7月28日、31年前に発生した雲仙・普賢岳の大火砕流で新聞カメラマンの兄を亡くした、大阪芸大デザイン学科准教授の石津勝さん(空間デザイン)のトークセッションが行われました。9号館の教室では、放送学科を中心に約20人の学生や教職員が石津さんの話に耳を傾けました。石津さんは、「(メディアの現場で働く人は)安全を考えたうえで、いろいろな角度から伝えることにつくしてほしい」と、学生に語りかけました。
(写真:毎日新聞カメラマンだった兄・勉さんへの思いを語る大阪芸大デザイン学科の石津勝准教授 2022年7月28日午後、大阪芸大9号館202教室で)
トークセッション「雲仙・普賢岳 カメラマンだった兄の最期をみつめて」(主催=大阪芸大ジャーナリズム研究会、放送学科住田ゼミ、放送学科アナウンス実習1住田クラス)が、7月28日の5限、9号館の教室で行われました。
1991年6月3日午後4時8分に発生した長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流では43人が死亡。うち16人が、噴火災害を伝えていた新聞・テレビなどの記者やカメラマン、エンジニアらでした。
カメラマンの多くが撮影ポイントにしていたのが、通称「定点」と呼ばれた、山頂から4キロほど下ったタバコ畑の中にある地点。ここは、普賢岳の火口を正面に見る場所でした。
京都市立芸大を卒業し、高校教員を経てディスプレイ会社に勤務していた石津さんは、あの日、仕事場で毎日新聞カメラマンだった兄・勉さん(当時33歳)が、火砕流に巻き込まれたと連絡を受けました。
(写真:パワーポイントを見ながら1991年の雲仙・普賢岳の大火砕流で何があったかを振り返った 2022年7月28日午後、大阪芸大9号館203教室で)
●兄の最後を知りたかった
いつもは冷静で、山登りも好きで自然の危険を知っていたはずの兄が、なぜ安全だった場所から「定点」まで登って火砕流に巻き込まれたのか?最期にどんな判断で行動したのか、そこを知りたいと石津さんは考えていたといいます。
同じ火砕流で亡くなった日本テレビの小村幸司カメラマン(当時26歳)が撮影したビデオテープが、現地で回収され、2005年に映像が公開されました。そこには、兄の勉さんら報道陣の最後の姿が写っていました。
石津さんは、「自分の社(毎日新聞)は、その時だれも定点にいなかった。上空からの写真が撮れているかもしれないとヘリを無線で呼ぼうとしたが、他社のヘリだった。それで自分が定点に行こうと決断したのではないか」と推察しています。
日本テレビの映像は、「定点」に着いて、読売新聞の田井中次一カメラマン(当時53歳)と言葉をかわすように見える勉さんの姿もとらえていました。
石津さんは、「置いていた三脚のところに行ったんじゃないか」「そのあとファインダーをのぞいたのかもしれない」といいます。「最後の兄の行動を映像で見ることができて、うれしい気持ちだった」と学生に語りかけました。
(写真:長崎県島原市の「定点」跡に置かれた三角錐。雲仙・普賢岳の山頂火口が真正面に見える。 2022年5月21日撮影)
●兄の遺体と対面 その姿を写真に収めた
翌日、石津さんは現地に入り、翌々日の6月3日に安置所になっていた寺で勉さんの遺体と対面しました。
顔は火傷の赤ら顔で、髪の毛は頭にくっついていて、口は苦しそうに開けているように見えたといいます。
「そのとき僕は兄を写真に撮ったんです」と石津さんが明かすと、教室は静まり返りました。
火砕流の7年前、母親が亡くなった時、兄は死んだ直後の母の姿をカメラに収めていた。「なくなっていくものを残す兄の姿を僕は見ていた。(兄のこの姿を)撮れるのは僕だけだと思った。兄と同じ行動をとりました」
●災害記念館のパネル展示に志願してかかわる
