ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

土佐漆喰物語

2010-01-26 16:34:29 | 昔話
 漆喰は、古くから全国の城郭をはじめとした建築物を作るときに、特に外壁材として利用されてきたのですが、高知には土佐漆喰というものがあります。土佐漆喰は、いつ頃誰が作り始めたのか、ただの漆喰と何がどの様に違うのか、面白い記述がありますから、ご紹介します。

 時代は文化年間(1804~1818)頃に四国巡礼の途中に阿波の徳右衛門が稲生(羽根村史には下田と記述)で倒れ、路頭に迷いかけたところを村民に助けられたことから、恩返しにと石灰窯の焼き方や製造方法を伝授したのだそうな。良質の石灰石が大量にあったことからそのような話になったのでしょう。

 しかしながら技術を他国にもらした事で、阿波に帰る事ができなくなった徳右衛門はまた土佐に舞い戻ってくるのですが、稲生では冷遇されたことから、室戸の羽根村で住まいし、技術を伝えながら生涯を終えたそうな。
 
 以前に土佐備長炭の製造方法を伝えた和歌山の植野蔵次氏と似たような話です。
 四国88ヶ所巡りの遍路のたびは、土佐の経済にも大きな影響をもたらしたのです。
 道は人だけではなく、文化も運んでいたのです。

 それ以前の漆喰が石灰に海草糊と麻を混ぜてこねたものだったのですが、土佐漆喰は糊を使わないので乾いても戻りが少なく、厚塗りが出来、出来上がりのきめ細かさが特徴なのです。
 今現在でも土佐漆喰や土佐備長炭は現役の地域特産物として、地域経済を支えています。
 その土佐漆喰、奈半利町等の登録有形文化財にも当然のように使われております。

 高知県の東部地域の気候は風雨が激しく、家を守るためには厚く塗れることが大事だったようで、1センチにも厚く塗った壁を半分近くまで圧縮して塗り固める左官の技術が求められたのです。
 また水切り瓦などの工法も、土佐漆喰があったればこそ、といったところです。

 良質の石灰石を土中窯でコークス・塩と共に塩焼しその石灰に腐らせて発酵させた藁スサを加え、水を加えてこね、半年程度保存して土佐漆喰となるのだそうな。
 なかなかに手間隙のかかった技術の結晶なのです。

 漆喰の歴史は本当に古く、原始的な物で漆喰といえるのかどうか解りませんが、そのようなものが、高松塚古墳にも使われているそうな。

御物に手紙。

2010-01-20 17:43:34 | 昔話
 一冊の本が教えてくれました。御物の中に手紙があるとの事なのです。
 それも、坂本龍馬の手紙なのです。
 その本は、「高知県の不思議事典」といいます。

 その本によると、昭和天皇が坂本龍馬の手紙を持っていたというのです。
 へ~~といった感じです。それは龍馬が姉乙女に宛てたものだったのですが、昭和天皇が崩御した後、持っていた宝物を国に寄贈したところ、その中に龍馬の手紙があったというのです。
 ちなみに御物を寄贈された国は、平成元年、皇居内に三の丸尚蔵館を開設して一般の国民に公開しているのです。
 
 しかし何で昭和天皇が坂本龍馬の手紙を持っていたかというと、高知県の佐川町出身の田中光顕が昭和天皇が即位した際、昭和3年だったそうですが、記念として維新の志士の資料を送ったとされているのです。彼は明治31年から42年まで10年以上もの長期間、宮内大臣を勤めていたのですから、そうしたことが出来たのですね。

 昭和3年といえば、高知の桂浜に坂本龍馬の銅像が建立された年ですね。今と同じように坂本竜馬について全国で注目を集めていたようですよ。
 天皇が持っていたのです。弟が姉にあてた手紙がね。凄いね。

