ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

なはりH 地点

2010-06-04 12:50:43 | 昔話
久方ぶりの奈半利の地点シリーズです。8番目ですから「なはりH 地点」です。

奈半利町の中では、たぶんかつて最も多くの人が行きかった場所です。
高札場跡地です。
すでに両側は、空き地となっています。取り壊された建物のかけらさえ、今は感じることはありません。
 左側は、かつて料亭でしたし、右側は高知相互銀行でした。



 高札場。土佐藩が、民衆にむけて出す、通知情報が張り出されていた場所なのです。

 そして、ここから、野根山街道が始まる基点なのです。
 左に向かうと300M程で奈半利川があります。かつては渡し場がありました。
 右はずっと商店街です。本当にたくさんの店舗が軒を連ねて、商売をしておりました。

 かつての繁栄が、この場所に戻ってくるのか分かりませんが、せめて行き交う人が笑顔で歩けるようになればいいと思います。

 もちろんそのときには、この両側の土地にも何かしらのチャレンジが実現できていることでしょう。
 期待しています。

なはりG 地点

2010-05-05 16:18:30 | 昔話
加領郷漁港です。
写真を撮ろうとしたとき、偶然漁船が帰ってきてくれました。
動いているものが一つあると、画面がちょっと変わっていいですね。


 この場所を、なはりG 地点としました。ここはなかなかに歴史のある場所で、主として漁業を中心として生活を営んできた特異な場所でもあります。取材をしていると旧知の女性が、昭和9年の室戸台風の際には越波が激しくて、登録有形文化財に指定されている大西家に逃げ込んだこと等を話してくれました。その昭和9年の室戸台風は記録によると奈半利で死者6人、家屋流失100余、舟の流失73隻となっています。凄い数字です。堤防等の整備が不十分だったのでしょうが、海岸の生活は刺激的なのです。

 この加領郷という場所は、17世紀の当初、山内家が土佐支配を始めたころ、奈半利の人々が舟に乗って、燃料としての保佐を取りに来ていた場所だったのですが、時折魚群を見たことから、網を作り魚を獲りはじめたようで、加漁郷となり、加領郷と変化したらしい。
 この場所は、奈半利の初代の郷浦庄屋、濱田七郎右衛門の子孫濱田喜平次が天和元年(1681)に加領郷に移住し、さらにその子が加領郷浦支配となり、漁業権を獲得して漁業を行った事に始まるとされています。

 かつて日本の遠洋鰹・鮪漁業の先駆的役割を果たしてきた男達の基地です。
 沿岸漁業から遠洋漁業への転進をはたした、勇気ある男達の生活の場であったのです。

なはりB 地点

2010-04-20 16:28:54 | 昔話
 軍事戦略上の理由からでしょうか、また大きな木材を上流から流していたことから、橋脚を作っても安全が保たれないとしたのでしょうか、奈半利川には橋が架かっていなかったことから、色々な物語が伝わっています。

 上流から水に乗せて木材を流す以外に海岸まで木材を運搬をする方法がなかったのですから、このあたりで回収をしていたはずなのです。
 さらに、野根山街道を通ってきた方々が高知に向かうため、渡し場を通過したのです。
 そしてこのあたりには、奈半利川の川湊・奈半の泊まりがあったそうで、荷物を船舶に積み込んだり、おろしたりと、大層な賑わいがあったところなのです。

 このあたりなのです。



 昔々、この渡しに、大変欲の深い「渡し守」がいて、旅人を小船で対岸へ渡していたそうな。
 ある年の夏、一人の老遍路が渡し場へたどり着き、「一文無しの遍路でございます。どうか善根で渡していただけないでしょうか」といったそうな。

 欲の深い渡し守は即座に、「駄目だ、ただで渡しよったら、こっちの口が干上がるワ。」

 と渡してくれない。困り果てた老遍路は川原に座って、往復する船を眺めていたそうな。

 やがて日も暮れて、渡し守は船を岸につないで帰ろうとしたが、川原に座って遍路を見つけて声をかけたそうな。
 「おい。遍路、お前の生国はどこぞ?」
 「はい、国は丹波の国でございます。」
 
