茫庵

万書きつらね

2012年11月13日 - ダンテ「神曲」を読む 5

2012年11月13日 01時07分00秒 | 名句、名言


 このシリーズはダンテ「神曲」のあらすじの紹介や和訳を掲載するのが目的ではありません。それについては既に優れた作品が世の中には沢山出回っています。ましてやダンテ研究といったマニアックなものでもありません。むしろ、翻訳や意味的解釈だけではとらえきれない詩文としての魅力を体感しながら自分の中にどんな刺激を取り込むか、という実験記録のようなものです。

 さて、読書状況についてですが、昨日、岩波の地獄編を通読しました。途中で河出を追い抜かしてのゴール、とはいえ作者が描こうとした地獄の全貌はまだぼーっとしたままです。挿絵やイラストなど色々と出ていますがそれぞれ一場面を断片的にとらえたものなので全体像としてのつながりが持てないでいます。地獄ってまーるいの? 輪っかになってる? なんで? みたいな状態です。ですが、こうしたぼやけた状態になるのはいつものことです。私はひとつの作品を数度以上読み込まないと自分の中でイメージが出来上がらないのです。
 
 次に、地獄編の一度めの通読を終えて思うこと。地獄には永劫に救われない魂がいて、日夜苦しみを味わい続けています。本作は客観的な存在として地獄があり、そこへ行ってきた作者が旅行記を書いた、というようなしろものではなく、あくまでも作者が「勝手に」思い描いた地獄です。ということは、そこにいる人々(の魂)もまた作者がそこにいるのがふさわしかろうと考えたからこそいるわけで、言い換えれば作者によって地獄に落とされたのであります。

 言わば、ダンテは神でもないのに勝手に地獄の住民を決めてしまったわけですが、作者自身もまたその地獄で恐れおののきながらウェルギリウスに連れられてゆくだけの存在として描かれます。一方、作者の尊敬と陶酔の対象であったウェルギリウスはただの詩人とは思えないほど偉大な人物として描かれます。しかし、それでも天国には入れません。彼は「イェス・キリスト」以前の時えt代の人で、「本当の神を知らない」からです。ダンテにその点についていささかの妥協も例外もなく、スーパーマン、ウェルギリウスに「その先は、私よりもっと高貴な方の導きがある」と言わしめています。

 このモチーフは、なかなか使えそうです。何でかわからないままに異界に降り立った主人公を、歴史上の偉大な人物が導く。その人物は知恵と力と勇気と、気高い人格を備え、他を圧倒するが、完全無欠ではなく、やがてその役目は更に気高い人物へと引き継がれる。ファンタジー系のお話や、ゲームにもなっていそうですね。

 ダンテが最初に登場する森、そこで見つける山、遭遇する三頭のけものについては、その後に登場する怪物や風景、責め苦などと同じく、それぞれシンボリズム的解釈がついていますが、今はエリオットの言に従って、そういったものとは切り離して、言葉通りに受け止めて先に進むとしましょう。注釈など、細部に目を通すのは二週目以降でも遅くはありません。

 次に地獄編読破を目指すのは、現在位置からいえば河出が最も近くにいますが、私の興味の深さからいえば、読み進み始めたばかりのPenguinBooks版です。他バージョンもそれぞれ少しずつ進み、岩波は煉獄編へと進みます。