ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

森林資源NO1

2009-07-04 16:15:39 | 森林鉄道物語
 記録によると、天正14年(1586年)豊臣秀吉が京都東山に大仏殿を立てる際、その用材を第1に土佐に求めたのです。
 長宗我部元親は、大切な公事として、子の信親と共に北川村成願寺山へ分け入り、杉材を刈りださせたのです。
 江戸時代になっても、幕府に何かあるたびに用材は土佐から運んでいたようで、今から400年以上も前から土佐の、特に東部地域の森林資源の豊かさは日本中で知るところとなっていたのです。

 俗に土佐は24万石といわれています。米で24万石を生産する程の水田を持っていたのです。石高がその国の豊かさの指標であったのですが、さらに土佐には森林資源がありました。

 土佐藩の財政に大きく貢献をした小倉少助の話をしましょう。
 小倉少助は、土佐2代藩主忠義によって、参政に抜擢をされたとき、藩主に請い、土佐の山間部を9ヶ月にわたって巡視をしたのです。藩主がその訳を問うと、少助は「土佐第1の財源は山林にある。調査によると、八尺廻りの樹木がおよそ250万本ある。これを1ヶ年に5万本づつ伐ると50年で伐りつくすが、この間に、七尺廻り以下の樹木が八尺廻りに成長するものが250万本あろう。これを前のように50年を期として伐ると、百千年を経ても山林の尽きることはない。さらに海岸を調査したところ、民船による木材の他国への輸送力は、、年間5万本積み出せる確信がいったので奉仕をする。」といったという。

 生産と流通の確認が出来たことで、自信を持って任に当たったという話です。
 さらに、より多くの材を切り出さないようにし、さらに伐り出した土地に新たに苗木を植え続けたのです。輪伐制をとることで経済基盤を確立していったのです。

 高知県の東部地域の山は文字どうり「宝の山」だったのです。

 

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