ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

残っていました。

2009-11-20 21:46:26 | 昔話
 奈半利の喫茶店で珍しい文書を見ることが出来ました。

 高知県議会日誌 第一号
 明治12年10月27日付け
 出頭議員 42名

 安芸郡選出の議員も今と同じ3名が明記されています。
 安芸郡土居村  畠中六郎
 同        吉田直樹
 安芸郡奈半利村 濱田左平

 面白いのは、士族とか平民とかの記入があります。
 さらに、高知県の県議会なのに半数以上は今の徳島の方々が選出されていたのです。議長は高知県の片岡健吉。副議長は徳島の磯部為吉。そうです。この時期徳島県はなかったのです。

 第一回の議会では基本的な予算とか条例・規程の類が議論されていました。

 旅費規程とかなのですが、面白いのは議員心得などというのがあって、議員は羽織袴または洋服を着用すべしと明記されているのです。それも、議員らしいふさわしい洋服を着ろというのです。普段一般住民はどの様な衣服を着用していたのやら、考えるだけでも面白いのです。
 議員から、「洋服など着るのはいかがなものか」といった発言があったとの議事録まで付記されているのです。やはり正装は羽織袴だったのです。
面白いというより、可笑しいですけどね。
 いかにも、明治の初頭の話です。

 しかしながら、
 徳島の議員が高知県議会に在籍するのは長い期間ではありません。
 しかし、確かにそうした時期があったのです。
 高知県側から中央政府に向かって、要望書が出されたようなのです。
 徳島県の設置を求めたのです。なにしろ徳島の議員が多い関係で高知県議会の運営に支障が出始めていたのです。
 この理由は、納得です。

 知らないことってあるものです。
 原本があるのですから、貴重です。和紙でB6ぐらいのサイズでしょうか。
 今となっては、古文書扱いですね。喫茶店の蔵で大切に保管です。

神という言葉。

2009-11-10 17:01:10 | 昔話
 めくっていたら、面白い記述に出会ったのです。

 神という言葉をどの様に定義していたかについて書いてあるのです。

 本居宣長は、「まさに日本の神は、その内容、形式ともに複雑であって、その本質は至難のことである。と「古事記伝」の中でいっているそうな。

 契沖、谷川士清によると、「日本書紀」に明神をアラカガミと訓ませてあるところから、「カミ」は「カガミ」の省略である。

 新井白石は、神とは、すべての尊いものを「カミ」すなはち上と称すると同じ意味からきているものであって、長官、頭髪などを「カミ」と称するのも同じゆえん。といっているそうな。

 仙覚によると、「カミ」は明見の略、すなはち神明照臨するの意味だという。

 斉藤彦麿によると、隠身の省略、すなはち人の目に見ることのできぬものである。という。
 さらに平田篤胤によると、「カミ」は牙(カビ)であるという。「日本書紀」の初めに出てくる「牙」が神々の現れ始めであって、これから「カミ」の語が出来たという。また「カ」は彼という意、「ビ」は霊妙なるもの、すなはち、かの霊妙なるものという意味であるという。

 諸説あるのですが、なぜか全部そのように思える。
 彼らは決して言葉遊びをやったのではなく、「カミ」に向き合って「カミ」とは何ぞや、言葉の意味を、言葉で残したのです。

 言葉は面白い。そう思います。語彙の少ないふくろう親父。は恥ずかしい思いを毎日しております。

 

伊予之二名島

2009-10-25 15:10:22 | 昔話
 古事記をご存知だと思います。四国のことを「伊予之二名島」と記しています。 日本書紀には「伊予之二名洲」とあります。
 古事記にはこの島は体は一つだが、顔が四つありそれぞれ名前が付いているのです。とあります。

 皆さんよくご存知の国生み話です。
 伊予は愛比売(えひめ)で讃岐国は飯依比古(いよりひこ)。粟国は(おほげつひめ)、土佐は建依別(たけよりわけ)。なにしろ1000年以上前のことで、よくわからないといったほうがいいぐらいなのですが、そのような記載があります。
 男性名が2県、女性名が2県なのです。土佐と讃岐が男性で、愛媛と徳島が女性なのです。しかし組み合わせが難しいよね。明治維新の後、一時徳島県と高知県は同じ枠組みになったことがありましたから、最近では徳島・高知。そして讃岐と愛媛でしょうか。しかしそうすれば経済格差が進みますね。
 これからは四国州ですから。「四国は一つ。」そのような認識で考えたいですね。

