ゲイリーマンのカミングアウト的思考

長年サラリーマンしながらLGBT活動。45歳にしてフリー。同性愛者らが自分らしく生きられる社会を地方から目指す。ミラー版

カミングアウトは不道徳?

2005-10-01 01:18:03 | Weblog
進んで自分の性向を他人に知らしめなくてもよいではないか?と言う意見がある。

ゲイであることは性的指向(ベクトル)が同性に向いていることが根幹だから、どうしても性的な要因をはらんでいることになる。
通常「男女の仲」といった場合にも性的なものが含まれるわけだけれど、異性愛者の場合は存在そのものが性的に取り上げられることは無いことになっている(エロ親父とかは別)。

ゲイの場合はイメージがまず性に向かう。性的なことは表に出すべきことではないと教えられてきたものにはゲイであることを公にしないことは道徳的な振る舞いになる。自分の性的なことをオープンに話すなんて普通はしないだろってことだ。

ゲイであることを趣味嗜好と捉えている人もいる。
ゲイであることをオープンにしたがらない人には都合のよい論理整理になるらしい。
「女とも出来るのだけれど男ともやるのだ、ちょっと変わってる好き物だろ?ほっとけよ」というところか。

また、自分自身を模索中の若いうちにはよく自分のことをバイと言ってみたりするのを多く見かける。
ゲイだと救われないがバイだと救われるらしい。
ゲイに対する相当な社会的圧力を若い者でも十分に感じている訳だから、そんなところで自分を説き伏せているのだろう。

性は本当に多様であってバイセクシャルも本当に存在する。
本当に自然の神秘で虹色のように不明確で様々な形があるのだと思う。
でもカモフラージュとしての自称バイ発言について、多くのゲイは「マユツバ」と感じていると思う。

性的なことは公言すべきでない、このハードルがゲイのカミングアウトを躊躇させる。
しかし、公言しないことが美徳、つつましさだなんて言ってる場合なのだろうか?

ゲイである自分を心に秘め、挙句に無理に女性と結婚し家庭を築く。
それが美徳にみあう俺たちの幸せなのか?

結婚しないで、あまり社会的にもかかわらずに一人で生きていく?そうもいかないよね。
適齢期までは美徳的に振舞えれるのかもしれない、でも適齢期を越えて嘘の結婚もしないで30を過ぎとくれば、なぜか結婚もせず、また自分のことを語りたがらない「怪しいおっさん」になってくる。
あいつには女性の影を感じないぞ、怪しい!変!きもい!とか他人は勝手に推測をするだろう。その時になったときどういう自分でいるのか?

親しい友達に対してでさえ、本当の心を開かない・・何のための友達か・・
それは友達に対する不義理ではないのか?。

日本は自分のことをあまり主張しなくてもよいといった甘えられる雰囲気もあるのだけれど、かといって見守ってくれる訳でもない厳しい視線もある。

ゲイであることが恥ずかしいと思われることの無い社会になればいいけれど・・・。


ふぅ、弱い人間なら引きこもりたくもなるぞ。ホントきつい・・


でも世間の方がおかしいのだ!!

まずは、自分自身のことを恥ずかしい事と思わない思考からだろうか。
コメント (2)
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