Ferdinand Edralin Marcos(1917年9月11日 - 1989年9月28日)
フェルディナンド・マルコス(1917年9月11日、フィリピン、サラット生まれ。
フィリピン共和国の政治家。フィリピン共和国第6代大統領で、フィリピンの第10代大統領。
1989年9月28日、米国ハワイ州ホノルル死去)は、フィリピンの 弁護士、政治家であり、1965年から1986年まで国家元首として、フィリピンに独裁政権を確立したが、その政権は汚職と民主的プロセスの抑圧で批判された。
独裁者としてフィリピンに君臨し、約20年間にわたって権力を握ったが、その政権は汚職と民主的プロセスの抑圧で批判され1986年のエドゥサ革命によって打倒された。20年に及ぶマルコスの独裁政権下では、政敵が拷問を受けたり、即決処刑にされたり、失踪したりするケースが相次いだ。1972〜1981年に戒厳令を敷いたマルコスは、不正行為を認めないまま、亡命先のハワイで89年に死去した。
来歴
学生時代
アメリカ合衆国の植民地支配下のフィリピンで生まれた。
フェルディナンド E. マルコスは、マリアノ マルコスとホセファ エドラリンはともに教師の両親の下、1917 年 9 月 11 日にイロコス ノルテ州サラトで生まれた。
1923 年から 1929 年まで、サラト中央学校、ラオアグのシャムロック小学校、マニラのエルミタ小学校に通った。フィリピン大学で高等学校と教養課程を修了した。学生時代に、予備役将校訓練課程の大隊指揮官を務めた後、フィリピン警察予備隊の少尉 (見習士官) に任命された。
父親は弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員、母親は教師だった。4人兄弟の2番目であった。
1935年、フィリピン大学法学部の学生だったとき、父親と政治的に対立していた下院議員リオ・ナルンダサン暗殺事件の容疑で起訴され、同年11月に有罪判決を受けた。マニュエル・ケソン大統領により恩赦を受けるが、これを拒否し刑務所にて裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごした(後に司法試験はトップで合格する)。翌年、最高裁判所判決にて無罪となる。
- フリオ・ナルンダサン(1894年7月21日 - 1935年9月20日)
フィリピンの弁護士、政治家であり、イロコス・ノルテ州の政治家マリアーノ・マルコス(後にフィリピン第10代大統領となるフェルディナンド・マルコスの父)の政敵の一人であった。
ナルンダサンは1934年にマリアノ・マルコスを破り、イロコス・ノルテ第2地区の代表に初当選した。
1935年に両者は再び競い合い、今度は下院議員に選出された。ナルンダサンは1935年9月20日、当選が宣言されてからわずか2日後に、自宅で狙撃兵に殺害された。マルコスの息子フェルディナンドと義理の兄弟キリノ・リザルドは後に殺人罪で有罪判決を受けた。しかし、フィリピン最高裁判所は当時のホセ・P・ローレル判事の判決により、有罪判決を覆した。
戦時中
1941年12月8日に日本が真珠湾攻撃を行うと、明くる1942年1月に日本軍は、当時アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンに進軍した。この際マルコスはアメリカの支援を受けた「フィリピン自治領軍」第21歩兵師団の戦闘情報局員として従軍し、日本軍と対峙したという。
後に書かれたマルコスの伝記によれば、「日本軍がアメリカの植民地だったフィリピンに進出した1942年1月当時、中尉だったマルコスは、18歳だった3人の新兵と共に、後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊し、さらに日本軍の捕虜となった際、拷問をかけられながらもこれに反撃し脱出した」ことが記されている。この軍功により、大尉に昇進し名誉勲章に推薦されている。
後にマルコスがフィリピンのゲリラ抵抗運動の指導者であったと主張したことは、彼の政治的成功の中心的な要因となったが、米国政府の公文書により、1942年から45年にかけての抗日活動には実際にはほとんど、あるいは全く関与していなかったことが明らかになった。
同年1月に、アメリカ軍を放逐した日本軍はマニラを無血占領したが、マルコスは辛くもバターン死の行進から脱出しているものの、その後の動向は不明である。こうしたマルコスが主張する「抗日ゲリラ活動での活躍」は、後の政治的成功の大きな要因となった。しかし後に公表された米国公文書館の記録によれば、戦時中の活動はごくわずか、もしくは全く無かったことが明らかになっている。さらに上記のような日本軍との戦闘も記録されていない。
議員時代
フィリピン独立後の1946年から1947年まで、マニュエル・ロハス大統領の補佐官を務め、1949年には下院議員に当選、その際の選挙スローガンは「投票日に、あなたの下院議員として私を選出してください。そうすれば私は20年で大統領となります」というものだった。1959年には上院議員に鞍替えし、1962年から1965年までは上院議長を務めた。
1954年に、ミス・マニラのイメルダ・マルコスと結婚、2人の間に3人の子供に恵まれた。長女で現在もフィリピン下院議員を務めるアイミー・マルコス。長男で第17代大統領のフェルデナンド・マルコスjr(ボンボン・マルコス)。そして次女のアイリーン・マルコスである。なお2004年にシドニーの新聞がマルコスと水着モデルとの間に1971年生まれの娘がいたとする報道を行ったが、このほかにもマルコスには17人の非嫡出子がいるとの噂がある。
議員時代までマルコスの政治経験の大半はフィリピン自由党党員としてのものだった。1965年の大統領選挙では党の候補者指名を求めたが、指名されたのは現職大統領のディオスダド・マカパガルだった。
彼は下院議員(1949年 - 1959年)、上院議員(1959年 - 1965年)であり、上院議長(1963年 - 1965年)を務めた。1965年、ロハスが創設した自由党の有力メンバーであったマルコスは、大統領選挙で党の指名を得られなかったため、同党と決別した。その後、彼は自由党の大統領ディオスダド・マカパガルに対抗して国民党の大統領候補として出馬した。選挙戦は費用がかかり、厳しいものだった。選挙では頭の回転の良さと弁舌を生かして演説し、マスコミは彼を「アジアのケネディ」と称するまでに至った。
国民党は副大統領候補のフェルデナンド・ロペスと共に大統領選挙で地滑り的大勝を果たし、マルコスは勝利し、1965年12月30日に大統領に就任した。
1969年に彼は再選され、2期目を務めた最初のフィリピン大統領となった。最初の任期中、彼は農業、産業、教育の分野で進歩を遂げた。しかし、彼の政権は学生デモや暴力的な都市ゲリラ活動の増加に悩まされていた。
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