国立駅舎は平成18年12月に国立市の文化財に指定されましたが、JR中央線高架化事業の支障移転のために、指定直後に解体されて、現在は、谷保地域にある市のプレハブ倉庫に眠って、復原される日を待っています。
支障移転とは、工事に邪魔(支障がある)であるから一時的に移転するということです。
『国立市史』『国立駅周辺プラン報告書』平成12年3月国立市では、駅の設計者の氏名は、「駅の歴史 国立駅」堀越義克、(昭和47年)からとして、「箱根土地会社のライト式建築のベテランで河野という人」としています。
「河野某の履歴は不明だが、住宅を中心にした設計者ではないかといわれている」としています。
当時、「河野某」とは、単なる職員の技術者ではないか、ということで、それ以上の調査がされてませんでした。
私が、箱根土地株式会社関連の技術者で河野某に当てはまる人物を探した中で、次のことがわかってきました。
河野伝・傳(つとう)
1896年(明治29年)生まれ、宮崎県日向市美々津中町「廻船問屋 河内屋」河野勢蔵 リサの長男として生まれました。
美々津小 宮崎中 京都高等工芸学校建築科(現京都工芸繊維大学)に進み卒業後は旧帝国ホテルを設計した米建築家フランク・ロイド・ライト氏に師事し、その建設に携わりました。
帝国ホテルは、1922年(大正11年)に完成しました。
その後、箱根土地株式会社に入社、同社が手がけた渋谷区百軒町の劇場の設計、池袋白雲閣、軽井沢グリーンホテル、目白文化村N氏邸などに携わったと聞いている、とのことです。
大戦中は、飛行機の練習機(赤とんぼ)に没頭しました。
その後は渡米してトーキー製作技術を学び、コーノトーン映画録音研究所(トーキースタジオ)を立ち上げて独立。
その後、洋明化学株式会社(万能ハンドクリーナー開発製造)を起こします。
1963年(昭和38年)10月24日67歳で没しました。
箱根土地株式会社入社後、堤康次郎の元で働き、大変かわいがられたとの話が伝わっています。
河野傳(つとう)の自宅もその目白文化村にありました。
当時、箱根土地の社員の多くは、堤康次郎自身もそうでしたが、自社が開発した土地に住んでいました。
傳さんのご長男、尭(たかし)さんは2009年10月28日に亡くなられました。
お孫さんの勢さんは、もう少し早く連絡をくれたなら父(つとうさんのご長男)が生きていてもっと話が聞けたのに残念です、と語っておられました。
先日、勢さんが伝さんの思い出や知っていることの一部を私に語ってくれました。
国立駅長が河野某と語っていたことでは、「当時は傳と難しい字を使っていたことで読みにくかったのではないでしょうか」とのことです。
身内でも「つとうさん」と呼ぶ人と「でんさん」と呼ぶ人があったそうです。
写真は、つとうさんのお孫さん、勢さんが所有しているものです。
①は一番手前が河野つとう氏、
②は、帝国ホテルの設計に関係した仲間との宴会の集合写真、左から2番目が河野つとう氏、左から前列7番目がフランク・ロイド・ライト氏。
③は自宅にあった、帝国ホテルの設計見取り図。
国立駅舎設計者の氏名と経歴が今回わかったことで、旧駅舎の文化財的な価値がさらに高まります。
氏名がわかっただけでなく、日本の建築史上で重要な仕事をしてきた人だということもわかりました。
さらに調査を続けることは、旧駅舎の歴史的、文化財的な価値を確認し広めることは、旧駅舎復原の力になると信じています。