開き直ったと考えていただいても良い。多くの読者に訪問いただいているこのブログは、やはりある程度八方美人的にならざるを得ない。(どこが?といわれそうだけど、これでも遠慮しながら書いてきたのですよ・・・)
しかし、読者の顔を思い描きながら記事を書くことがどうも自分の本意ではないと思うのだ。たとえ批判を受けようが、多少の間違いがあろうが、その時の自分の思った事を素直に書くほうが自分らしい。
私はそれほど堅固な思想を持つものではない、その証拠に最初のブログから時系列でたどっていただければ、かなり考え方が変わってきているし、ぶれたと取られてもしかたがないところもある。それは人間だからしかたがない。それで私から離れる人もいれば、近づく人もいる。人間なんてそんなものだ。
こっちは賛成するが、そこだけは認めない?それで十分でしょう。普通はそうでしょう。100%一致する方がおかしいのですよ。
そんな中で、靖国問題は私自身、大いに悩んできた問題なのである。何度か書いたかもしれないが、いまだに一貫した考えには到達していない。
今日は、今日の時点での私の靖国に対する考え方を述べよう。色々な考え方があると思うし、それはそれでいいじゃないか、1億人の住む日本である。一億の考えがあっても良い。私は人の考え方を否定するつもりはない。ただ、自分としての考えを書いておく必要があると思い、ここに記す。皆さんの考えはコメントでいただければ幸いである。私は自分の考えが絶対だなんて思わない。だから皆様も自分なりの考えを一度考えてみたらいかがだろうか。
靖国神社に関してはずいぶん長いこと考えてきた。神社に参拝することは自由だし、それに対し中国や韓国からとやかく言われることに抵抗があった。しかし、小泉首相のように、わざと相手を挑発する意図を持って参拝する姿にはさすがに違和感を覚えた。これは相手を怒らせるためのやらせなのだと・・・。
この問題は、要はA級戦犯を合祀している靖国に参拝することは、多少の拡大解釈が入るが、サンフランシスコ条約をどのように考えるかという事であり、さらには東京裁判を認めないという意味になる事を忘れてはいけない。
そのような問題にしてしまったのはマスコミであるし、ある種の団体の意図的なプロパガンダである事はいうまでもない。しかし、現実にはそのようになってしまっているのだ。靖国神社がそれを望んだのか、望まなかったのかは私には判断はできない。
東京裁判に関して言えば、戦勝国が敗戦国を裁くことがいいのか悪いのか、そして戦犯で裁かれた人たちが本当に犯罪者だったのかどうか、異論が多いことは事実であるし、私も大いに不満が残る。
しかしながら、東京裁判を日本国は受け入れ、それを前提にサンフランシスコ条約が発効したのである。これによって日本は対外的な補償を免れたのである。この事実を認識しないことには何も進まないのだ。
このことをふまえると、中国、韓国が靖国問題で騒ぐのは、日本はサンフランシスコ条約を破棄する度胸があるのか?という事に尽きる。
もう一度日本の戦争犯罪を洗いなおし、天皇の戦争責任を問い、改めて東京裁判をやり直したいのか?という事なのである。
それを私は大いに歓迎する。しかし、そんなことが出来るはずなかろう。個人が、あるいは団体が、東京裁判は間違いである、無効であると騒ぐのは自由だし、私もそれには賛成である。しかし、国家としてそれをいう事は国際信義の問題になるはずである。
いまさら政府が本気になって第二次大戦の洗い直しをやるはずがない。もちろん、今なら少なくなったとはいえ、証人も証言も得られるだろうが、多くの人はそれを望まないはずである。
国家として、第二次大戦の結果としての東京裁判を受け入れた。今さらご破算には出来ない以上、サンフランシスコ条約を受け入れた事実を受け入れ進むしかないではないか。
内閣閣僚としての立場は国家を代表する立場である。この場合、個人の信条は関係ないのだ。靖国に参拝したければ閣僚を辞任して参拝するか、もしくは国際紛争になっても構わないという覚悟が必要になる。
菅内閣の閣僚が参拝しなかったことは妥当だし、反日工作員に付け入る隙を与えないという意味においてよかったと判断している。
もう一度言うが、私は東京裁判は無効だと思うし、やり直しが出来るものならやり直しして欲しい。しかし、その裁判を国家として受け入れたのだからもはや勝負あったなのではないのか。
日本国民としてはその時の内閣、そして閣僚達に文句を言うべきだが、今さら世界に対しては通らない理屈である。もちろんそうなれば、もう一度天皇の戦争責任に触れざるをえない。その覚悟があるのか?