 奈良時代ぐらいから以前の高知の資料が余りないもので、比較したりすることが出来ないのです。まだ愛媛県にはかえって、土佐のものもあるのかもしれません。今度は県立図書館にでも行って資料を探しましょう。
 なにしろ伊予之二名島なのですから。

南海道という道。

2009-10-25 13:54:33 | 昔話
 土佐の国府と都を結ぶ道が南海道なのです。しかしながらずっと同じルートであったわけでもないのです。前後期古墳時代をとうして、養老2年までの南海道は伊予国を経由しており、幡多の宿毛から中村を経て窪川・須崎高知・南国と今から考えると、とんでもなく遠廻りをしていたようなのです。畿内から淡路島に入りそこから阿波にそして讃岐を経て伊予へ、まるで四国の海岸線を一周してから土佐入国なのです。今の状況で考えると、伊予の国府までは高速道路があってそこから支線があったのですね。土佐へ向かう道がねそれが南海道なのです。もっとも後期古墳時代には徳島から南下しての道も利用され始めたようなのですが、余りにも瀬戸内海沿岸の地域が圧倒的に力があったのです。
 その当時の先進地は九州と畿内です。その間を隔てる瀬戸内海の海運が発達していたのであり、その安全を保証していたのが、四国の北部地域だったのです。
 さらに伊予を間にして九州の文化流入の痕跡が津野山神楽のようにあることを考えると、妙に納得する所です。土佐の文化流入は西から起こっていたと考えるほうがわかりやすいのです。
 そのため、蛮地土佐は、伊予のまだ先の山の向こうなのです。だから、養老2年の「続日本紀」にある「山谷険難」は四国山脈ではないというのです。で、さらに開発された野根山街道にしても、尾根道の山は急峻で、山が海に迫り歩きにくく、奈半利川・伊尾木川・安芸川さらに物部川と大小の河川が通行を妨げていたこともあって、延暦15年(796年)に北山越えの新道開発が試みられたのです。

 道が出来ると、駅家が出来て人馬の継立や宿泊・給食などの仕事が発生していたのです。もちろん道案内や荷役までもです。
 今の道路整備による、商店街の盛衰と同様なことが起こっていたのです。
 当然、義務的な賦役もあって大変だったこともあったでしょうが、道路は地域にとって大変重要な要素です。
 もちろん海運もあったでしょうが、天候に左右されることが多く、事故もあったのでしょう。もっとも効率的な場所が選ばれていったのです。
 
 

死に装束。

2009-10-22 21:58:47 | 昔話
 今でもお遍路さんたちは、白い装束を着て遍路に出ます。笠に同行二人と墨書して出かけるのです。

 普通は1番札所から順番に廻ってくるのですが、意図して反対に廻る方々がいるようです。逆うちというのだそうですが、かえって厳しい旅になるようで、ご利益があるともされています。

 かつては、四国の遍路旅に出るということは、死出の旅として覚悟がいったようです。出るなりの理由が出るほうにあった訳です。
 しかし、迎える地域は、お接待で対応するのです。
 お客として遍路たちを迎えるのですが、原則的にはお遍路さん達は出て行く人達なのです。だからお客さんなのです。それが定住するとしたら、地域の住民は急に厳しい対応をしてきたようで、閉鎖的な側面も出してきたのです。

 藩政時代にも遍路への制限を具体的に出しています。行き倒れが結構多かったのです。自分の死期を悟った方々が遍路に出て、修行の最中のどこかで行き倒れる。そうした終末を意識して出て行った方々が多かったのです。一種の現実逃避なんてこともあったのかもしれません。対応は藩や寺院がしてきたのです。
 一人の人間が死を意識して旅に出て、それが現実になったときに、当たり前のように地域が終末処理をしてきたようなのです。

 四国では、そうした方々を受け入れ、今でも受け入れて、送り出し続けているのです。もちろん、いまは行き倒れなど余り聞きませんがね。

 お接待。良い習慣かと思います。

 お遍路さんたちにもルールがあったようです。

 ①不殺生(ふせっしょう)生き物を殺さない
 ②不偸盗(ふちゅうとう)盗みをしない
 ③不邪淫(ふじゃいん)邪淫しない
 ④不妄語(ふもうご)うそを言わない
 ⑤不綺語(ふきご)ことばを飾り立てない
 ⑥不悪口(ふあっこう)人の悪口をいわない
 ⑦不両舌(ふりょうぜつ)二枚舌をつかわない
 ⑧不繿貧(ふけんどん)貪欲であってはいけない
 ⑨不瞋恚(ふしんい)怒らない
 ⑩不邪見(ふじゃけん)誤った考え方をしない
 
