備長炭は紀州和歌山特産の白炭です。それが今、高知県に土佐備長炭として定着し生産をされておりますが、高知県に製造方法を伝えた人物の話です。
頃は明治の終わりごろ、和歌山で炭焼きをしていた植野蔵次さんは、病気がちだったこともあって、奥さんのカツさんと一緒に「お四国巡り」で室戸にきたのです。
その時、海岸地帯に自生するウバメガシが目に付いたのです。利用方法について土地の方々に聞くと、「保佐(ボサ、薪用)にしているとのこと。
蔵次さんは思ったことでしょう。「もったいない。」「備長炭に焼いたら値打ちが違う。」動機はそのようなことだったのでしょう、そして蔵次さんは一旦和歌山に帰り、大正元年今度は長男の林之助と一緒に土佐にやってきて、当初は羽根村に住みましたが、住居を奈半利や吉良川に移転しながら、備長炭を焼く技術を高知県内いたるところで巡回指導をしていくことになるのです。
以前から高知県東部地域には黒炭、白炭の粗悪品の生産はおこなわれていたのですが、高い技術が伝授されたことで、良質の炭が作られるようになり、市場の評価が向上していったのです。
良いものをつくり、高価で取引がされはじめると、製炭業者も増え、日本でも有数の産地となってゆきました。
炭は最終商品です。また消耗品ですから継続的に消費がおこなわれたことで、石油・ガス・電気と燃料革命が起こるまで、中山間地域を大いに潤したのです。
植野蔵次さん達による白炭の技術伝播は、地域経済への貢献度大なのです。これからも彼らの意思をついで、土佐備長炭はあり続けることでしょう。
植野蔵次さんの子孫は今も奈半利町に住んでいます。
頃は明治の終わりごろ、和歌山で炭焼きをしていた植野蔵次さんは、病気がちだったこともあって、奥さんのカツさんと一緒に「お四国巡り」で室戸にきたのです。
その時、海岸地帯に自生するウバメガシが目に付いたのです。利用方法について土地の方々に聞くと、「保佐(ボサ、薪用)にしているとのこと。
蔵次さんは思ったことでしょう。「もったいない。」「備長炭に焼いたら値打ちが違う。」動機はそのようなことだったのでしょう、そして蔵次さんは一旦和歌山に帰り、大正元年今度は長男の林之助と一緒に土佐にやってきて、当初は羽根村に住みましたが、住居を奈半利や吉良川に移転しながら、備長炭を焼く技術を高知県内いたるところで巡回指導をしていくことになるのです。
以前から高知県東部地域には黒炭、白炭の粗悪品の生産はおこなわれていたのですが、高い技術が伝授されたことで、良質の炭が作られるようになり、市場の評価が向上していったのです。
良いものをつくり、高価で取引がされはじめると、製炭業者も増え、日本でも有数の産地となってゆきました。
炭は最終商品です。また消耗品ですから継続的に消費がおこなわれたことで、石油・ガス・電気と燃料革命が起こるまで、中山間地域を大いに潤したのです。
植野蔵次さん達による白炭の技術伝播は、地域経済への貢献度大なのです。これからも彼らの意思をついで、土佐備長炭はあり続けることでしょう。
植野蔵次さんの子孫は今も奈半利町に住んでいます。