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売春、戦間期マニラからの中国人女性の国外追放 001

2024-01-17 | フィリピン

アジア全域における女性と子供の売買に関する1933年の国際連盟の報告書には、アメリカ領フィリピンから900人の中国人女性が強制送還されたという一文が含まれていた。

国際連盟の数十年にわたるキャンペーンでは、国が登録した売春宿の廃止が目指され、1918年以来、赤線地帯が閉鎖されたマニラは、性産業弾圧の模範とみなされた。

中国人女性の犯罪化と国外追放が、国際連盟の人身売買禁止キャンペーンによってどの程度促進されたのか、またマニラの当局や女性団体が国際連盟の意図を共有していたのか。

売春を警察問題だとするアメリカの言説を浮き彫りにし、廃止政策が中国人女性を標的にしたことと相まって、リベラルなフェミニスト国際主義者の目的を損なったことを示唆している。

1934年、若い中国人女性アイ・キムはフィリピンの最高裁判所で、マニラの移住斡旋業者タン・ピン・コーがアモイ(厦門)からマニラへの渡航を手配したと証言した。

1903年に制定された中国人登録法の制限を逃れるため、彼女は到着時にタン・キムという名前を名乗り、タン・ピン社の娘であると主張した。

彼女は、1931年に中国でヤップ・アー・ファンに売られ、性を売るよう強制されたと証言した。

彼女は誰に売られたのか言わなかったが、父親が亡くなっていたことから、上海に住んでいた母親が彼女を養うことができなかった可能性が高い。

マニラに到着したアイ・キムは、パサイのゴタムコ通りにあるヤップ・アフアンの売春宿で働かされ、タン・ピンコーは彼女の収入から750ペソ(375米ドル)の料金を徴収した。

タン・ピンコーもマニラ在住であったが、1935年に強制送還された。

アイ・キムは売春宿から逃げ出し、中国領事に保護を申請した後、税関の取締官に8ヵ月間拘束された。

特別調査委員会は、フィリピンで施行されていた1917年米国移民法第19条に基づき、彼女の国外退去を命じた。

同法は、「売春宿の収容者もしくは売春宿の経営に携わる者、または売春を行う者、......または、その収益の一部を受け取り、共有し、もしくはそこから利益を得る者」に適用されるものであった。

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