 さらに銅像の建設に際しては、資金調達等、ときの入交好保さん等の青年グループが大活躍をするのですが、彼らがもっとも頼りにし、また援助を惜しまなかったのは、野村茂久馬翁だったことは有名な話です。
 さて、その野村茂久馬の建てた家は今、登録有形文化財として登録され、残されています。
 奈半利の財産ともいえる建物なのです。

 御物は簡単に見ることは出来ませんが、登録有形文化財は見ることが可能ですから、是非奈半利町に来てください。
 楽しめますよ。

 私も一度、三の丸尚蔵館に行ったことがあるのです。
 随分と昔のことですが、東京駅の丸の内側から歩いて15分ぐらいだったような。

 伊藤若冲の群鶏図を見た記憶があります。
 圧倒的な大迫力でした。なぜかそれ以外は印象がない。
 是非一度いかれたらいかがでしょう。国宝クラスの宝物が並んでいるはずです。
 収蔵品目録には、かの王義之筆の喪乱帖もありますよ。小野道風・俵屋宗達・円山応挙・狩野探幽・・・。

 キリがありませんし、ここにはお宝鑑定団は必要ありません。本物ですからね。

 
  

「浦?」

2010-01-17 13:22:20 | 昔話
 突然聞かれたのです。「浦ってどんな意味?」
 マア答えておきましたが、ちゃんと書いておきましょう。

 「浦」は土佐藩においては行政支配区分の一つです。
 お城下には町奉行がいて支配しますし、郷村には郡奉行が担当です。そして村々には庄屋さんがいたのです。
 浦は浦奉行が支配していたのですが、浦は海辺の集落ですが単純に漁村ではありません。また海辺の集落が全部「浦」とも言いません。浦に住む住民の職業は商業・漁業・船乗り等ですが基本的には商人とか水主とか職人さん等です。

 「浦」は地域の中で商業機能を有しており、さらに廻船などの輸送機能を持ったグループに、漁業者までがいたところなのです。
 浦には浦奉行が配置されて、浦の支配・運営をしていました。

 土佐藩にとっては、「浦」は年貢として入ってくる米を換金する市場ですし、東部地域の浦には森林資源の輸送等重要な仕事をする職能集団がいたのです。
 浦奉行は、税の徴収やら有事の際の対応など、藩の体制を維持するための重要な役割を果たしていたのです。

 浦がイメージできましたか?。
 高知の東部地域の「浦」は街道沿いにありましたから、商人も多く住んでいましたし、地域経済も活発に動いていたのです。
 それだけに大きな浦の浦奉行は土佐藩の中でも高級官僚だったのです。

 なはり浦の会の「会長」をこれから「お奉行様」って呼ぼうかなあ。
 それもいいかも。でも本人が嫌がるかも?

延喜式?。

2010-01-16 00:10:44 | 昔話
 昨日つい、時代確認のために延喜式について書いてしまったのですが、高知県東部地域の延喜式関連の代表は、多気・坂本神社なのです。

 延喜式は延長5年(927年)にまとめられた、養老律令の施行細則といえるもので、古代日本の法典なのですが、全部で50巻、3300条もの幅の広さと具体的な内容を誇ります。その巻九・十が延喜式神名帳なのです。
 その延喜式神名帳に記載されている土佐の延喜式式内社21社のうち、安芸郡には3座の記述があるのですが、奈半利町には多気神社と坂本神社があります。今は多気神社に坂本神社が合祀されて、多気坂本神社として祀られています。あとの1座は室戸市の室津神社です。
 
 私にとっても「だけさま」は1000年以上も前からこの地にあること以上に思い出深い場所です。子供の頃からの楽しい遊び場所でもあり、神域として少し緊張感を感じさせられた場所でもありました。いまでもお旅所から南に向かっての風景は、奈半利随一だと思っています。当然のことですが、地域住民からも、真摯な信仰を集めているのです。
 かつて、神祭になると賑やかで、子供心にうきうきとして出かけたことでしたが、21世紀の現在は、今は昔といったところでしょうか。

