地獄編で地獄に落とされた人々の中にはキリスト教世界ではかなり偉いはずの法王もおり、当時腐敗しまくっていた教会の在り方について痛烈な諷刺 の一撃を加えている、という一面も伺えるなど、一応は自己批判も入れて本人なりにバランスを保とうとしているのかと思われるところがあります。
それにしても地獄編を読み始めてから何かひっかかるものをずっと感じ続けていたのですが、浄火(煉獄)篇に入ってからようやくそれが何か分かってきました。それは、、、。
既に死んで肉体を失っているはずの亡者が肉体の責め苦に喘いでいる
という事です。
「お前ら復活の日まで肉体ないんとちゃうんか? 何、痛がっとるんや?」
とまあ、そういう事なのです。地獄に堕ちると大変だよ、という事を表現するために色々な責め苦が生々しく描写されていて、それはそれで不気味でもあり悲惨でもあり、読者に恐れの念を抱かせるには十分なのですが、どこか絵空事で身に迫るリアリティが無い理由はまさにそこにあったのです。地獄の住人たちは、生きているダンテと同じように喋りもするし、相手の顔を見てそれと判断したりもします。虐められれれば血まで流すのですから。霊魂ってそういうもんでしたっけ?
ここから先は本当にそうなのか、誰も証明する事は出来ないし、逆に、そうではないとも言い切れない観念的な世界に入ってしまいます。言わばなんとでも言えるのです。ちなみに我々儒者は、「怪力乱神は論ぜず」といってこういった類の話題は口にしない、というのがならわしです。