私自身は詩というものに対してさほど関心を持たないのだが、詩の好きな妖精、Elenが私の夢にやってくる様になってから、なんとなく詩人たちとの距離感が縮まった。時代、国、民族を超えて読まれる詩人もいる事を知った。詩人の言葉は必ずしも勇気や喜びばかりを与えてくれるものではないが、いずれも圧倒的な存在感をもってのしかかってくる。これが超一流の詩人が発する言葉の重みか、と感じる一瞬。
詩人だからことさら人より高い人生を歩んでいる、ということは無い。彼らが違うのは、魂と言葉の結びつきについて他の人よりもよく知り得たという事に他ならない。彼らはどんな場面でどの言葉がどう人の心に響くかを計算し尽くして詩作に結実させる。逆にいえばそれが出来ない者は詩人とはいえない。詩人なら全身全霊をかけて選び出す、究極の一語というものを持っている。そこには人知れず底知れぬ悩み苦しみに耐え抜いた者だけが持つ孤高な叫びがある。
だが、例えば絵画の作品は視覚を通じて描いた物が直接鑑賞者の感受性に訴えかけてくるが詩の場合は違う。第一に言語を理解しなければ意味はおろか何と読むかすら分からない。意味が理解出来たところでそれはあくまでも言語的意味合いなだけで、詩として何を言おうとしたかまでは至らないのだ。逆に、作者が意図しなかった事まで感じ取る読者がいるかもしれないが、それは原語への理解があった先に来るべきものだ。
詩とは、作者にっとても読者にとっても、人類の知的活動のうちでも最も高度に言語的能力を働かせたものである。心に感じたものを素直に書いたらいい、感じれるままに読んだらいい、というのは世迷言でしかない。言語を理解しない者には何も伝わらないし、理解したとしても詩情を共有出来るとは限らない。詩は書く人をも読む人をも選ぶのだ。「誰でも」というのは傲慢と無知が言わしめる言葉である。どんな詩が誰を選ぶのかは誰にも分からない。
「まいど」
Elenが来た。どうやら色々と考えているうちに眠ってしまっていたらしい。
前回来た時にボードレールネタを頼んでおいたので、何が聞けるのか期待だ。
さて、今回の名言はマルティアルス。詩人にとって、詩が評価される事、評価されない事、それぞれどう受け止めるか。批評者への牽制とも負け惜しみともとれるこの一節。物書きをする身にとってはある面確かに真理といえるかも。
Lector et auditor nostros probat, Aule, libellos,
sed quidam exactos esse poeta negat.
non nimium curo: nam cenae fercula nostrae
malim convivis quam placuisse cocis.
(マルティアリス「Epigramma 9-81」より)