ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

気。

2010-04-24 13:23:49 | 手前かってな推論。
目に見えないエネルギー。

気の迷いとか、気力とか日常よく使われる言葉でもあります。

 今日、画集を見ていて思ったのです。気の表現。気を描こうとしたのじゃあないのかな。
そんな作品が多いように思うのです。

 気力充実した画家が、キャンバスに向かい、作品を仕上げている姿が、何となく想像されて、妙に納得しているのです。

 いい物を描きたいといったことではなく、描きたいものを書いた。自分の表現方法を勝ち得た作家が、勝手な評価を得て時代を超越して、残されているのではないかなあ。

 気を描く。気!!。
 私は、最近どうもいかんねえ。
 根気がないし、意欲に欠けているのが良くわかる。

我、未だ未熟也。
 そういえば、上品さを感じさせてくれる作品もある。作品に品性を与える作家は凄いね。
 色々自伝的なものを見ても、いい作品を作った画家がみんな上品な紳士や淑女であったりもしないようだし、なかなか面白いものです。

 作品を前に、この作品を描いているとき、画家は何を考えていたんだろうかとか、・・。
 単に一心不乱では描けないだろうし、ある程度の計算もないとねえ。

 らちもないことです。
 ぱっと見ての、印象だけで思い悩んでおります。なんで??。

 不惑の年は、かなり前に過ぎたんだけどなあ。困ったことです。情けないことです。

なはりC 地点

2010-04-21 22:40:44 | 手前かってな推論。
 かつての片町商店街と野根山街道の交差点です。
野根山街道を高札場のほうに向かって撮影した写真です。西に向かって、奈半利川まで500Mぐらいかな。そんな場所です。道路上に+印まであります。



野根山街道は、奈良時代に開かれた街道。交差する道は北川に向かう郡道、明治37年(1904)に整備されたのです。それも幅は野根山街道より少し広くて、9尺といいますから、2.7M。 野根山街道のほうは、町中でも6尺程なのです。
 多分その当時、奈半利で最も賑やかな場所だったはずです。
 
 ただ、物流の主役の地位は大正14年(1925)に、上長田から天神までの道が整備されることで交替することになるのです。明治の道から東へ100Mほどのところを北から南へ向かって、海に向かって建設されました。海岸から気帆船で主として畿内に運んでいたのです。狭い道を拡幅する容で、造られたそうな。
 
 この時期、地域の経済環境に大きな変化が起きています。製材業や酒造業、樟脳製造業が盛んになり、さらには大正6年には藤村製糸株式会社が創業されて、地域の生産量が一挙に増大して、物流量が増えているのです。そうすると、橋のなかった奈半利川に橋が架かるのです。大正3年には木製の橋。ただ残念ながらこの橋は、雨が降って水位が増すと渡れなかったり、通行する車両の重量に耐えられず、人間が橋を渡る間、車を降りたといった話があるくらいですから、産業の発展に基盤整備が追いつくのは大正13年の奈半利橋(鉄橋)の完成まで待たなければなりませんでした。

 必要性があっての建設事業であったわけです。 


 この写真は、明治に整備された郡道の西に位置する、路地なのですが、かつては、野根山街道以外の道はこの程度の路地がほとんどの道だったのではないかと考えているのです。幅1M程度です。歩くのには問題はないとしても、すれ違うのには互いに譲り合わないといけない程なのです。大きい荷駄は難しいですね。
 9尺にこだわってみました。多分9尺の道が完成したときには、凄い道が出来たと誇らしい思いを抱いたと思うからです。1000年以上もの長きにわたって、利用された街道より広い立派な道が出来たのですからね。幅9尺、2M70が荷駄が楽に行き違うサイズなのです。

 そう、この年、はじめて自転車が奈半利に入ってきたとの記録があります。明治37年。
 自動車ではありません。自転車なのです。
 明治から大正、昭和の初期にかけて、奈半利が最も活力に満ちていたときの証拠の場所です。ただ、大正14年に新道が出来たわけですから、流通の主役の座は20年ほどだったことになります。地域産業の成長が早すぎたといったところでしょう。
 
 この交差点を、奈半利C 地点として、書かせていただきました。
 ここから、奈半利の街路が出来上がってきたように思うのです。

 もう100年以上前の話です。今は行きかう人もそれほど多くありません。車もたまに通るかな。