 「そうか。丹波の国には大江山という山があって、鬼がおるそうなが、今でもおるか」
 と聞いたそうな。
 そしたら、遍路は「いいえ、今はおりません。」
 「そしたらその鬼は何処へ行ったぞ。」
 「はい。その鬼は土佐へ追放になって、奈半利川の渡し守をしておるそうでございます。」

 お遍路の精一杯の皮肉を聞いて、渡し守も思うところがあったとみえて、遍路を向こう岸へ渡してやったと。

 
 こんな話が残っています。
 お遍路さんの一生懸命さが伝わってきます。奈半利川の渡し守と遍路さんの話です。
 いかにもといったところです。

 ただ奈半利川の渡し守については、1601年山内一豊が土佐初入国の際、危険を顧みず、川田某が川渡しに尽力をしたことから、末代までの渡し守を許されていたのです。
 話は話。真偽の程は分かりません。

 この辺りが、人の交通や物資の流通基地として賑わっていたことは、間違いのないことでしょう。
 雨が降って水かさが増すと、川止めとなり、奈半利の旅館や飲食店が賑やかになったそうな。
 奈半利B地点としました。今昔物語といったところです。

なはりA地点

2010-04-19 11:57:10 | 昔話
なはりA地点。ご紹介します。野根山街道の入り口です。A地点として、思いつくままを書いてみたいと思います。



 町中を走る野根山街道が山懐に入るところです。この場所から、野根山山系に入り尾根道を通って安芸郡東洋町野根にむかうのです。
 このあたりは、古代の奈半利にとっても重要な場所だったのです。

 この場所から南側に弥生時代には、すでに人が住んでいたらしいのです。石斧や石包丁が出土しているからです。四手井山の南斜面とされています。多分、水の調達が楽で、かつ奈半利川が東西に流路を変えていたそうですから、その危険から身を守れる場所。安全と快適性を考えて、この場所だったのでしょう。石包丁は稲穂を刈る道具でしょうから、稲作をやっていたそうな。西暦で言うと紀元前100年とか200年といった頃でしょうか。
 
 奈良時代の中期頃でしょうか、コゴロク廃寺が建立された場所だといわれております。
 南国の国分寺が建立された頃だとされています。8世紀中頃のことですね。
 この場所は、古代における高知の安芸郡のある意味、中心地だったことになりますから、県史など読んでいても、納得なのです。今は何もありませんがね。田畑が広がっているのです。

 幕末に「なはり焼」という窯が築かれたのもこのあたり。利用可能な粘土を産して、窯を作る傾斜があって、燃料としての木材が調達しやすい場所なのです。

 そして長曾我部元親の軍が野根の城を落として、土佐全域をまとめたとき、野根からこの場所に下りてきて、多気・坂本神社に参拝をしたのです。ここからその神社まで1KMちょっとかな。戦勝お礼に手を合わせて、それから軍を岡豊城に帰したのだそうな。

 もちろん、8世紀初頭、官道としての野根山街道が開かれたときから、明治33年(1900)に廃止されるまで、1200年近く、どのくらいの人々がこの場所を行き交ったのか想像も出来ないのですが、多くの物語を今に伝えているのです。この場所を「なはりA 地点」としてご紹介しました。
 私は、この辺りが「奈半利が始まった場所」だと考えているのです。
 そしてこうした里山は、人が住み始めた頃から、食料や燃料を調達していた場所なのです。養い親のような場所です。


向こうのに田野町の大野台地が見えます。そして奈半利の町が目に飛び込んでくるところです。

近くに、石碑が建てられています。
そうですね、奈半利にはたくさんの記念碑というか、石碑が立っていますから、改めてご紹介しましょう。

神武の東征

2010-03-27 22:52:13 | 昔話
 古代の話なのです。
 それも、神武天皇の東征という、有名な話なのです。

 高知県の安芸郡奈半利町に「延喜式」の神名帳に記載された神社、多気・坂本神社があります。
 
 そして広島県安芸郡府中には同様に神名帳に多家神社の名前があるのです。

 「古事記」(712年完成)にあるのは、神武東征の通過地点として阿岐国(あきこく)の多祁理(タケリ)の宮となっているだけなのです。

 菅原道真によって編し始めた「延喜式」(927年完成)に同様に式内社として記載されているのですから、すでに当時双方に社殿があり、それぞれの地域において認知されていた神社ということになります。

