兵庫県に住む者にとって、今日は特別な日です。
13年前私はここから遠い横浜に住んでいて、その日は実家の母が入院中だったのでもっと遠い盛岡で震災のニュースを聞きました。
病院のTVから流れるあまりに悲惨な街の映像を呆然とみつめていました。
その後しばらくTVや新聞で震災関連のニュースや映像を見続けていましたが、
関東で見聞きするニュースはどれもリアルではなく、どこか対岸の火事のような感覚でその情報を受け取っていました。
でも去年兵庫県民になって、すぐにここでは震災がとても身近で、まだまだリアルに語られている現状を肌で感じました。
能登半島沖地震の数日後に引っ越してきた私たちに、まだ石川ナンバーのままだった車を見た見ず知らずのおじさんが、
「石川県から来たの?地震大丈夫だった?」(関西弁だったと思うのですが再現できず・・
)
私はあっと思いました。気に掛けてくれてるんだ、ありがとう・・・
でも次の瞬間、「ここに住んでいる人たちにとって、あの震災は過去のことじゃないんだ・・・」すぐに気づきました。
そして、娘の学校が始まって渡された芦屋市が作った社会科の副読本をパラパラとめくって、また、あっ・・・
あの時の被害の写真が目に飛び込んできました。
その副読本には沢山のページを割いて、あの時街で起こったことが写真とデータで記されていました。
10年以上経っている今は、もうTVでも新聞でもあの時頻繁に目にした被災の写真はほとんど目にしなくなっていたので、その写真を見るまで忘れていたのです。
当然娘はおそらく始めてみる写真だったと思います。
そして、今日の芦屋市立の小学校の給食は、震災後の給食再開初日と同じメニューです。
神戸の街も、芦屋も、西宮も、ぴかぴかの高層マンションや大きな建物が林立して、まったく震災の影も形も見当たらない今日ですが、
でも、大切な人や大切な財産を失った人にとってあの日は過去のことではなく、
私はマスメディアには出てこないその人たちの気持ちを、今朝の新聞を読みながら想像しました。
13年前私はここから遠い横浜に住んでいて、その日は実家の母が入院中だったのでもっと遠い盛岡で震災のニュースを聞きました。
病院のTVから流れるあまりに悲惨な街の映像を呆然とみつめていました。
その後しばらくTVや新聞で震災関連のニュースや映像を見続けていましたが、
関東で見聞きするニュースはどれもリアルではなく、どこか対岸の火事のような感覚でその情報を受け取っていました。
でも去年兵庫県民になって、すぐにここでは震災がとても身近で、まだまだリアルに語られている現状を肌で感じました。
能登半島沖地震の数日後に引っ越してきた私たちに、まだ石川ナンバーのままだった車を見た見ず知らずのおじさんが、
「石川県から来たの?地震大丈夫だった?」(関西弁だったと思うのですが再現できず・・
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私はあっと思いました。気に掛けてくれてるんだ、ありがとう・・・
でも次の瞬間、「ここに住んでいる人たちにとって、あの震災は過去のことじゃないんだ・・・」すぐに気づきました。
そして、娘の学校が始まって渡された芦屋市が作った社会科の副読本をパラパラとめくって、また、あっ・・・
あの時の被害の写真が目に飛び込んできました。
その副読本には沢山のページを割いて、あの時街で起こったことが写真とデータで記されていました。
10年以上経っている今は、もうTVでも新聞でもあの時頻繁に目にした被災の写真はほとんど目にしなくなっていたので、その写真を見るまで忘れていたのです。
当然娘はおそらく始めてみる写真だったと思います。
そして、今日の芦屋市立の小学校の給食は、震災後の給食再開初日と同じメニューです。
神戸の街も、芦屋も、西宮も、ぴかぴかの高層マンションや大きな建物が林立して、まったく震災の影も形も見当たらない今日ですが、
でも、大切な人や大切な財産を失った人にとってあの日は過去のことではなく、
私はマスメディアには出てこないその人たちの気持ちを、今朝の新聞を読みながら想像しました。