筋論としても、天皇のために戦死したもののみを祀る神社である。靖国と国家に関連があるのかないのか、そして宮司が独断で合祀してよかったかどうか、そしてそれをことさら国際問題にしようとしたのは誰なのか?多くの問題があるのだが、天皇が参拝しない以上、この神社に祀られる意味がどれほどあるのかは私は疑問なのである。天皇を神とした神国日本が国民に、死んだら靖国で神として祀ると約束した。つまり、参拝すべきなのは天皇であり、閣僚ではない。
結論です。靖国に閣僚が参拝すべきだと主張する人は天皇の戦争責任を明らかにすべきだとする反天皇側の人間で、つまり左翼である。少なくとも閣僚は参拝すべきでないという主張をする人は天皇の立場を擁護する、いわゆる右翼の人間である。したがって、外宣車で東京裁判を無効だと主張しているのは右翼ではなく左翼であり、革新派に違いない。
私は事なかれ主義なので、いまさら天皇の戦争責任を問うのは止めて、アジア全体の平和を推進するため、天皇に王道を極めて欲しいと思っていますよ。なんといっても正当派の右翼ですから。
しかし、読者の顔を思い描きながら記事を書くことがどうも自分の本意ではないと思うのだ。たとえ批判を受けようが、多少の間違いがあろうが、その時の自分の思った事を素直に書くほうが自分らしい。
私はそれほど堅固な思想を持つものではない、その証拠に最初のブログから時系列でたどっていただければ、かなり考え方が変わってきているし、ぶれたと取られてもしかたがないところもある。それは人間だからしかたがない。それで私から離れる人もいれば、近づく人もいる。人間なんてそんなものだ。
こっちは賛成するが、そこだけは認めない?それで十分でしょう。普通はそうでしょう。100%一致する方がおかしいのですよ。
そんな中で、靖国問題は私自身、大いに悩んできた問題なのである。何度か書いたかもしれないが、いまだに一貫した考えには到達していない。
今日は、今日の時点での私の靖国に対する考え方を述べよう。色々な考え方があると思うし、それはそれでいいじゃないか、1億人の住む日本である。一億の考えがあっても良い。私は人の考え方を否定するつもりはない。ただ、自分としての考えを書いておく必要があると思い、ここに記す。皆さんの考えはコメントでいただければ幸いである。私は自分の考えが絶対だなんて思わない。だから皆様も自分なりの考えを一度考えてみたらいかがだろうか。
靖国神社に関してはずいぶん長いこと考えてきた。神社に参拝することは自由だし、それに対し中国や韓国からとやかく言われることに抵抗があった。しかし、小泉首相のように、わざと相手を挑発する意図を持って参拝する姿にはさすがに違和感を覚えた。これは相手を怒らせるためのやらせなのだと・・・。
この問題は、要はA級戦犯を合祀している靖国に参拝することは、多少の拡大解釈が入るが、サンフランシスコ条約をどのように考えるかという事であり、さらには東京裁判を認めないという意味になる事を忘れてはいけない。
そのような問題にしてしまったのはマスコミであるし、ある種の団体の意図的なプロパガンダである事はいうまでもない。しかし、現実にはそのようになってしまっているのだ。靖国神社がそれを望んだのか、望まなかったのかは私には判断はできない。
東京裁判に関して言えば、戦勝国が敗戦国を裁くことがいいのか悪いのか、そして戦犯で裁かれた人たちが本当に犯罪者だったのかどうか、異論が多いことは事実であるし、私も大いに不満が残る。
しかしながら、東京裁判を日本国は受け入れ、それを前提にサンフランシスコ条約が発効したのである。これによって日本は対外的な補償を免れたのである。この事実を認識しないことには何も進まないのだ。
このことをふまえると、中国、韓国が靖国問題で騒ぐのは、日本はサンフランシスコ条約を破棄する度胸があるのか?という事に尽きる。
もう一度日本の戦争犯罪を洗いなおし、天皇の戦争責任を問い、改めて東京裁判をやり直したいのか?という事なのである。
それを私は大いに歓迎する。しかし、そんなことが出来るはずなかろう。個人が、あるいは団体が、東京裁判は間違いである、無効であると騒ぐのは自由だし、私もそれには賛成である。しかし、国家としてそれをいう事は国際信義の問題になるはずである。
いまさら政府が本気になって第二次大戦の洗い直しをやるはずがない。もちろん、今なら少なくなったとはいえ、証人も証言も得られるだろうが、多くの人はそれを望まないはずである。
国家として、第二次大戦の結果としての東京裁判を受け入れた。今さらご破算には出来ない以上、サンフランシスコ条約を受け入れた事実を受け入れ進むしかないではないか。
内閣閣僚としての立場は国家を代表する立場である。この場合、個人の信条は関係ないのだ。靖国に参拝したければ閣僚を辞任して参拝するか、もしくは国際紛争になっても構わないという覚悟が必要になる。
菅内閣の閣僚が参拝しなかったことは妥当だし、反日工作員に付け入る隙を与えないという意味においてよかったと判断している。
もう一度言うが、私は東京裁判は無効だと思うし、やり直しが出来るものならやり直しして欲しい。しかし、その裁判を国家として受け入れたのだからもはや勝負あったなのではないのか。
日本国民としてはその時の内閣、そして閣僚達に文句を言うべきだが、今さら世界に対しては通らない理屈である。もちろんそうなれば、もう一度天皇の戦争責任に触れざるをえない。その覚悟があるのか?
筋論としても、天皇のために戦死したもののみを祀る神社である。靖国と国家に関連があるのかないのか、そして宮司が独断で合祀してよかったかどうか、そしてそれをことさら国際問題にしようとしたのは誰なのか?多くの問題があるのだが、天皇が参拝しない以上、この神社に祀られる意味がどれほどあるのかは私は疑問なのである。天皇を神とした神国日本が国民に、死んだら靖国で神として祀ると約束した。つまり、参拝すべきなのは天皇であり、閣僚ではない。
結論です。靖国に閣僚が参拝すべきだと主張する人は天皇の戦争責任を明らかにすべきだとする反天皇側の人間で、つまり左翼である。少なくとも閣僚は参拝すべきでないという主張をする人は天皇の立場を擁護する、いわゆる右翼の人間である。したがって、外宣車で東京裁判を無効だと主張しているのは右翼ではなく左翼であり、革新派に違いない。
私は事なかれ主義なので、いまさら天皇の戦争責任を問うのは止めて、アジア全体の平和を推進するため、天皇に王道を極めて欲しいと思っていますよ。なんといっても正当派の右翼ですから。