 高知と広島。場所は違えど、同じ安芸郡に多気神社と多家神社がともに存在したのですし、多気神社は坂本神社と合祀され、多家神社は平安以降所在がわからなくなり、江戸時代に松崎八幡宮と合祀されているのです。

 結構、類似点があります。さらに興味を引いてくれます。

 神武天皇の東征時期は紀元前という気の遠くなるような時期とされているだけに、誠に面白いのです。
 神武東征のおりの多祁理(タケリ)の宮、奈半利の多気説を意識して、長い歴史に思いをはせましょう。神武の東征は高知県の沿岸部を移動して畿内に入っていたのです。

 一時期的にでも日本の初代の天皇が、ここ高知県の東部、奈半利の地に7年も居たことになりますからね。
 それに、こうした研究をしている方がたくさんいらっしゃるのにびっくりです。

 研究者を集めて奈半利でシンポジウームでもやったら面白いかもしれません。
 結論はすでに奈半利??。
 研究を続けましょう。ってところでしょうね。

 昭和28年に奈半利町役場から発行されている「奈半利町史考」(安岡大六著)にそうした記述がありますから、偉大なる先輩の意見は大事にしなければなりません。
 研究の必要ありです。
 古事記完成からすでに1300年ちかく、延喜式にしても1000年以上が経っているのですから、発想を自由にして、辛抱強くやらなければなりません。

 昔々の話です。
 
 

僧 行基。

2010-03-25 10:37:36 | 昔話
凄い方の登場です。
 僧 行基様です。どうしても書きたくなっています。

 行基様は奈良時代の僧侶で、今の堺市辺りで天智7年(668年)頃に生まれたのだそうです。
 父は渡来人系の方で母は河内の方でした。
 そして彼の師匠といわれているのは、飛鳥寺の僧道昭。僧道昭は入唐して玄奘の教えを受けた事で有名な方ですので、行基は玄奘三蔵の孫弟子ということになります。

 さて、何でここで行基様を登場させたかというと、高知県にも多くの寺がありますが、たくさんの寺が「行基開基」としているからです。
 さらに、行基様は入唐はしていないのですが、師道昭からの教えの中に伝道と社会活動の結合について等、幅広い内容が含まれていたようなのです。

 残念ながら僧行基様が土佐に来られた資料はないのですが、例の大豊の豊楽寺(国宝)や五台山竹林寺等、高知県だけで16ほどもあるのです。刻まれたとされる仏像も100体ほど存在します。

 誰かがいつの頃からか、詐称したことになるのですが、したことは既に時効ですから、いいのです。そうしたかっただけなのでしょう。
 わが寺院は僧行基様とご縁があるのです。そうした動きが平安時代から鎌倉時代にかけて行われていたそうな。そうする事で、寺院を由緒あるものにして、寺格を高めようとしたのでしょう。
 それだけ全国の民から尊敬を集めた僧行基の活動は、池や水路の構築等土木事業を含め社会事業全般に及んでいます。そして広く民衆の信頼を集めたがゆえに、朝廷は彼の宗教活動を禁止し、弾圧を加えるのですが、民衆は彼への支持を離すことはなかったのです。
 僧行基は天平21年(749年)に今の奈良市でなくなるのですが、東大寺の大仏建立の真っ最中でした。
 しかし伝説は独り歩きを始めます。行基が発見した温泉だとされているものも、全国に10ヶ所以上ありますし、貯水池までもあります。さらに港を整備したとされる話などキリがありません。

 民衆が守り育ててきた民間伝承なのです。ありがたや。ありがたや。なのです。

 政治家ではなく、宗教家であったことが、何となく納得するところです。
 権力を握った政治家が、なんと尊敬を集めないことか。信頼されないんですよね。
 今も昔も変わらないのかもしれません。
 悲しい現実です。
 今どうでしょう。尊敬に値する政治家っています??。
 
