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外国人から見た東洋人は、ディズニー映画のムーランに見るように、頬骨が出っ張っており、目がつり目であると言う、ある意味、厳密なアジア人の描き分けを試みてはいます。
一方、日本のアニメに見る日本人像、もしくはキャラクター描写の描き分けのなさは、日本人自身がもはや日本人らしさなどを意識もせず、見たいように自身を見、「ありたいような内的な心証」をただ単に描いて済ますと言う、全く厳密でなさゆえに、かえって世界ではその違和感や新鮮味を楽しむと言う方に乗っかることもできるメディアと化している。
返して言えば、解釈いかんをいかに楽しむかのほうに軸足を置いているのであり、厳密な描写、描き分け自体に、重きを置きませんと言う宣戦布告のような(見たいように見る)と言う自在さを楽しむ方に軸足を置いている。
日本のアニメにある日本らしさとは、学生生活や、日常描写、たこ焼き、たい焼きなどに見る食事描写などに、かろうじて日本らしさを表してはいるが、日本人はさほどそこにオリジナリティーや民族性を見出しているわけではない。
なのに、外国の人のは目からは、その差異や独自性にむしろ目が奪われがちであり、日本語を学ぶ機会にアニメを使ったり、日本らしさを探してはエンジョイすると言うシフトに楽しみを見出せてたりもする。
そもそも大陸の生活のニュアンス皆無な日本人は「自らは何者か」を必須とするアイデンティティのアピールに必要を全く価値を置かない。諸外国では「貴方は何者か」という不信や疑念の払拭が一義であり、キリスト教徒なら基本理念は通じ合えると思えたり、無心論者は共有する倫理に乏しいとみなしてくるのは、実は世界の方の身勝手な必要であったりもするのを、日本人はただ無頓着一本で突き通してくる。
この「置かなさ」にこそ羨望が篭ったりもする。
つまり、作品は正しさや描写の正値さよりも(見たいように見る)と言った(解釈)を満喫する場としての楽しさに有用性を見つけているようである。
こういった奔放が実は海外には思いのほか少ない。
日本アニメに見る金髪やピンクや緑の髪という描写、碧眼、オッドアイ、隻眼、これらの色とりどりさや、肌の色を黄色に描かなさ、は、外国人には「なんで?」の対象だ。
正実さに真っ向から反するが、事実うんぬんより先んじているものが、実は解釈の仕方であると言う有益性に、日本のコンテンツは、特化と喜びを見出しているのである。
基本的に、そこに通底するサイレントで、ステルスなコンセプトが、実にコスプレ的であり、実際がどううんぬんをさておき、それっぽくあると言う輪郭までで、よしと済ませておいてくださいよと言う、言わばこれを共に楽しむスタンスを暗に求め合うのである。
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