 ゆっくりと時々は歩いてみたい場所です。千年と一口に言いますが、時代背景について考えると「よくぞ残った。」といったところです。
 逆に何でここにといった問いかけも、これからの研究を待たなければなりません。

 安芸郡の延喜式内社3座のうち2座をもつこの町は、かつての繁栄を失いつつあります。
 これからこれからと、思いたいところですが、どうでしょうね。
 先生方よろしくお願いしますよ。

 

貫之と土佐。

2010-01-15 00:05:20 | 昔話
 「土佐日記」を皆さん、ご存知のことと思います。土佐の国司であった紀貫之が任期を終えて、京の都に帰るときの55日間の旅行記なのですが、ひらがなで書かれた最初の日記文学として有名なのです。
 土佐・高知県にとって知名度という観点からいうと、土佐日記を発表してくれた紀貫之のおかげで、随分と助かっているように思います。
 彼が国司として土佐に来ていたのは、延長8年(930年)から承平4年(934年)までの4年間なのです。随分と昔の話なのですが、国司としての仕事振りとしては、能史であったことは間違いないとしても、国府付近の住民に官用紙を漉かせたのが土佐和紙の始まりとの話も在りますが、延喜式の中に土佐が紙の主要産地として出てくることから、この話は??でしょうか。
 延喜式がまとめられたのが延長5年で、貫之が土佐に赴任する3年前ぐらいですから、紙に関する記述は、間違いないところでしょう。

 土佐と貫之の関係が未だに「土佐日記」の存在一つで、日本中に知られています。
 文学作品はすごい効果があるものです。土佐の広報担当として1000年以上頑張ってくれているのです。今で言う「観光大使」ですね。

 紀貫之に先立つ50年ほど前、かの菅原道真が讃岐の国司として赴任していたのですが、あまり知られていません。道真は九州大宰府のイメージが強いですね。

 多分普遍的にこれからも文学作品として読み継がれるであろう「土佐日記」があることは高知県にとってありがたいことです。

 しかし、「土佐日記」の最初の項に送別宴会がたくさん出てきます。1000年以上も昔から、土佐の国の住民は酒スキダッタヨウデスネ。マアしっかりと飲んでいます。
 わが那波の泊でもしっかりと宴会があったようです。

 国司貫之が「いい人で有能な人。」だったからでも在りますが、酒文化を醸成し続けている土佐は、歓送迎会についても年季が入っています。

 遠流の地、土佐の国司の任は紀貫之の官吏としては、栄転でもなかったのでしょうが、その後の貫之の評価は高いものがありますね。

 これから春にかけて歓送迎会があちこちで開催されますが、ちゃんとやりましょう。
 楽しくやりましょう。しかし土佐日記の中にあるように何日にもかけて連続でというのは、ははは!!。どんなものかな。
 連続飲み続けての毎日は、しんどいものです。
 かつて連続18日連続飲み会の経験者としては、「しんどいことです。」

 今日は何の話だっけ??。紀貫之と高知県。酒つながりということでご容赦ください。

色の名前

2010-01-10 13:53:37 | 昔話
 ふとしたことで、色についての名前の豊かさに気づきましたよ。

 藍色、水浅葱、藍鼠、紺、鉄紺、濃紺、茄子紺、・・・・・。
 こうした昔の色の名前って綺麗だと思います。

 蓬色(よもぎいろ)だとか茜色(あかねいろ)。なにかイメージが膨らんでくるようです。
 ただ残念ながら、いまの私には区別がつかないのです。

 普段使わないのですから、仕方がないのですが、なにかしら表現力が減退しているように感じます。

 かつて言葉には、もっと力があったように思うのです。どうも、「これ」って見せてしまうことが出来る色見本なんかがあったりするものですから、言葉を発する必要がないのです。
 もちろん互いにわからないもの同士ですから、群青色でお願いしますとかと言うより、青50%、黒20%・・・・。などということになるんでしょうかね。

 それよりブルーって、または青系ってことで、濃い青系の・・。そうした表現のほうが相手に伝わるようです。

 日本語は豊かな表現をまだ持っているように思うのですが、理解する人が少なくなっているのでしょう。

 言葉遊びになっても、時々意識的に使ってみてはどうでしょう。

 ライトブルーではなくて、「水浅葱にしてください。」きっと見直してくれます。

歴女?