 たぶん僧行基様がなくなって後、何十年何百年か経って後、あの行基様を身近に感じたいとか、寺側の思惑からそうしたことにしたのでしょう。
 慕われる存在なのです。忘れられない人なのでしょう。ありがたや。

 
  
 

小龍

2010-03-18 18:20:53 | 昔話
河田小龍は、土佐藩の御船方軽格の藩士土生玉助の長男として文政7年(1824)に生まれるのですが、祖父の生家河田家を継いだことから河田を名乗ることになるのです。
 幼少の頃から島本蘭渓に画を学び、さらに岡本寧浦の門下に入って勉学につとめるのです。基礎的な学問は岡本寧浦の下でしたのですから安芸郡にもご縁がありますね。

 小龍は本来は画家でしょうが、画家以外の仕事のほうが有名になっています。

 彼の人生が大きく変わるのは1852年のことです。ジョン万次郎が登場するからです。
 15歳で遭難しほとんど日本語を忘れていた万次郎と年は3歳ほど年長でインテリの小龍。それまでにオランダ語についての知識を持っていた彼に吉田東洋が万次郎についての調査を命じたのです。
 吉田東洋は浦戸の船奉行でしたから、小龍の父の上司だったのですし、さらに岡本寧浦とも交流があったことから、小龍の事は以前から注目をしていたのでしょう。

 漂巽紀畧はそのときの聞き取り調査報告書といえるもので、当時のアメリカ西洋事情書として多くの志士達に多大な影響を与えたとされているからです。
かつての小龍は画家として狩野永岳の門下に入り、京都二条城本丸御殿の襖絵の大修理に参加するなど、着々と実績を重ねていたのですが、漂巽紀畧を提出して以後、勤皇の志士たちとの交流が増えるのです。坂本龍馬をはじめ彼らとの交流は彼の人生を大きく変えたように思います。単に画家ではなくなったのです。実業家への転進を意識したこともあったようですが、どうもうまくはいかなかったそうな。
 あの当時、画家といっても1職人ですから、坂本龍馬達と交流をすると、知識を獲得しながら幅広い興味となってあれこれ受け入れるしかなかったのでしょう。

 幕末から明治初頭の小龍は画家として、後進を育て、作品を残します。
 明治21年の春になるとかつて高知県令であった北垣国道が京都府知事に就任したことから、彼に招かれて京都府事務取扱雇となるために、高知から東部海岸伝いに京都に向かうことになります。
 このとき、彼は紀行文を書いているそうです。洒脱な文と得意の絵を添えてあるのだそうですが、読んでみたいものです。高知から京都まで、紀貫之の旅は船旅でしたが、小龍の旅は歩いての旅ですからずっと、今読んでも楽しいことは請け合いです。

 京都では琵琶湖疎水事業の記録係として「疎水図誌」を完成させます。さらに明治天皇・皇太子御前揮毫をするなどして、画家としての晩年を送るのです。

 明治31年(1898)享年75歳。京都北区の等持院に眠っております。
 興味深い明治の土佐人の一人です。



監督吉田喜重

2010-03-16 13:09:24 | 昔話
 映画作りに参加したことがあります。
 久しぶりに整理作業をしていたら、写真が大量に出てきましたから写真パネルを作ってみました。
 映画の題名は「幕末に生きる、中岡慎太郎」 ドキュメンタリー映画でした。

 監督は吉田喜重

 中岡慎太郎の生誕150年を記念して、「中岡慎太郎を表舞台に出す会」が組織され制作したのです。
 私もこの会の一員として、募金活動から下働き。さらにフィルムをもって上映会までやりました。考えてみたら当然のごとく若かったねえ。16MMのフィルムを持っていって映写機持参で出かけてゆくのです。料金は当然制作費になりました。支払いが完了したときはうれしかったですねえ。
 リスクをリスクと考えなかったのです。
 少し怖かったですがね。