 しかし旅の途中にこれだけのルールを守ることが当たり前だったのです。
 遍路旅も本当に大変だったのです。
 今はバスで・・・・・・。

馬喰(バクロウ)

2009-10-20 10:09:20 | 昔話
 昨日のこと、ある人のことが話題になり、その人の職業の話となったとき、「バクロウ」やったね。

 しかしバクロウってどんな字を書くのか、3人もいたのにわからなかったのです。
 家に帰って辞書を引くと馬喰(バクロウ)とありました。
  牛馬の良し悪しを見分ける人。牛馬の仲買をする人。だそう。

 最近身近にこうした職業の方がいないものですから、ピンとこなかったのです。
 昔だと田舎には普通に牛馬がいたのですね。街中を馬が荷駄を引いて歩いていた記憶があります。
 それにヤギを見たことがあるなあ。近所の家で飼ってましたね。
 今動物っていうと、猫と犬。あと水槽の中の魚たちと駕篭の中の鳥。ですね。

 もちろん山の中には獣達がいるのでしょうが、一緒に生きている実感は無いですから、人間がともに生きているパートナー達は少なくなっているんですね。

 言葉としてもありました。保佐(ボサ)をご存知でしょうか。
 燃料としての薪のことです。七輪や釜で炊事をしていた時代の燃料なのです。
 小枝や割り木を束にして販売をしていたのです。
 高知県の山間部から本当に多くの保佐が大口径の木材とともに運び出され、そして中山間地域に経済効果を与え続けていたのです。

 今は昔の物語です。

無理かなあ。

2009-10-13 18:21:19 | 昔話
 昔の記録などを読んでいると、出てくるのですが、00石取の武士とかね。

 たとえば板垣退助の家は220石の馬廻り役なのです。
 無理は承知で、現在の価値に換算してみようと思うのです。

 220石は家禄ですから、先祖の功によって家に対してもらえた俸禄ですね。
 基本給みたいなものです。

 で、知行地支配によって、年貢を取ることが出来たのですが、取り分は4公6民とか5公5民ですから、板垣家の収入になるのは、220石の4公で88石。1石は2,5俵ですから、220俵になります。1俵は56KGで計算すると、

   88石=220俵=12,320Kg
   米10Kg=4000円で計算すると、4,928,000円の収入ですね。
 時代を考えると、高給取りですね。

 同様に、岩佐の関所の番士長木下家は28石8斗15人扶持です。

   
   15人扶持ですが、扶持米は男が1日5合、女は3合なのです。
    1人分では
    360*5合=1800合=1.8石しかないのです。
    252Kgですね。金額にすると100、800円にしかならないのです。
    これで1年分です。

    野菜を作り、家禽を飼いながら、魚を取って、獣を追ったことでしょう。   それでなんとかですね。

   かなり無理な計算でしたが、生きてゆく最低限のレベルですねえ。

 一般に土佐24万石と言いますが、藩政当初には1000石以上の家臣は29人。それが幕末になると12人になってしまうのです。500石以上にしても29人になっているのです。

 武士は生産しない階級ですから、時代とともに減ってゆくのです。
 財政が厳しくなると、高額所得者への風当たりは強くなっていったことでしょう。
 商人の力が増してゆくことになるのです。
    

   

今市攻防戦

2009-10-07 00:06:56 | 昔話
 明治の元年頃の話です。戊辰戦争で土佐藩の一員として、東北戦に参加していた青年を探していたのです。
 安田浦の岡本寧浦の養子で暁馬の消息を探していたのです。
 彼の消息を探してあちこちの本を読み飛ばしていたときのこと、偶然ですが出てきました。
 この本なかなか面白いのです。題は「志士は今も生きている・その墓所をたずねて」高知県教育委員会編となっています。

 記録には、岡本暁馬維正。高知市仁井田出身。歩行格、砲隊所属。閏4月22日今市に於いて負傷同夜病院で没、20歳。
 とあります。
 墓は日光市今市の回向庵にあるようです。

 この今市攻防戦は実質2時間半程度のものであったらしいのですが、日光東照宮を戊辰の戦禍から守った戦として知られているのです。

 敵は1500から2000ほどの戦力で、味方の兵は少ない。350から400ぐらいであったとの記録があります。攻めると言うより守備に重きを置いて、援軍の来着を待つといった戦いだったそうな。

