した恋文(英文)を読んだ兵隊はワケが判らず目を回したのでは?
(苦笑)
多分?女性の使う言葉ではなかったのではと今は思う。
その内に我輩は両親が帰国して祖父母の元を離れ両親の元に戻った。その後の彼女達がどのようになったか判らない。
終戦の日に思い出すのは戦中に勝る「飢えが始まった」ことだ。
毎日お粥で其れもお湯が主でサツマイモが少し入っていて米粒がメダカのようにお釜の中で泳いでいた。
茶碗で3杯や4杯食べた(?)くらいでは腹が持たなかった。
当時の体格は身長155cmで体重は40Kgくらいだった。
現在の体重の半分弱位だったな。
何れにせよ。今まで3/4世紀も、よく生きてこられたものだ。
PS:後に読んだ有吉佐和子著「非色」(?)は、その哀れさに我輩の心を揺さぶった。忘れられない戦後の一冊の本でもあった。
我輩が中学1年生の夏だ。
近くの海軍航空隊には飛行機の爆音一つしていなかった。
飛ぶ飛行機が居なかったのかも?
負けたという実感はなかったように憶えている。
一体何故負けたのだ?と言う疑問もあったが、一方、広島の「ピカドン」と言う新型爆弾が日本全土に落とされては「ダメ」かな?くらいだった。
長崎の現状も既に耳にしていた。蛇足ながら、広島と長崎の「ピカドン」の種類が異なる物だったことは数十年後に知る。
岩国駅には、その前日の14日の正午近くのB-29による500kg爆弾の絨毯爆撃により駅周辺は蜂の巣のような穴が開いていて丸い池を沢山作っていた。
我輩の住んでいたところは航空隊の直ぐ傍であったが爆弾は一発も落ちてこなかった。
家族みんなで裏の畑に作ってあった防空壕に非難した。
祖父から「防空壕の中では背中を柱から離せ!」と注意を受けた。
柱に背中をつけていると近くに爆弾が落ちた時に、その衝撃で背骨が折れるといわれたものだ。
真偽のほどは知らない。
岩国駅(家から約2Km)を中心とした空襲は20分から30分くらいだったか?長く感じた。
外が静かになり家に入ると爆弾の破片が屋根を破り水屋の井戸ポンプに当たりポンプの丸く膨らんだ部分を破壊していた。
飛来した爆弾の破片は大きさが10cmくらいで幅3~5cmくらいで端は鋭い剃刀状を呈していた。
防空壕には何度も入ったことはあるが、実質怖かったのは入った、この防空壕が崩れないかと言う不安だった。
若しも崩れたら生き埋めになる恐怖だった。
爆弾よりそのほうが怖かった思いがある。防空壕は何故か鉄道の枕木で作られていた。枕木の配給でもあったのかな?とそれも疑問の一つでもあった。
不思議に鉄路の被害は少なかったように思う。
終戦後のあとに訪れた食糧難は我輩には敗戦以上に堪えたな!
まさに、その日の食べ物がなかったのだ。
所謂「タケノコ生活」が始まったのは昭和21年か?22年だったと思い出す。
毎日腹が空いて、思わず空腹に耐えかねて井戸の水に「塩」を入れて飲んだこともあった。
500Kgの爆弾で爆撃されて出来た直径10m前後の穴に大きな“がま蛙”が繁殖して其れを釣って帰ったこともある。
この大きな“がま蛙”を我輩が慣れぬ手つきで皮を剥ぎ腸(ハラワタ)を出した時に小さな同じ子蛙がそのまま切り裂いた蛙の腹から出てきた時のショックは今でも忘れることが出来ない。以来、蛙を取りに行くことは止めた。
駅から家に帰る、畦道(アゼミチ)は爆弾の穴伝いに曲がりくねりながら帰るが、ある日のこと4~5人の人が集まり、なにやら水中の穴から引き上げていた。
あぜ道は狭く通れないので暫く見ていると引っ張っているのは2本の人の足である。
まっ白い足が引き上げられ、更に身体が上げられ後ろ頭も見られたが女性のようであった。
衣服はなく全くの裸のままであった。
急いで引き返し別の道を帰ったが、これもまた、忘れようにも忘れられない光景だった。
こうして多くの爆撃による被災者が爆弾の穴から、その後 多くの被災者の方が掘り起こされたものである。
手足バラバラのものも多く見られた。
流石に怖くて、見るやいなや引き換えしたものである。「届け出る?」何処に届ける?そのような余裕は臆病な我輩にはなかった。
終戦直後は、帰りの道はどの道を通っても見られた光景であった。
機関車のD-52が逆さまにヒックリ返っている姿は爆弾の威力を感じさせた。
今、思うと鉄橋、橋、などが無事なのは占領後の事を考慮していたのだろう。
海軍飛行場は無傷だった。スカートを履いた兵隊、顔の黒い兵隊、白い顔の兵隊、等が町に見られ始めたのは9月に入ってからと思う。
スカートの兵隊、顔の黒い兵隊、白い顔の兵隊、みんなソレゾレ同じ顔に見えた。
事件も多く起きたが日本人から見ると、みんな同じ顔に見えて犯人はわからないことが多かったと聞いた。
祖父母の家でも収入源に裏の納屋を改造して借間にして占領軍相手の女性に部屋を貸した。
結構いい賃料らしかったが、我輩は裏に行くことを禁じられたので詳しいことは判らない。貸間の出入り口は裏の勝手口で我輩は玄関を使わされたものである。
それでも、米兵は玄関口の前の道路で会うと、何かと挨拶はした。向こうから話かけられたことも再々であった。
叔母さんも米兵とよく喋っていて驚いたものである。何時 英会話を覚えたのだろうと不思議だった。
我輩は筆談が主だった。稚拙な英文でもよく通じたものだ。米兵の書く簡単な短い英文は大体理解できた。
高校1年まで祖母のところに居たのではと思うがもう、今となっては定かでない。
占領軍相手の女性から英文の手紙を見せられ日本語に訳してくれないかと頼まれて最初は面白半分に訳した経験があるが、どのように訳したか憶えていない。
いい加減な我輩のことである、多分適当至極な呆れた翻訳(?)だったのでは?