2010-01-09 14:54:57 | 昔話
 歴女??。歴史上の女性たちではなくて、歴史の、特に戦国時代の武将に関心が向いている女性たちといった存在だそうな。

 そんなに格好がいいんだろうかね。昔の武将達。
 命のやり取りをしていた、武士階級だったのです。一種の特権階級ですからね。
 歴史に名を残すって、大変なことではあるんですがね。
 コミックの影響もあるんだろうな。
 [かっこいい]って言うような評価でしょう。

 しかし、昔の女性たちって、今から考えるとかわいそうな感じがしますね。
 なんといっても、名前まで解らない方が多いんです。さらに名前は分かってもそれ以外は資料がないようなことが多いのです。
 男尊女卑といってしまえば、そのままなのですがね。

・・の妻、とか・・の娘とかですね。

 歴女。過去を顧みて、さてこれから何を思うのか。
 今の男達はかつての戦国武将ほど、胆力もなく気力もない。もちろん体力だって平均的に、ないだろうからね。
 やさしくしてあげてください。応援してあげてください。今の男性諸氏に。
 今の時代。100年後に伝説となるような人っているのかな。
 これは、ほんとに期待しております。
 出て来い。ヒーロー。
 

 

明治の玄奘三蔵。

2010-01-04 15:02:43 | 昔話
 箱根駅伝を見終わって、東洋大学の強さが際立っておりました。
 今日は河口慧海について書いてみたくなっております。

 駅伝と河口慧海は関係がありません。
  河口慧海は東洋大学の教授だったのです。あまり有名ではないのかもしれませんがね。どんな方だったのか紹介したいと思います。
 
 さて、玄奘三蔵はご存知かと思います。

西遊記のモデルのような、唐の時代に実際にいた僧です。
 もちろん孫悟空等はいなかったのでしょうが、経典を求めて天竺(インド)へ向かうのです。当時唐は鎖国政策をとっていた事から、密出国をすることになるのです。日本ではまだ大化の改新(645年)も起きていない頃の話です。

 その玄奘三蔵のような人物。今日は、河口慧海について書いてみようかなと思います。
 もう40年ほど前に彼の著書「チベット旅行記」を読んで魅せられてしまったのです。

 彼は今の堺市に1866年に生まれます。そして井上円了がはじめた哲学館(東洋大学の前身)を卒業後出家(1890年)するのです。
 その彼、仏教原典の研究のために1897年ごろ、インド・ネパール・チベットまで出かけることになるのです。当時はサンスクリットから漢訳された経典を日本語に再度翻訳していたものしかなかったのです。当時鎖国状態のチベットに経歴詐称して入国をし、そしてセラ大学に学ぶことになります。日本から出国以来3年が経過していたそうな。

 そのときの旅行記が6年後に帰国後発刊されて、ブームとなります。
 
 私も昭和の時代に講談社学術文庫でこれらの作品に出会って刺激を受けたのです。面白いのです。そんな馬鹿なといったカルチャーショックの連続です。

 再度ネパールへ出かける際、彼は黄檗宗一切蔵教を京都の版元から買い受けると、それを土産に出かけるのです。
 それが今でも、ネパールの国立公文書館の蔵書として存在しているのですから大したものです。なにしろ仏陀が生まれた地に、日本で印刷された経典が里帰りをしたことになるのですから。「翻訳が違うぞ」とか「よくやったなあ」とか、どんなだったのかな。ネパールでの評価はね。

