ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

なばり

2009-09-23 11:13:46 | 昔話
 古名を、那波あるいは奈半とかき那波(奈半)郷とよんだ。そうな。

 「十日、今日は奈半の泊まりにとまりぬ」トマリは、タマリ(溜)の母音交替形。ナバル(隠る)、動語かくれるの名詞形がナバリだろうと思う。らしい。

 土佐日記にあるとおり「ナハリ」とここでは言うのです。

 幕末の画家河田小龍の描く俯瞰図には「奈半里」とあります。

 地名にもそれなりに、意味があるようです。
 土佐史談会の発行する本にこうした記述がたくさんあります。
 面白いことです。

 

経済特区

2009-09-22 12:45:22 | 昔話
 野中兼山という土佐藩の執政が江戸時代の初期に経済特区を作った話です。17世紀の半ば頃だそうな。
 
 高知の城下も徐々に整備ができ始めた頃のこと、物部川上流域と高知城下を結び、商取引の場を設けることで、物流を円滑にする必要が出てきたのです。
 場所は舟入川の舟運を利用する目的で、長岡郡稲吉村に商人や職人を集めて新しい町を造ったのです。カヤの草原だったそうですよ。
 この商業地では諸役御免。いわゆる無課税地域を造ったのです。
 魚・塩・茶・薪などを商う商人が多く集り、繁栄をしたのです。税金がかからない商業地。今作っても繁盛することでしょう。

 兼山の経済政策だったのです。すごいことを考えたものです。
 名前の由来は、諸役御免からきており、今の南国市後免町なのです。
 だいたい350年ほどの歴史があることになります。

 そして土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の起点です。
 地名も面白い話・由来が結構あるものです。
 

一冊の本。

2009-09-19 05:35:18 | 昔話
 一冊の本がある。1994年発行。A4版で厚さ3.5cm。なかなかしっかりした本です。亡くなった父の本箱からちょっと拝借しているのですが、これがなかなか面白いのです。

 明治14年(1881年)12月5日 片岡健吉一行、安芸を発し奈半利村松吉屋に投宿。同村の有志浜田才吉、安岡駒衛、藤村米太郎、包国可治、広末鹿吉の求めで懇親会に出席、会員30名。・・・。・・が演説。片岡健吉、自由党の将来の目的等の質問に答える。同村には私学校設立され長は広末鹿吉、教師は元県会議員北川忠惇

 とある。
 12月1日に片岡健吉一行は安芸郡吉良川村政談演説会(6日)出席のため高知を出て、その日は赤岡まで、翌日は安芸まで、そして滞在。5日に奈半利に、さらに吉良川まで来て、夜八幡宮境内で政談演説会を開いている。聴衆300有余人とありますから、すごいことです。

 さて、松吉屋ってどこなんだろう。投宿ってことは宿屋だろうね。
 知らないなあ。
 人名はその当時のお歴々がずらっと並んでいるのです。
 しかし私学校って??。
 まだまだ郷土のことにしても、知らないことだらけです。

 私学校にしても、塾程度かと思っていたので調べもしなかったのですが、ちゃんと校長がいて、元県議会議員が教師をする。う~~ん面白い。調べてみましょう。
 北川忠惇は北川村出身。以前に高知県東部人物列伝に書いた北川武平次の長男です。

 しかしこの本、詳しいですね。誰が、どこで、誰と会い、何をしたのかが日毎に全部といって書いてあるのです。
 そして、当時の自由民権運動のなんとすさまじいことか。エネルギーにあふれています。
人と会い、話し、よく飲んでいます。元気です。大きな声で怒り、笑い、口論をしている様が見て取れます。

 今の高知はお休み中なのでしょうかね。明るい未来を語る政治家にあったことがないのです。残念ですがね。

 この本の編者の方々に立礼です。本は本箱に返します。また。

郡奉行所開設

2009-09-02 00:14:48 | 昔話
 嘉永6年(1853年)に郡奉行所を開設して管内の政治軍事を行わせたのです。
 ペリーが浦賀沖に現れる等によって、外国からの脅威に対抗しなければならなくなったのです。特に土佐藩は東西に長く、区分をして守備しなければならない必要性から郡奉行を置くことにしたのです。高知県の東部地域では、安芸郡奉行所として現在の田野町岡地に設けられました。守備範囲は安芸郡唐浜から甲浦までの広範囲でした。