それでも不思議に喜ばれたものである。
英文の手紙で覚えているのはLoveと言う字がやたらと多いことだった。
そして同じI Love you でも「私は貴方を愛している」ではちっとも面白くない。
そこで手紙の前後の文章で適当に
① 「貴方のことが忘れられない」②「貴方ほど美しい方は私の回りにいない」③ 私は今、凄く寂しい ④ 直ぐに貴方のところに飛んで行きたい ⑤ 貴方と会ったことは運命だ。など実に思いつくままに適当に綾をつけて訳文を書いたものだ。
「大家さんの息子さんは英語が出来る」と噂が、たちまち立った。
その内に今度は日本語の手紙(恋文)を英訳してくれと頼まれた。
これには参った。
我輩の能力を超えたものであるので
「これは難しくて出来ない」と断ったが
「アレだけ(英語の手紙)訳したのだから出来るだろう?」と言う。断り切れずにまた、1~2通を適当に訳したが、今考えれば、どんな英文になっていたのだろう?
無責任といえば、これほど無責任なことはない。
へんな言葉も、この時に覚えたものだ。
何しろ辞書にないスペルがふんだんに出てくるのだ。それを書き留めて、たまたま来宅の4~5人の米兵に見せて聞いたことがあるが
「You・・・プレ・・・チャイルド!」とか言われ爆笑を買ったものだ。
以来、頼まれた恋文の中に何となく其れらしきことを書き入れて恋文に綾をつけた心算で誤魔化したものだ。
我輩が訳した恋文(英文)を読んだ兵隊はワケが判らず目を回したのでは?
(苦笑)
多分?女性の使う言葉ではなかったのではと今は思う。
その内に我輩は両親が帰国して祖父母の元を離れ両親の元に戻った。その後の彼女達がどのようになったか判らない。
終戦の日に思い出すのは戦中に勝る「飢えが始まった」ことだ。
毎日お粥で其れもお湯が主でサツマイモが少し入っていて米粒がメダカのようにお釜の中で泳いでいた。
茶碗で3杯や4杯食べた(?)くらいでは腹が持たなかった。
当時の体格は身長155cmで体重は40Kgくらいだった。
現在の体重の半分弱位だったな。
何れにせよ。今まで3/4世紀も、よく生きてこられたものだ。
PS:後に読んだ有吉佐和子著「非色」(?)は、その哀れさに我輩の心を揺さぶった。忘れられない戦後の一冊の本でもあった。
終戦の年、6月10日東京の板橋で、B29の無差別
攻撃で両親が目の前で殺されました、町全体が廃墟となり辺り一面丸焦げの死体山、生きて居たのが不思議な様でした、家庭が一瞬にして破壊 戦争孤児となり6歳で物乞い生活、 同じ境遇の仲間とガード下で寝ては店の物を盗んで子供ながら生き延びて来ました
あの悲惨な光景が思いだして来ます、二度と悲惨な戦争を繰り返さない事です。あの体験をHPにしました
URLは間違っていました
有吉佐和子著「非色」もう、お読みになりました?
私のお奨めの本です。然し私の個人的な判断ですので、また異なる考えもあってしかるべきと思います。この本をきっかけに当時私は彼女の本を読み漁りました。コメントありがとうございました。
かなり昔、井伏鱒二作「黒い雨」を読みました。辛くて、読み返す気になれません。関係者の辛さは、そんなものではないでしょうが・・・。
これから私たちはどうすべきかが、問題ですね。
でも、戦争は二度としてはならないと心に誓っている。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/inosenaoki.html