茫庵

万書きつらね

12月25日 - 詩と技巧 2

2011年12月25日 19時04分28秒 | 詩学、詩論

詩と技巧 2

 前回は、他の芸術と同じく、詩にも技巧があってし かるべきではないか、という問題提議を行いました。詩の技巧へのアンチテーゼとして、「技巧で人を感動させる詩が作れる訳ではない」という議論を挙げ、反 駁として、「思った事を好きなように表現するだけなら獣が情に任せて吠えるのと同じだ」という、昔の詩人の言を借用したのでした。そして、調べていくと、 詩の世界で技巧が軽視されるようになったのは、どうやら口語詩の抬頭の頃からではないか、という事が分かってきた、というところで結びました。


口語体詩と文語体詩

 まず、ここで云う口語とは現代日本語の口語、文語とは、平安時代以後の古文、なかでも方丈記以来の和漢混淆文の事を指します。古語の口語は私自身よく分からないのでまた別な機会に考察する事にします。
  さて、文語体詩は理解しにくい、修辞に凝り過ぎる、など、文語体詩への定番の批判は調べ物をしているとよく目にします。それは単に日常使わなくなったから そう感じるだけで、言語的に文語体に問題がある訳ではありません。英語の詩が理解出来ないから全部日本語の口語にしろ、という人はいません。普段使わなけ れば理解出来ないのは当たり前のことです。

では、言語的に口語体は文語体よりも優れているのでしょうか?

私は決してそうは思いません。むしろ圧倒的に逆だと思っています。

  今の日本語とは明治維新後に作られた標準語が基礎になっていて、たかだか100と数十年ぽっちのものです。文語体の、いわゆる和漢混淆文は1000年近い (古文と合わせれば1000年以上)歴史を生き抜いてきた力ある言語です。私は、この、時代を越えて生き続けてきた、という事がもう少し取り上げられても 良いと思います。

 その中で培われた言語としての力は、口語体では及びもつかない深淵なものだろうと推測します。推測、と述べるのは、私 自身がまだそれほど文語体を理解していないからですが、それでも推測し得るほど、ちょっとかじっただけでもその豊かさに驚かざるを得ない、という感想を 持っています。単に文章や詩歌の文体や語法だけでなく、典故、様々な枕詞や折句まで含めて、表現技法の蓄積は比べるべくもありません。口語体の文章や詩が それを継承あるいは流用したとしてもそれは口語体表現の資産ではないので、口語体の力と断ずる事は出来ないと思います。

 もし口語体を使っても、文語体の歴史的資産を一切使わずに表現するとしたら、更に薄っぺらなものにしかならないでしょう。なんだかんだいっても、歴史の重さは偉大です。

 「でも難しいじゃない?」

  それでも聞く人がいるでしょう。それは勉強するしかありません。そして多読。慣れです、慣れ。口語体だって、慣れてない人から見たら似たようなものですか ら。例えば外国人とか。そのあたりは外国語の詩でも同じ様なもの。でも海外の詩は現代口語じゃないからダメだ、という話はついぞ聞いたことがありません。 外国語の詩を読むには、やはりその外国語を勉強しなきゃいけません。誰もそれをとやかく云うことはありません。口語主義の人たちは、母国語の文語より外国 語の方が理解出来るってんでしょうか? ボンクラな私にはよく分かりません。

 そういう面々のことはさておき、ここでは味わい深い文語にもっと焦点を当てて、読む、書く、両方に渡って話題を展開していきたいと思います。口語体も無 くはないですが、それは他所にいくらでも書く人がいますから。ここで取り上げることではござんせん。但し、私が書く文語体風の文体は、いわゆる文語ではあ りません。森鷗外なども独特の文語調を使って書いてましたし、口語なんだけど漢文調、という文体で書いた文豪もいるとか。 という訳で、私も文体の勉強は 続けつつも、それっぽく自分の文体で書く事に致します。 やはり多読しないと本当の文体は身につきません。それまでは申し訳ありませんがまがい物で失礼致します。

 


12月25日 - 詩と技巧 1

2011年12月25日 12時58分05秒 | 詩学、詩論

芸術としての詩

優れた芸術作品には技があります。素材があります。道具があります。
音楽や美術では、それは極めて分かりやすい形で他人も認識する事ができます。
では詩はどうでしょうか。

詩とは詩人が思いを言葉に乗せて発したものであるので、
これといった道具が見つかりません。強いていえば言葉そのものでしょうか。

以下は、あくまでも芸術としての詩、という事で話であって、
詩を読んだり書いたりするのが好きなだけ、という人々とは異なる次元の話です。


  詩作に思いを馳せるとき、
  詩人と称する人たちは、
  何もて道具となすべきぞ。

詩が道具となすもの。それは言葉しかありません。
その言葉をどう使いこなすかは、詩人本人の感性と
技量に任されているといえます。

  楽士が奏でる珠玉の音、
  絵師が彩なす美の極致、
  いずれ劣らぬ芸術の、
  技の冴えたる面白さ

音楽や美術の作品の出来栄えは、
誰が作品を鑑賞しても明白なものがあります。
優れた技術と才能からほとばしり出る芸術作品は、
時として芸術に縁のない私のような者をも圧倒します。

詩はどうでしょうか?
詩で使われる言葉は、誰でも使う言葉です。
誰でも使う言葉で書かなければ誰も理解できません。

絵や音楽の世界では、実力の有無による出来栄えの差は
悲しい位に明白で、弁明の余地も無い位なのですが、
詩の優劣はどうやってつけるのでしょうか?

絵にも音楽にもそれなりの基礎練習や技巧があります。
人を感心させるには、ある一定以上の技巧に長けていなければなりません。
趣味や楽しみでやってるならともかく、芸術家の域にまで達する人は、
皆厳しい修練を積み重ねています。

詩にはどんな修練が必要なのでしょうか。

こうした事を考えようとするとき、必ず出てくるのが
詩に理屈や技術は要らない、という論議です。

曰く、「言語表現理論や技術に凝っても人を感動させられる詩は作れない」

果たしてそうでしょうか?

私には、表現を磨く事もせず、理論の勉強もせず、技術を高める事が出来ない、
あるいはそういう努力を積み重ねるのが嫌な人の負け惜しみと言い訳にしか聞こえません。

何の努力もなしに、書きたいものを、自分が好きが言葉で書きたい様に綴っただけの詩では、獣が情に任せて吠えるのと同じだ、と昔の詩人が著作の中で述べている通りだと思います。
それでは仲間内で褒めあう位しか存在意義が持てないのではないか、と思うのです。
私は色々と同人や「詩人」と自称する方々を見てきましたが、どうもその域を出ない人が多い気がします。

調べてみると、どうも口語体詩が普及したあたりから、詩の低迷は始まっているらしい事が判って来ました。