積善之家必有餘慶。 積不善之家必有餘殃。
せきぜんのいえにはかならずよけいあり。せきふぜんのいえにはかならずよおうあり。
要は、善き心を持ち、行い善き人の家は栄える、という事である。逆に、善き心を持たず、今の小悪党揃いの日本国民のように、つまらない目先の利益ばかり追求して、行い善からざる人の家には災いが来る。行い善きとはどういう事か。それは、事に当たっての選択、意思表明、決定が常に適切で結果もまた妥当であり、人の謗りを受ける事がないこと、また、その結果が、自己だけでなくむしろ他者にも利益をもたらすことを言う。
そういう振る舞いが出来る人は、当然「善き躾」をされて育った者である。つまり、人が幸せになれるかには躾の善し悪しが大きく左右する。今の日本の親は大部分が失格だ。恥知らずとしか言いようがない。子ども当人が不幸になるだけでなく、社会の多くの人々が迷惑するのだ。是非ともまず自らの性根を叩きな直し、その上で己らの子どもを教育し直して、社会に顔向けの出来る最低限の人間になってもらいたいものだ。
大多数の日本の馬鹿親には望むべくもないのだが、それでもそこに期待するしか日本が生き残る道はない。そして、この社会に活きる以上は愚か者と心中する事になったとしても、それはそれで運命なのだから受け入れるしかない。
大半の日本人は個性とか自由とかいうものを理解していない。また、何でもかんでも戦前のものは悪で、日本人は罪深い種族であり、常に世界に、とりわけ中国と韓国に贖罪し続けていかなければならない、という自虐的な歴史観を植えつけられて育つので、まともな物の考え方が出来ない人が大半だ。
中でも子どもの躾の悪さは目を覆いたくなるばかりだ。
当然である。親がそもそも正常な社会人としての良識に欠けたまま歳だけ大人になったような人物ばかりなのだから、子どもだけまともに育つ訳がない。馬鹿親の元で育つ子どもも当然馬鹿なのだ。迷惑するのは社会全体である。だが、馬鹿同士、誰もその当たり前の事に気がつかない。
人生で色々な苦難に直面した時、どう現実と向き合い、切り開いていくか。周囲の人に理解される人間になって、助けて貰える様になるのか、いつでもどんな場合でも陰口をたたかれ、軽蔑される様な人間になるのか、それは当人のごく幼いうちの親の躾如何で決まる。人間について、自己について、社会について、人生について、正しい向き合い方を教えられなかった、いわゆる「躾の悪い子ども」は見ていて非常にみじめであるし、そういう風にしか育てられなかった親の馬鹿さ加減もにじみ出てきて、実に見るに耐えない。
世の中、愚か者ばかりになって久しいが、それを現実として生きて行かなければならないのも確かな事だ。彼らには一切の理屈も正義も通じないのだから厄介だが、そんな者たちをも含めて成り立たせていかなければならないのが社会というものでもある。以前は当たり前だった教育精神、「大学」「中庸」の教育精神を辛抱づよく普及させていくしか人間性復活の道はない。