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アメリカのディズニー作品とCGもの、AIに感じる「綺麗なだけ」のアニメアニメ画像に感じる違和感たちは、作り手の心の奥底の「子供騙しに、こんなもんでいいんだろ?」の姿勢が透けて見える。
「文句ねえんだろ?」が言外に透けるんです。
自分らの技術の上等や発揮に腐心まではするけれど、視聴者にリスペクトが時々欠けて感じる。
ディズニーのアニメの「人種表現」の形骸くささや、万国共通の表情表現の凝り固まったセオリーは、古臭くて更新がないので、いまだに白黒映画時代のアニメ倫理が香ってくるようです。
日本アニメの異常さは「大人向け」とか「子供アニメなのに、容赦のない大人描写や無常な倫理」もがんがん詰め込んでも来るので、子供によってはびっくりもするけれど、「変な手加減」もないため、帰って「よく見せてくれました」「みたけどよくわからん」も包括できてる。
私がディズニーアニメや、ディズニーに買収されたスターウォーズが全く見れなくなったのは、その表現に「こんなもんでいいんだろ?」がとにかく臭い。ひどく腐臭がする。
好みの話でしょうから、一概なものではないのでしょうが、「大人都合の方の『見せときたいもの』感が過剰に強め」で「子供サイドが幼少時から培えたはずの感性」がこの「大人都合のせい」で頭を踏みつけられてる気がして仕方がない。
思い出すのは小学生時代の「放送部はアニメを作れます」の触れ込みで、セルアニメができるの?幸田で?うひょー!って飛び込んだ私に、顧問の先生は「割り箸の先っちょにキャラクターの絵を貼り付けて、ビデオカメラの前で動かして、アテレコする」なる、屈辱めいた子供騙しを提言してきて、子供ながら私は「この嘘つきめ!よくもよくもだましたな!汚ねえ!大人は汚ねえ!」と怒り猛りました。
ディズニーのアニメやアメリカ映画の「漫画やアニメからの実写化」のことごとくが、この精神性と同じ「こんだけ凝ってるコスプレしたくできた俺たちってすごくね?」みたいな舐め腐ったひけらかしが感じられて不快極まるんです。
作り手のそこいらへんの「志の心許なさ」こそ映り込むのが映像ってものの怖さなのに、そこすら知らずにクリエーター気取ってら、っていやんなるんです。
子供アニメに「戦ってた悪者は実は世界の守護者だった」海のトリトンだとか、「ガールフレンドすら『人間爆弾』で物語中盤で爆死で別れるザンボット3、「人類種の新しい存在の仕方」を模索してたはずのメガボーグに、私怨からドンザウサーもコロスも妥当し切るダイターン3。
富野監督が日本アニメでとっくに「子供に容赦しねえ!」を魅せてくれた幼少を経た世代のアンファンテリブルは、「作り手が手抜いたり手加減しやがる」を勘弁ならねえ、とイキリたつんです。
全身全霊かけて、物語で魅了しに来い!は真剣勝負です。
冒頭に挙げた作品群のクリエート姿勢の大方に感じる「子供相手でしょ?」な手抜きが、同じ生き物の魂として、どーーーにも許せないのでした。はい、そうなんです。
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