’90年代”ベストカー”誌で御老公の「クルマ徒然物語」
を執筆されていた蜷川さんが、先週ご逝去されました。
蜷川さんは朝日新聞の記者などを経て、67歳の時に
サファリラリーに初出場されたそうです。
また、初代カローラで日本一周や、まだ小さかった娘さんと2人で
カナダのブリザード横断をしたりと、冒険好きな方でした。
歳を取られてから咽頭ガンを患い、声帯を取られてしまい、
喋る部分では多少不自由があったと思いますが、
文章を書く方で、活躍をされていました。
ここ数年は、ラブ・ロマンス小説をお書きになっていたようですが、
結局、作品は読ませていただけないままでした。
ヤマザキは蜷川さんと初めてお会いしたのは1992年1月。
その頃「ペコ・コーポレーション」という自分の会社の仕事を
していましたが、ラリー・ドライバー岩瀬晏弘さんの
マネージャーを始めたばかりで、二足のわらじを履いた
状態でした。ラリーのスポンサーが取れるようにと
1992年3月10日号の「ベストカー」誌にヤマザキのことを
激励して書いていただいたことは、一生の思い出です。
ご冥福をお祈りします。
を執筆されていた蜷川さんが、先週ご逝去されました。
蜷川さんは朝日新聞の記者などを経て、67歳の時に
サファリラリーに初出場されたそうです。
また、初代カローラで日本一周や、まだ小さかった娘さんと2人で
カナダのブリザード横断をしたりと、冒険好きな方でした。
歳を取られてから咽頭ガンを患い、声帯を取られてしまい、
喋る部分では多少不自由があったと思いますが、
文章を書く方で、活躍をされていました。
ここ数年は、ラブ・ロマンス小説をお書きになっていたようですが、
結局、作品は読ませていただけないままでした。
ヤマザキは蜷川さんと初めてお会いしたのは1992年1月。
その頃「ペコ・コーポレーション」という自分の会社の仕事を
していましたが、ラリー・ドライバー岩瀬晏弘さんの
マネージャーを始めたばかりで、二足のわらじを履いた
状態でした。ラリーのスポンサーが取れるようにと
1992年3月10日号の「ベストカー」誌にヤマザキのことを
激励して書いていただいたことは、一生の思い出です。
ご冥福をお祈りします。