 場所の決定には各候補地からの誘致運動があったようですが、いくつかの理由で田野に決まったそうです。
 魚梁瀬森林地域の下流で奈半利川を経て資源の集散地であったこと。
 7人衆といわれる藩と関係のある豪商がいて、地域の経済の中心地であったか
 ら、また地理的に安芸郡の中央に位置している。藩主参勤交代の際の宿泊地となっていた等々の理由が挙げられています。

 また岡地は小高い丘の上にあり、不時の場合でも要害の地であったことも、その理由の一つとされています。
 いまは、その場所には高知県立中芸高校があります。

 奉行には馬廻格の藩士が任命されており、副奉行には藩士または郷士がこれにあたったのです。さらに下役2名。留書役2名、文武相手役2名、郷廻役6名、さらに門番1名。当初は16名程度がその任に当たっていたのです。そして勘定方・蔵方・山方・船方作事方・普請方、さらに目付・横目といった現在の警察官までがいて、管内の村々の仕置きをしていたのです。

 安政元年(1854)になると田野学館が奉行所に併設され、近在の壮士が集ってくるのです。長州でもこの年、吉田松陰が松下村塾を継ぐのですから、人材育成の実際が始まったのです。
 翌年武市半平太が藩命により田野学館に剣術指南として出張し、中岡慎太郎等とここで出会うのです。慎太郎は16~17歳位でしょうか。もちろん清岡道之助や治之助も縁を得るのです。
 
 時代は人物を求めて育成を始めるのです。
 こうした変革を山内容堂・吉田東洋がはじめるのです。
 高知県史の中では、安政改革として位置づけられています。

 これから土佐藩は公武合体から勤皇運動に、さらに明治維新に突き進んでゆくのです。そして多くの人士がその変遷に否応なく飲み込まれてゆくのです。
 安芸郡下でも、海岸周辺の領民に呼びかけて民兵の編成を計るのです。以前の藩だと郷士、地下浪人に期待していたのですが、広く身分を越えて領民に呼びかけたのです。
 外国からの脅威に対抗するために組織された民兵も、本当に外国の近代兵器に対抗できたかというと、「無理」だったのですが、皮肉なことに彼らが実戦として動員されたのは、元治元年(1864)におこった野根山屯集事件なのは皮肉な結果と思えてしまうのです。彼らが23士を野根山に追うことになるのです。

 そして慶応元年(1865)5月土佐勤皇党は壊滅したそうな。
 明治元年が1868年ですから、なんとも言いようがないのです。
 戊辰戦争では、土佐藩は菊の御紋を掲げて戦うことになるのです。

土佐勤皇党の父。

2009-08-22 00:55:53 | 昔話
 今日は安田町の岡本寧浦について書こうかなと思っていたのですが、どうもいけません。なにやらどんどん広がって仕方がないのです。そのうえ同郷の高松小埜とのかかわりに気が行ってしまい、どうにもまとまらないのです。さてどうするか。
 とりあえず、今日出来る範囲で書いてみようと思います。
 最後まで行き着くのかわかりませんが、行ってみましょう。
 多分まとまらないだろうけどね。

 岡本寧浦。安田町指月山乗光寺第5世弁翁の子。後の世に曰く「土佐勤皇党の父。」なのです。
 彼は、名を退蔵、寛政6年生まれです。
 お寺の後継者なのですが、才を認めた父親が彼が6歳の折に寺務から解放するのです。「学にて身をたてよ。」だったのです。
 先ずは本山,西本願寺西六条の僧寮に入り基礎仏典を研究することから始めます。
 それから、彼の人生の中で命をかける程のかかわりが出てくる人たちに出会うのですが、そこからさらに広がってゆくのです。
 このままでは終わりそうもないので、一回目の途中下車をする事にします。

