「大丈夫です」と精一杯のめかしこみで言い張っても、「大丈夫に見せたがってる大丈夫でなさ、だろ」と秒で打破される。
「大丈夫だと自分で思い込もうとしてる」とも。
こうまで言い募って下さる目があるのはありがたい。
ちょっぴりならず傷もつくけど、擦過傷で血も滲まぬ。
自分では本当に大丈夫だって思ってるだけに、それなりに空回りなのか、勘違いなのか、ガン無視で意固地でいくか、自分次第と相手も逃がしてくれる。
「まだ分からんか」と。
幾度も突っぱねてもきたし、幾度も間違ってて、指摘された通りの木阿弥になるまで、迷走込みでみやっててもくれる。
長所と短所は背中合わせ。
なおせばなくなり、足せば苛烈も増す。
采配はその人次第。
失敗までさせてもくれる。
くじけるものか!と意固地も背中合わせ。
成果の精算は人生の今際の際。
今日もまた「大丈夫です」をひるがえして、颯爽としくじり半分も飲み込みながら、得点に向かう。
0点だって、挑んで知った0点だ。
無価値とか遠回りってことはないって思う。
普通の人が普通にしてるが故に、普通でない世界や入り口があっても、近づかない、知らない、で済めばそれでいいけれど、「厭い出す」といささか無駄ベクトルが作用し出す。
無用に排斥に執着し、「自分からは存ぜぬ世界」だからと遠ざけ出す。
うん
まあ
怖いわね。
そこまではわかるよ。
じゃあさ
そっとしとけばいいと思う。
遠い世界ね、ってまでで、縁遠くあればいい。
「普通でなさ」サイドはその距離感を知ってるし守ってる。余計をしちゃいけないんだよね、って。
「普通サイド」が「普通でない」を咎め出すと、距離感が近寄られだす。みすみす葛藤と軋轢と摩擦が熱をはらむ。
少なくとも「普通でなさ」サイドに見かけるわきまえが、誰かの正しさ論拠で蹂躙が厭わなくさせられるのは、後者に見える。
普通でない、とこにもその必要と経緯があって、そこに位置している。
「分からない」からと手出しせずとも、放っておいて大丈夫だったこれまで、というとこに、礼節はあった。
「普通でなさ」が、時に強烈であるのは、その必要時の備えとして「火の粉は払う」の確実性を上げる時。
俯瞰して見れば、実は互いに思ってるほどの差異もない。「そう見ときたがる」なる色眼鏡の弊害、咎がたしらめられないのは、アンフェアに思う。
時に人は
土足で出入りできないじゃないと、自分では突破しない頑丈さで自分を纏わせられるんです。
このどうしようもなさ。
悲しいし、つらいけど、知られるのももっと怖い。
すごく、すごく、こわくって
見つけられないまま、無くなっていたいくらい。
みじめって、本当に底なし。
だからね。
人の助けがおせっかいくらいでないと、機能しないことがある。
普通でなくたっていいから
生きてて欲しがってくれる、そういうほかの命になれるくらいには、不躾で無礼でいなくちゃ。
ピンチの時は、静かに隠れてるから。
品よく「人に嫌われまい」と礼節良く慎ましく生きてる心がけのせいで、命が一つ、黙って潰えてるとしたら、後悔は尽きせぬ地獄の苛烈で人生を責め立て続けてくるから。
程よく支度しとけ、お節介と無礼。