ディスプレイのデザイナーである石津さんは、2000年に長崎県が災害を記録するための施設を建設する計画を知り、どうしてもこの仕事に携わりたいと、県知事に手紙を書いたといいます。会社を辞めてフリーになり、古巣の会社のライバル社のチームに入って「雲仙岳災害記念館がまだすドーム」のパネル展示制作の仕事にかかわりました。
パネル制作のために火山学者など専門家を取材したことで、「火砕流の細部がわかり、事実がたくさん集まったことで、兄の最後を想像するためのリアルに近づけたから、悲しみや苦しさはあまりありませんでした」と、石津さんは淡々とした口調で語りました。
(写真:雲仙岳災害記念館がまだすドーム<左>、石津さんが制作にかかわった展示パネル<中>、現場から見つかった取材機材も展示されている。左は毎日新聞社、右は読売新聞社のレンズと三脚。2022年4月撮影)
●災害をどう語り伝えるか ディスプレイのプロとして
あのとき、たくさんの報道関係者が押しかけて来なければ、見回りの消防団員が犠牲になることはなかったのに、という地元の感情から、「定点」は、被災後、長年手つかずのままでした。
火砕流から30年たった2021年、「定点」はようやく災害遺構として整備されました。
火山灰に半分埋もれて、風雨にさらされてきた報道のチャーターしたタクシーや毎日新聞の取材車両が掘り起こされ、さびついたフレームや車輪が、保存処理され現地で屋外展示されています。
石津さんは展示の専門家としては、「災害直後の車両保存が火砕流の教訓を伝える一つの方法だったと思う」としながら、「錆びて朽ちている車両が何を表すのか。その背景に地元の人と報道関係者の“溝”があった、その関係性も説明やコメントで補い伝えることが大切ではないか」と訴えました。
報道は瞬間に、即時に伝える手法だが、展示ディスプレイは物とともにじっくり考えさせる伝達方法で、そこに可能性があるという石津さんの解説に、来場者は大きくうなずいていました。
(写真:定点災害遺構に保存展示されている毎日新聞の取材車両。左奥はテレビ長崎の車両。 2022年5月21日、長崎県島原市)
●安全を考えたうえで伝えることをつくしてほしい
火砕流の発生から31年間、兄の死と向き合ってきた石津さん。
「特オチを(しないように)考えなあかんのかな?視聴率をそんなに考えなあかんのかな?」と学生に語りかけました。
それでも伝えることは大切ですね、という司会者の問いかけに、
「自分なりのモノサシで行動する、危険を測れる人間になってほしい」「安全を考えたうえで、いろいろな角度から伝えることにつくしてほしい」と、石津さんは答えてくれました。
(写真:石津さんの話に耳を傾ける学生ら 2022年7月28日午後、大阪芸大9号館203教室で)
《来場者の声》
▽大自然に向き合い、「届けよう」とする記者やカメラマンの願いが強く感じられた。最前線で体を張る人たちの安全をしっかり守った上で、情報を届けられるようにすべきだと思った。(放送学科2年生)
▽石津先生の、「なくなっていくものを残す」という言葉が大変印象に残った。難しいテーマだが、後世に伝えて、それが誰かを生かすことにつながると思う。(放送学科2年生)
▽「命があってこそ伝えることができる」「犠牲があったから今回のことは教訓になった」という2つの言葉は、相反する内容だと思う。とても難しいことだと思った。(美術学科)
▽中学生のとき「雲仙岳災害記念館がまだすドーム」を見学したことがある。(焼け焦げた)資料を見たときのショックが頭に残っている。災害記念館では、地元住民と報道の人たちとの間に溝があることは、当時の私は理解できなかったので、今回改めて学ぶことができてよかった。(放送学科2年生)
(写真下:石津さんがかかわった雲仙岳災害記念館の資料などをもとに、トークセッションは1時間半にわたって行われた 2022年7月28日午後、大阪芸大9号館202教室で)
(写真下:トークセッションのポスター)
了
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