 何にも無いところから、募金によって金を集めて映画をつくろうなんて考えたのですからね。それも3500万円なんて今考えたって尋常ではないのです。

 仲間とともにやってしまいましたから、無事終了でありがたかったですねえ。

 監督吉田喜重氏は誠に魅力的でした。紳士でしたねえ。

 何年かあと、彼の講演記録を読んでいたときのこと、「なるほど」と思いました。

 その講演の中で彼はこんな発言をしているのです。
 「劇映画とドキュメンタリーに境界は無い。」

      映像をとおして何かを表現をするという意味では、境界は無い。のだそう。

 「人間は物語を必要とする。しかし物語に裏切られもする。」

      人には物語が必要だ。しかし裏切られることも知っていながら楽しんでいる し、意識の中で目とか言葉でつじつまを合わせているのです。

 「スクリーンは私の目だ。」
      
      映画と私の間に、私の目がある。私はその目に導かれて映画を撮る。のだそうです。
「映像は、物語を越えて存在する。」

      彼の発言だと思えば納得で、彼に監督依頼したことは間違いはなかったのです。

 そして今でも思い出します。彼が完成したばかりのフィルムを持って、北川村で上映会を開催したときの中で彼はこのような発言をしました。
 
 「映画が出来ました。今までは私の映画でしたが、これからこの映画は皆さんのものです。」

 彼の目が撮らせた作品が北川村、安芸郡、高知県にあるのはそれぞれにとっても財産かとおもいます。
 改めて、見てみたいとおもいます。彼の目を楽しめることと思います。

 ずっと考えていたのです。吉田喜重というビッグネームの監督が何で廉価版の記録映画を撮ってくれたんだろうか。とね。
 中岡慎太郎の魅力はあったのでしょうがね。いい思い出です。

私立学校

2010-02-23 17:03:57 | 昔話
 明治22年(1889年)に高知県安芸郡の奈半利に私立学校が出来ていたのです。都会では私立の学校って珍しくもないのですが、田舎ではあまり聞いたことがないのです。

 なにしろ、明治22年(1889年)のことですからね。
 かの大隈重信翁による早稲田大学の前身・東京専門学校が出来たのが1882年ですから、遅れること7年程度なのです。

 明治19年に修行年月4年の尋常小学校を設置したのですが、明治22年に田野に高等小学校が出来ることになったのですが、奈半利にはできないとなったことから、奈半利の藤村米太郎・竹崎才吉・包国可治等の有志が尽力して、奈半利に私立高等小学校を設立したそうな。
 なんか、昔の実業家って凄いのです。

 明治27年には修行4年の高等小学校を尋常小学校に併設することで、その役割を終えるものの、ここには北川村の児童も通学するようになったのです。

 いつも間にか、地域に住む私たちにとって、学校という存在への意識が希薄となり、児童を持つ親と行政の仕事とに任せていたように思います。
 地域の子供たちを、地域で育てるために町立の学校があるのです。そうしたことをつい忘れてしまうのです。

 先輩達の熱意に乾杯です。

唯一の国道

2010-02-12 13:18:23 | 昔話
 高知から東へ。国道55号を走っていると、安芸市市街地を通過して大山岬の手前で、こうした場所にたどり着きます。
 写真は東から高知市内に向かって、撮影しているのですが、進入禁止標識が光っています。

 そうなのです。この場所、国道なんですが梛(なぎ)の巨木を保存することにしたことで、中央分離帯としているのです。

 この木は、もともと北側、山手にある波切不動明王の境内の神木なのです。周辺の漁師達の信仰を集めていたことから、昭和44年の国道拡張改修工事の際、関係者の努力で残されたのです。
 建設関係者の英断に改めて乾杯です。
 いい話です。

 樹齢300年とも400年とも言われておりますが、国道を走る車をずっと見続けているのです。道路を上下に裂いたような形になっているのですが、いい風景ではないですか。

 私も何時もこの木の下を通過しておりますが、ふと立ち止まってカメラをむけてしまいました。

 日本では唯一国道の間に立っている木なのだそうな。
 「コンクリートから人へ。」
 40年ほど前の、先進事例です。高知県の東部地域の財産の一つです。