 1915年帰国した河口慧海は東洋大学の教授となり、仏教の原典研究、旅行記の執筆後進の指導にあたったのです。
 昭和20年80歳で没だったそうな。

 井上円了曰く「諸学の基礎は哲学にあり。」意思なき行動は無益なのです。
 そのとおりかと思います。

 駅伝からチベットに行って、東洋大学に戻ってきました。
 今年も頑張ってブログを書きましょう。はちゃめちゃな記述で失礼しました。

 昨年書き始めて今日で187日。延べ14,543人の訪問者がいてくれて、総閲覧数31、747。
 ありがたいことです。
 

吸江庵

2009-12-18 21:52:53 | 昔話
 夢窓疎石をご存知でしょうか。今から700年ほど前の鎌倉・南北朝時代の僧なのです。晩年には京都天竜寺の開山となるほどの名僧なのですが、その彼が土佐に来て、五台山に吸江庵を建立していたのです。43歳ほどの頃ですから血気盛んな頃でしょうね。

 夢窓疎石が庵から出た後も、守護代細川氏や国主長宗我部氏の尊信保護を受けていましたが、長宗我部氏の衰退と共に寂れておりました。
 長宗我部氏12代兼能が吸江庵の寺社奉行に任命されたとの記録がありますから、この辺りからですね。ご縁が出来たのは。
 かの長宗我部元親は21代ですから、随分と昔の話です。

 ということは、長宗我部氏を初め土佐の武士達も、彼に会っているはずなのです。当代一流の学僧と彼らがどのような形で出会い、何を話したのか興味があるところです。多くの門弟を育て、その数1万とも言われる国師のことですからね。

 知と武が出会って、多分新しい何かが産まれていったのです。
 その後の長宗我部氏の隆盛と衰退に吸江庵がどの様に係っていたのか、興味のあるところです。
 
 慶長6年(1601年)山内氏入国後に山内一豊の命により湘南和尚によって再興されるのです。この時から京都妙心寺の末寺となりましたが、傑物が出始めるのです。

 さらに、湘南和尚にしても夢窓疎石が開いた庵を吸江寺として再興することに感慨深いものがあったことでしょう。
 吸江庵。少し調べてみましょう。かつて五台山にあったのです。

聞かれて困った。

2009-12-04 11:48:42 | 昔話
 
 「五節句は?」聞かれて困ったのです。

 よく聞く言葉です。ほら雛祭りの桃の節句とか、5月の端午の節句。
 しかし、全部良くわからなかったのです。

 調べてみました。
 人日(ジンジツ) 正月7日 七草の節句  
          七草粥をこの日に食べると邪気をはらうとされています。

 上巳(ジョウシ) 三月三日 元は三月の最初の巳の日だそうです。
 の節句      江戸時代以降、雛祭りとして定着し、女子の節句とされた。

 端午(タンゴ)  五月五日 元は五月の最初の午の日。
 の節句      古くはこの日菖蒲や蓬などの薬草を摘んで門口に飾った。
          菖蒲が尚武に通じることから、男子の節句となった。

 七夕(シチセキ) 七月七日 星祭が元の話。牽牛と織姫です。
 の節句      女子が裁縫や手芸、書道の上達を願うようになった。

 重陽(チョウヨウ)九月九日 易で陽数の極である「9」が重なることから、
 の節句      めでたい日とされた。菊の花を飾り邪気をはらい長寿を祈る
          中国の風習が伝わったもの。

 五節句ありました。
 節目の行事ですから、なんとか続けていけたらいいと思いますが、こればかりは人の気持ちですから、難しいのかもしれません。都会より田舎のほうが残しやすいと思うのですがね。
 高知県の田舎でもそれなりに地域文化として残せる方法がある筈です。
 高知県独自の祭り方なども、探せばあるのかもしれません。

 地域文化を継承する意味でも、価値ある研究になるのかもしれませんね。