 下りる場所は広島県です。
 本山での研究に飽き足りなくなった彼は、安芸の国(広島県)の石泉僧叡和上の門を叩きます。この和上、実に寧浦に似ているのです。ちがう。和上に寧浦がよく似ているのです。寺の住職なのですが、寺務よりは学問が大好きで、若者達に教えるのが大好きなのです。石泉の門下から後の世に勧学(本願寺の宗学最高の位)が5人もでているのです。ゆえに石泉の門下を後の世に「石泉学派」とよび、浄土真宗本願寺派では「空華学派」と並んで「二大潮流」と呼ぶことになるほどなのです。
 
 そうしたところに寧浦は入ってゆくのですが、その石泉門下では、円識と共に「ニ傑」と称されるようになるのです。

 ここからです。その円識の弟子に宇都宮黙霖という人がいます。
 彼は国学研究によって勤皇論を唱え始め、40数カ国を渡り歩くのです。
 安政2年、萩に来て吉田松陰の書を読み感動をして、既に獄に繋がれていた松陰に書を送って影響を与えたとされています。
 安政の大獄の際にも捕縛されましたが、僧形により釈放されたとか棺桶に入って脱出したとかと諸説があります。

 後の世、明治新政府の総理大臣伊藤博文が「先生、先生」と呼んで追い回したとされています。

 さて、寧浦は土佐の高知で結婚をして、高知新町に私塾「紅友社」を開き門人千人を越えたといわれているのです。門人に間崎滄浪・清岡道之助や河田小竜・・・ときりがないほどです。
 結婚した相手は安芸市の医師小野敬蔵の娘とき。さらにその妹みねは岩崎弥太郎の母になるのですから、歴史をさかのぼると「面白い」ですね。もちろん寧浦は成長した弥太郎を連れ歩くことになるのですが、長くなるのでもう止めます。

 できれば、早い機会に岡本寧浦を書きたいですね。面白すぎて困ったなあ。
 高松小埜や中岡慎太郎もね。みんな偉いよね。
 彼らが今生きていたらなんと言うだろうね。
 考えるダニ恐ろしい。そう思う。
 やっぱりまとまりがつかなかった。残念。
 

戦争で生きた男

2009-08-15 00:08:23 | 昔話
 今日は、板垣退助を書いてみようと思うんですが、彼の資料が多すぎるものですから、想像して楽しめる部分が少なく面白くないので、3つ~4つのエピソードでつないでみようと思います。イメージを膨らませてください。
 どんな「人」だったのかをです。

 そう、年齢からいえば、天保8年生まれですから丁度坂本龍馬と中岡慎太郎の間といったところですね。明治の時代に自由民権運動の指導者として有名ですね。
 「板垣死ストモ、自由は死せず」という言葉は有名です。
 彼の生まれた乾家は藩の中では220石取りの馬廻り役、上士で高級官僚候補といったところですね。

 中岡慎太郎が郷里の有力同士に手紙を送っています。「乾(板垣)退助を何卒殺サヌ様・・ 」戊辰戦争が始まろうとした時、土佐藩の武力倒幕推進役として東征軍迅衝大隊司令に起用されるまで、守旧派から守ってほしいとの依頼だったのです。
 結果として武市半平太の党派も戊辰戦争では、乾退助の指揮を受けることになったそうな。


 西郷隆盛は明治新政府の太政官で板垣退助にこのように言ったという。
 「板垣さんは、恐ろしい人よ。俺のところへ浪士を担ぎこんで戦争をおっぱじめさせた。恐ろしい人よ。」

 さらに「戊辰戦争で死んだ人はたくさんあるが、この戦争で生きたのは板垣さんだけだろう。」

 板垣から浪士を預けられた西郷は、彼らを使って随分危険なことをやったようですが、互いの役割分担を意識しての発言だったようです。


 昭和11年(1936年)11月7日に落成した現在の国会議事堂中央玄関から入ると広間があり、ここに板垣退助・大隈重信・伊藤博文の銅像が立っています。
 3人のうち板垣退助は帝国議会に一度も議席を持ったことがなかったのに、ここに飾られているのです。
 「歴史がもたらした議席」と言われています。
 確かに明治23年に天皇の内意で「板垣退助を貴族院議員」に勅選(終身議員)としようとしたのですが、辞退をしているのです。

