娘が引越ししてからというもの
日中そとを歩くことがなくなってしまった私
桜の開花宣言が出されたこともつい3日ほど前に知ったばかりだった
昨日は雨の予報が出ていたものの午前中はまだ曇り空で
なんとなく
なんとなく
氏神様へとゆっくり歩き出す
ヤマトとのらしろくろ両人と再会を果たしたばかりだったので
もしや今日も娘が会わせてくれるのでは、と思い見回すが
どこにも姿はなかった
本殿の脇に植わっている桜はこの距離からでもよく見え
既に5部咲きを越えているのではと思われた
普段から多くの人に愛されている神社だが
桜が咲く短い期間はさらに人手が多くなる
犬を持ち上げ桜と一緒に写真を撮る人が見え
うっかり去年までのことを思い出しそうになるのを抑えながら
私もバッグからカメラを取り出す
行き交う人々の
「あっという間に咲きましたなぁ」
「きれいね」
という声を背中で聞きながら数枚シャッターを切った
本殿から少し離れた場所にトイレがあり
そこにも立派な桜が植わっている
息子と娘と3人でお昼ご飯を食べながら花見をした場所だ
当時「お前達トイレの前で花見したのか?」とボスに笑われたが
私にとっては忘れられない思い出で
空の色、天気、元気だったあの子たちの表情まで
今でもはっきり思い出せる
ツバメが帰ってくる頃
桜の開花宣言が出される頃
きっともう一度心が不安定になるだろうという予想をしていた
それらの声が聞こえてくる季節が訪れるということは
楽しかった最後の春を思い出すということになる
心に残る1年前の春はあまりに美しく鮮明で
思い出すには眩しすぎるのだ
ふう…と一つため息をつきさらに奥へと向かう
弱い雨の予報が出ているくらいだったのに薄日が差し
去年3人でお花見をした場所と
一気に咲き始めた桜を弱々しく照らし出す
雑草…
雑草が生えてる
ここに3人でシートをひいてお花見したのに雑草が生えてる
ああそうか1年が過ぎていったんだ
去年と同じ場所なのに
もう何もかも違うんだ…
娘のリードを括りつけた小さな木を見る
心の隙間から簡単にすり抜けてくるあの日見た景色
”思い出が蘇る”と人は言うけれどそんな感覚とは違う
ただただ溢れてくるのだ
目の前に、あの日の3人が
後ろにはいつも座って桜を見上げていた場所があり
今期はじめてたった一人で座る
しばらく何も考えずぼんやり桜を見ていたが
ふと左手に気付く
確か娘が優しい顔をして私を励ましてくれた日があった
あれはいつのことだっただろう
私は同じ場所で同じように左手を娘に伸ばしていた
伸ばしても伸ばしても
手のひらが覚えている柔らかい被毛に触れることはできないのに
それでも無意識に左手は彼女を探していたのだ
”大丈夫 ちゃんとママのそばに いるって”
たくさんの人が桜を見上げながら笑顔で行き交う中
私は肩を震わせて声を殺しながら目頭にハンカチをあてた
しばらくその場を動けなかった
ここにいても泣いてしまうだけで娘が喜ぶわけがない
ゆっくり立ち上がり
「今年も咲いてくれて、ありがと…」
とぽつりと呟きながら桜の木に触れる
目の前に咲いていた小さな小さな桜の花は
チューリップのように見えた
何となく携帯を取り出し一枚撮影したが保存するとき妙なことが起こる
保存の最中にフル充電の携帯から
「電池が足りません 充電してください」
のメッセージと電子音が聞こえそのうち画面は真っ暗になって消えていった
ああ娘か…
この桜を携帯の待ち受けにしようものなら
見るたびにこの春を思い出して泣いてしまうかもしれない
そんなことはしなくていいんだよという娘の仕業だ
それでも一枚だけ、
それでも一枚だけ、 …と
涙をぽとりとこぼしながらカメラに持ち替え、撮影した
帰り道でコンビニに寄り久しぶりに石焼いもを買って帰る
娘ちゃん、お兄ちゃん、お芋買ってきたよ
ちょっと泣いちゃってごめんね
小さい声でそう言いながら石焼いもを割る
私が大好きなしっとり黄金色の石焼いもだった。
ママ元気出して!
ほら、
わらって!
娘ちゃん、
春がやってきてしまうよ。