前日に急にニスモフェスティバルに
行くことになり、お約束のあった、
お客さまに断りの電話を・・。
突然会社を休みにしたので、
もし、いらした方がいたら、
大変申し訳ありませんでした。
日曜日の朝は渋滞もなくスイスイでした。
例年に比べると、日産車があまり走っていないような・・。
「スカイラインとかZも見ないなー」と思ってました。
でも、近づくにつれて日産の車ばかり。あたりまえですが。
今回は出発の時間が少々遅かったので、時間がずれていたのかも。
サーキットの入り口周辺2キロくらいは渋滞でした。
さすが、ニスモフェスティバル。
昨日の来場者は約4万人とのこと。
本当に朝から雲ひとつない、良いお天気でした。
3月に富士でイベントがあった時のように、富士山がきれいでした。
駐車場は遠い場所しか空いていなくて、せっせと歩いてピットへ。
寒いと思って着込んでいたら、汗だくに・・・。
到着するや、いなや「あ、ブルースさんだ!」と岩瀬がダッシュ。
2Fの廊下で難波さん、ブルースさん、柿本さんなどが勢ぞろい。
下から呼んで話をしていましたが、見かねて柿本さんが、
迎えに来てくださいました。偉い方にご足労をおかけし恐縮です・・。
パスを持っていなかったので、皆さんがいるようなVIPの
場所には入れなかったのです。
今回の目当ては「日産海外参戦50周年記念」イベント。
ラリーカーは「富士号」「さくら号」をはじめ、
PA10、240Z、、KP711、410ブルーバード、
パルサーGTI-R、240RSなどが展示されていました。
他にもあったのかも知れないのですが・・すみません。
50周年記念イベントはグランドスタンド裏で開催。
移動をしたら、すぐにイベント開始の雰囲気で、
あまりゆっくりと見たり、写真を撮ったりする時間がなかったのです。
今回は記念にと富士号のドライバー「難波靖冶」さんと、
オーストラリアから来日した「ブルース・ウイルキンソン」さんに、
色紙にサインをいただきました。
お二人が揃うことは、近い将来にはもうないのかも・・・。
大変貴重なものなので、額に入れて飾っておこうかと思います。
車のパレード・ランのためにラリーカーにエンジンがかかる・・。
数台は走れないようで、そのまま展示されてました。
トークショーが開催されないで車だけ行ってしまうの??
と不安になりましたが、ほどなくしてトークショーが開催。
難波さんとブルースさんは、50年前と同じ衣装だそう。
それが着れるということがすごいし、そのままきれいに保管を
されているのも本当に不思議でした。
ブルースさんは他にも、当時のオーストラリアラリーに
ダットサンが優勝というカラーの印刷物もお持ちでした。
考えてみれば、日本車が初めて海外参戦をし、しかも完走、
その上、クラス優勝とは、すごいものです。
50年前と言えば1958年、昭和33年。
ヤマザキだって生まれてもいない。
難波さんのお話では、オーストラリアに車を持って行き、
まず聞かれたことは「日本で本当に作った車なのか??」と。
「ガラスはどこで作った、バッテリーは??」と質問攻めだったそう。
「全部日本製」と言うと、周りの外人は非常に驚いていたとのこと。
その頃は、まだ日本車は輸出もされていなかったでしょうし、
ある意味、日本車に対するカルチャーショックがあったのかも。
その時代に、ラリーに参戦してオーストラリアを1周し、
完走するというのは、本当にすごいことだったのだと思います。
何よりもすごいのは、改造した部分がほとんどないこと。
燃料タンクだけは交換しないとダメだったそうですが・・。
丈夫な日本車・・だったのでしょう。
2枚目の写真は難波さんとブルースさんです。
ブルースさんは夜の飛行機でオーストラリアへ帰国されました!
また他の写真は別な機会にアップしたいと思います。
行くことになり、お約束のあった、
お客さまに断りの電話を・・。
突然会社を休みにしたので、
もし、いらした方がいたら、
大変申し訳ありませんでした。
日曜日の朝は渋滞もなくスイスイでした。
例年に比べると、日産車があまり走っていないような・・。
「スカイラインとかZも見ないなー」と思ってました。
でも、近づくにつれて日産の車ばかり。あたりまえですが。
今回は出発の時間が少々遅かったので、時間がずれていたのかも。
サーキットの入り口周辺2キロくらいは渋滞でした。
さすが、ニスモフェスティバル。
昨日の来場者は約4万人とのこと。
本当に朝から雲ひとつない、良いお天気でした。
3月に富士でイベントがあった時のように、富士山がきれいでした。
駐車場は遠い場所しか空いていなくて、せっせと歩いてピットへ。
寒いと思って着込んでいたら、汗だくに・・・。
到着するや、いなや「あ、ブルースさんだ!」と岩瀬がダッシュ。
2Fの廊下で難波さん、ブルースさん、柿本さんなどが勢ぞろい。
下から呼んで話をしていましたが、見かねて柿本さんが、
迎えに来てくださいました。偉い方にご足労をおかけし恐縮です・・。
パスを持っていなかったので、皆さんがいるようなVIPの
場所には入れなかったのです。
今回の目当ては「日産海外参戦50周年記念」イベント。
ラリーカーは「富士号」「さくら号」をはじめ、
PA10、240Z、、KP711、410ブルーバード、
パルサーGTI-R、240RSなどが展示されていました。
他にもあったのかも知れないのですが・・すみません。
50周年記念イベントはグランドスタンド裏で開催。
移動をしたら、すぐにイベント開始の雰囲気で、
あまりゆっくりと見たり、写真を撮ったりする時間がなかったのです。
今回は記念にと富士号のドライバー「難波靖冶」さんと、
オーストラリアから来日した「ブルース・ウイルキンソン」さんに、
色紙にサインをいただきました。
お二人が揃うことは、近い将来にはもうないのかも・・・。
大変貴重なものなので、額に入れて飾っておこうかと思います。
車のパレード・ランのためにラリーカーにエンジンがかかる・・。
数台は走れないようで、そのまま展示されてました。
トークショーが開催されないで車だけ行ってしまうの??
と不安になりましたが、ほどなくしてトークショーが開催。
難波さんとブルースさんは、50年前と同じ衣装だそう。
それが着れるということがすごいし、そのままきれいに保管を
されているのも本当に不思議でした。
ブルースさんは他にも、当時のオーストラリアラリーに
ダットサンが優勝というカラーの印刷物もお持ちでした。
考えてみれば、日本車が初めて海外参戦をし、しかも完走、
その上、クラス優勝とは、すごいものです。
50年前と言えば1958年、昭和33年。
ヤマザキだって生まれてもいない。
難波さんのお話では、オーストラリアに車を持って行き、
まず聞かれたことは「日本で本当に作った車なのか??」と。
「ガラスはどこで作った、バッテリーは??」と質問攻めだったそう。
「全部日本製」と言うと、周りの外人は非常に驚いていたとのこと。
その頃は、まだ日本車は輸出もされていなかったでしょうし、
ある意味、日本車に対するカルチャーショックがあったのかも。
その時代に、ラリーに参戦してオーストラリアを1周し、
完走するというのは、本当にすごいことだったのだと思います。
何よりもすごいのは、改造した部分がほとんどないこと。
燃料タンクだけは交換しないとダメだったそうですが・・。
丈夫な日本車・・だったのでしょう。
2枚目の写真は難波さんとブルースさんです。
ブルースさんは夜の飛行機でオーストラリアへ帰国されました!
また他の写真は別な機会にアップしたいと思います。