 彼もまた幕末から明治の動乱期、与えられた役割を、彼にしか出来ない方法で仕事としてやり遂げた一人だったと思います。

 随分と前のこと、国会議事堂に見学に行った時、聞いたことがあるのです。
 「4隅の部屋に3体の銅像。4体目の予定はどうでしょう?」
 うまいお答えを頂きました。「これからの方でしょう。」期待したいですね。

 いつの日か彼の銅像について書いてみたいですね。あちこちにあるのです。
 それなりの理由があるのです。板垣退助の銅像。
 そう100円札。紙幣にもなりましたね。

 若い方々は既にご縁がないのかも知れませんがね。高知の先輩はすごいのです。

追放刑

2009-08-14 18:09:59 | 昔話
 明治20年12月に明治政府によって保安条例が布かれたのです。反政府思想をいだく不穏分子を東京から3里以内に住まうことを禁じたのです。

 高知県人は自由民権運動の主流として反政府的な活動が多く、警視庁から230人もの退去命令を受けます。その中には、林有造・片岡健吉・竹内綱といった政客論客活動家もいて、根こそぎ対象となりました。全部で570人ですから半分近くが高知県出身ということになります。
 追放されて、交通費がなく歩いて高知に帰った。などという記録もどこかにあったような気がします。大変だったでしょう。

 かつての高知県は元気だったということでしょうか。
 自由民権運動を推進したリーダー達はすごいね。
 高知県の魅力満載といったところです。

 さらに、野根山街道などの話しに出来てる土御門上皇等の配流場所として出てくるように高知は遠流の場所として、知られているところです。
 そうした流人が蛮夷の場所であったろう昔の高知県の文化に大きく貢献していたであろうことは、間違いのないことでしょうが、追放刑と縁の深い高知です。

 さらに、海南政典には、このような記述があります。

 追放は大・中・小の3方限がある。
 小方限というのは、仁淀川以西と物部川以東、中方限は高岡郡の名護屋坂以西と安芸川以東、そして大方限は窪川の片坂以西と奈半利川以東です。
 罪が重いほどに、遠くに追放となるのですねえ。

 追放よりまだ悪い罪には流刑があります。
 西は幡多の四万十川と、東は安芸郡の野根川となっていたのです。

 つらいことですね、中央から高知に流されて、そして高知からも流されて、このあたりに来ることになったのですから。
 我々が少々ぶしつけなのも仕方ないでしょう。

 世界的にも、そんな国もありますね。流罪。所払い。追放。
 言葉は違えどやったことは、あまり変わっていないし、おかしいのは罪人がいなくなたっていう場所もないような気がし・・・・。失言。

 こんな話がたくさん出ている本。大好きです。平尾道雄先生に感謝です。

江藤新平捕縛

2009-08-11 16:52:48 | 昔話
 明治新政府の参議兼司法卿の要職であった江藤新平が、明治7年2月16日に勃発した「佐賀の乱」に敗れた後、鹿児島から高知に逃避行を続けていた折、野根山山系に入り、今の東洋町甲浦で捕縛されたのです。そして高知に連行されることになったのです。高知県東部は彼が明治新政府の重鎮としての扱いを受けた最後の場所であったのです。捕縛された後でも彼を捉えた高知県小属細川是非之助は、囚人としてではなく、賓客のように遇したとされています。高知への旅の第1夜は佐喜浜だったと郷土史にありますから、野根山街道ではなく灘廻りだったのでしょうか。
 高知県内においては、かつての同士諸兄を頼ったのですが果たせず、東京へ向けて脱出を図ったとされているのですが、何分にも彼を追いかける政府側は海上に軍艦まで配して、多くの捕史を動員したのです。それでも江藤は高知の林有造と片岡健吉には面談ができたとされていますが、彼らでも江藤を救うことは出来なかったのです。
高知県特に東部地域が大騒動になった2週間だったのです。