 時の東山道先鋒総督府参議で土佐藩兵総督、板垣退助が日光廟に立て籠もる会津方を、東照宮を守るために説得し、廟から出して今市において決戦したことから、結果として日光を戦火から救ったのです。後に板垣退助の銅像が本山白雲の製作で、日光の大谷川神橋のほとりにに建てられたのです。
 写真は板垣退助です。後の明治新政府参議で、自由民権運動の指導的役割を果たした政治家です。

 岡本暁馬はこの戦で、負傷し亡くなった事になりそうです。
 また、戦禍から日光を守ったとして、彼ら土佐藩兵の墓地も、東照宮の350年祭を記念して、東照宮が造ったとされているのですから、良い話です。
 

 

 

 

開基・大宝3年。

2009-10-02 06:39:35 | 昔話
 北川村・和田に妙楽寺という寺があります。開基は大宝3年(703年)僧善有によるとされています。山寺にしては多くの仏像がそろっているのです。

 地元の住民にとっては、生活の糧を得るために野根山山系に分け入っていたのでしょうが、未だ野根山街道も官道にはなっていない頃なのです。

 しかし、これはすごいことです。「諸国で最も良い土地を選んで建てよ。」
 聖武天皇の勅願により、高僧行基が土佐国分寺を創建したのが天平13年(741年)ですから、それに先立つこと38年。奈半利川の上流に寺が出来ていたのです。
 さらにその当時安芸郡の中心として発展していたらしい奈半郷にも”コゴロク廃寺”は多分出来てはいないのです。

 北川風土記によると、創建された妙楽寺には東西南北3町余りの地が寄進されたとか、創建以後も火災によって消失したりしているのですが、余り時を待たずして、再建されたり、仏像が作られたり、鐘が鋳造されるなど仏教が住民の間に定着してゆく様が見て取れる記述が多いのです。

 僧善有は蘇我氏の一族で、24歳のときに四国の山間部で修行をしていたところ和田に来て、この地を仏教の成就する霊地と定めたのだそうな。
 さらに、峰に上って修行をしていると、田野の浜に赤木が寄りあがり、夜光を放っていたので、これを取ってきて49日間禊をした後、一尺ニ寸の薬師如来の像を刻んだのです。これを本尊として妙楽寺を建立したとの伝説があります。

 豊かな山林資源をもって、住民がどの様な生活をしていたのかについては古代のことで資料もないのですが、交通の不便さを忍べば,人間が生きるための自然環境には恵まれた場所で、少数の縁故深い人たちだけで平和な集落を作っていた所へ、時の権力者の一族の若い僧が現れて、仏教を普及するために寺を建立したということなのです。

 昔々の話です。

コゴロク廃寺

2009-09-25 19:23:21 | 昔話
 高知県史考古編に奈半郷(なわごう)の記述がある。

 「奈半郷は古代における安芸郡の中心らしく、奈良末から平安前期の寺院跡(奈半利町コゴロク廃寺)が発見されている。」

 奈良時代、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立することを命じたことから、土佐の地でも当然土佐国分寺が建立されているのですが、奈良時代に建立された寺院が当時の郡にそれぞれ一つずつ存在しているようなのです。奈良時代のはじめ、土佐は幡多、吾川、土佐、安芸の4郡でした。その安芸郡に設置された寺院が奈半郷にあるのです。
 これらの寺院を建立するには当然その地方の豪族の協力が必要であったろう。特に郡司級の豪族の協力が必要であったでしょう。
 さらに宗教施設としての寺院の維持管理には相当数の住民の協力までが必要であることが考えられるだけに、奈半郷は古代における安芸郡の中心とに結論を出しているように思われるのです。

 聖武天皇(701~756)の生きた時代と野根山街道が官道とされたとされる
養老年間(717~724)が重なっているのです。

 なにやらその当時の生活全般についても興味がわいてきますね。
 農業や漁業は当然やっていたのでしょうし、林業や製造業もあったのでしょう。
 面白そうです。
 ゆっくりと地域の昔語りを続ける意味で、研究してみましょう。

 しかしこの時代、空海も未だ産まれてはおりませんし、紀貫之が歴史に登場するためにはまだ100年。土御門上皇となると500年という時間を必要とする程昔々の話なのです。
 しかし本を読むだけでも面白そうです。
 きっかけは廃寺があったそうな。それだけです。