 さらに高知からは軍艦で佐賀に運ばれて臨時裁判所にてきゅう首(さらし首)とされたのです。極刑でした。

 こんな一説があります。
 明治新政府の中で長州閥高官による汚職事件が度重なるに及んで、江藤司法卿が捕縛拘留したことから逆恨みが大きく深いものになっていったそうな。そんなことから事件が起きたとも言われているのです。
 彼の処断が終わると、中央では山縣は陸軍卿に返り咲き、井上も大蔵省に復帰したのです。木戸の尽力で事件はもみ消されたとされています。

 最後に彼が捕縛された甲浦には石碑が立っています。
 「江藤新平君遭厄地」とあります。静かな港町の評価です。
 真実はどうであったのかわかりません。歴史の闇の中です。
 

一日遅れの追憶

2009-08-06 21:41:27 | 昔話
 8月6日は広島の日です。原爆が投下された日です。

 昨日書きたかったのですが、いろいろありましたから、今日書きます。

 いま事務所でパブロ・カザルスのチェロの演奏を聴いています。
  
 「鳥の歌」彼が1971年10月24日に国連の会議場で演奏をしたのです。
 彼の作曲した「国際連合への賛歌」が演奏され、さらにアイザック・スターンとシュナイダーによる演奏が披露された最後に、彼はこう言ったのです。

「私はもう14年もチェロの公開演奏をしていませんが、今日は弾きたくなりました。」といって運ばれて来た彼のチェロを抱きながらさらにこう言ったのです。
「これから短いカタルーニャの民謡「鳥の歌」を弾きます。私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちはピース・ピースと鳴きながら飛んでいるのです。」
「私の故郷カタルーニャの魂なのです。」
 そういって彼は鳥の歌を演奏したのです。静まり返っていたであろう会場の雰囲気を表現することは難しいのですが、大きな感動が会場を包んでいただろうことは容易に想像がつく。聞くものの心を揺さぶったであろうことはね。

 短い曲ですが、何時 聞いても黙ってしまう。

 表現者の最高峰だと思う。それを聞ける幸せがある。そう思う。

徳島県がない!!。

2009-08-05 20:50:52 | 昔話
 地図を見ると徳島県がないではないか。え!!。浅学を恥じ入るばかり。

 本当かな?。

 確認しました。本当でした。
 知らなかったのは、もしかして私だけ??。まあ仕方なし。

 知らない仲間同士にお知らせです。
 明治維新が日本を変えてしまったとき、大きな変化が全国で起こっていたのです。高知は原則的に勝ち組だったので問題はなかったのですが、大変だったのは徳島県です。

 明治2年7月1日  版籍奉還
           殿様がいなくなって藩主が知藩事となりました。
 明治4年7月14日 廃藩置県
           旧藩主は東京移住を強制されます。
           しかし藩がそのまま県になっただけだったことから300
以上の県が発足していたのです。これから激しい制度変更がありました。
 明治9年8月21日 制度変更、淡路は兵庫県に阿波は高知県に編入されてしまったのです。
           この時香川県も愛媛県に編入されたんです。
           なんで??。どうも、戊辰戦争のときに官軍側に積極的に協力しなかったからだとされているんです。

 でどうなったか。
高知県になった徳島には旧県庁舎に高知県徳島支庁が設置されたのですが、各種行政事務が停滞し、不満が続出したようです。明治12年に県議会が開設されても、高知県と徳島の間の陸上交通は難所ばかりといった状態で、県議会取材の記者が出張に5日かかったとか。どちらからも一旦大阪に出たほうが早かったそうな。
 さらに、県会議員の定数が高知県側より徳島の議員のほうが多かったことで議会運営に困惑したとの記録があるほどです。ちなみに議長は高知の片岡健吉、副議長は阿波の磯部為吉でした。
 県令は伊藤博文内務卿に分離を建議したそうな。
 この時期高知県では自由民権運動が高揚し始めていたのは、おもしろい。

 明治13年3月(1880年)徳島県が再置されたのです。
 そう4年ほど、徳島県は地図から消えていたことになります。

 いまでも、高知県と徳島県の間は道が悪いのです。最も時間がかかります。
 悪いのは政治か、経済か・・・・。
 シラナカッタ。恥ずかしい。