プチコミ情報局

生活に直結した新鮮で興味ある情報を発信します。
皆様からも面白く参考になる情報(正しい情報)をお寄せ下さい。

新天皇大嘗祭は歴史、憲法、価値観に反する!? (再掲)

2020-05-21 | Weblog
シリーズ本音トーク-新天皇大嘗祭は歴史、憲法、価値観に反する!? (再掲)
 2019年10月22日に実施された新天皇の即位の礼正殿の儀の後、11月14、15日に皇居のある江戸城趾東御苑に建設された神殿において大嘗祭が実施され、新天皇即位に伴う一連の行事が終了した。
 宮内庁は、平成時代に則って実施するとして、東御苑に神殿を建造するため27億円規模(予算ベース)を当てることとしていた。しかし新天皇の一回限り、2日間の宗教儀式にしては高額に過ぎる等の批判が皇族内からも出ていることから、若干建設費を削減すると共に、秘密主義との批判を配慮し、行事の極く一部のテレビ撮影を許可すると共に、神殿を一定期間公開するとした。
 しかし予算規模の問題のほか、大嘗祭に国家予算(税金)を使用し、また国家行事に模した行事とすることには大きな問題があるようだ。
 1、平成時代の新天皇関連行事自体が伝統に反する!
 宮内庁は、今回新天皇即位の礼や大嘗祭を平成時代に沿って行うとしているが、平成の即位関連行事は歴史的には例外で、伝統が命である皇室行事の前例とはならない。明治維新後、江戸(東京)に移された明治天皇はもとより、大正天皇や昭和天皇も即位の礼や大嘗祭は京都御所で行っている。新天皇即位に関連する行事は、平安朝以来昭和時代まで京都御所で行われている。伝統が唯一の継承の根拠である天皇制において、平成は伝統破りだ。一方で伝統に則るとしつつ、他方で伝統破りでは信頼を失う。

 2、不明朗な大嘗祭の位置づけ
 政府(宮内庁)は、即位の礼正殿の儀と祝賀パレードをもって「国事行為としての公式行事」は終了したとしている。それでは27億円規模(予算ベース)の国費(税金)を使って、元々江戸城本丸があった歴史的な公的な場所で挙行された「大嘗祭」とは一体何なのか?
‘非公式行事’とすれば、国家予算や公的な場所の使用は不適切であろう。政府の金などは1円たりともない。すべて国民の税金であり、国民が納得する支出が求められる。
 「国事行為」では無いが‘公式行事’とすることには問題がある。憲法は、天皇の権能を制限するため「国事行為」として10項目挙げており、それ以外のことは行えないと解釈される。それでは多額の国費(税金)を使って公な場所で挙行される「大嘗祭」とは一体何なのか?
公式行事ではない皇室の私的な行事であれば、皇室独自の資金或いは皇室活動のための「内廷費」で、例えば伝統的に大嘗祭が行われている京都御所やその他の神道施設など私的な場所で行うべきであろう。
 既成事実を積み重ね、国民の意識が緩んだ時に‘公式行事化’する意図であろ
うか。国民がしっかりと見極め意見を表明する必要がありそうだ。どうも今のマスコミやいわゆる有識者、コメンテーター等は商業化し、事無かれ主義に流れる傾向があるようにも映るので、マスコミや有識者、お笑いタレント、コメンテーター等には残念ながら余り期待が持てそうにない。国民がしっかり見極める必要がある。
 ところで費用面では、即位儀式に関連する政府支出が全体で約123億円とされている。その中でも、即位の礼に使われた「高御座(たかみくら)」の京都御所からの輸送関連費のみで9億、一回限りの大嘗祭の社殿建設だけで予算額27億円はいかにも浪費だ。即位の礼、大嘗祭を昭和天皇までのように京都御所で行えば、予算ベースで36億円相当がすぐに浮く。
国家的な行事であるのである程度の経費は仕方ないが、伝統に従って京都御所で行えば多額の節約になる上、千葉で多くの県民が家や屋根を失い、また台風19号の被害は拡大し、これまでの大規模災害で避難所住まいを強いられている多くの国民がいる中で、不必要な浪費をすることには疑問が持たれるだろう。それだけの資金と労力があれば、取り敢えず希望する被災者に無利子で資金を貸与する一方、全国から業者を募り住居を確保する方がどれだけ国民のためになるか。それもしないで、被災地を回られてもパーフォーマンスとしか映らない。

 3、大嘗祭は明らかに神道による宗教行事
天皇を含め宮家が神道や神道儀式を信じるのは自由であるが、宗教行事であ
る大嘗祭を政府が国の行事として行うべきではなかろう。国は憲法上宗教活動を行うことは出来ない。国民には信仰の自由がある。従って国家予算を使うべきではない。
 宮内庁は、これを公式行事とはしないとする一方、‘天皇即位にとって最も重要な行事’としている。従来行事詳細は公開されなかったが、今回は冒頭の模様を公開すると共に、行事終了後社殿を一定期間公開することとしている。これも恐らく既成事実を積み上げ、国民の目を慣らすためとも見られる。
 しかし天皇が‘国民統合の象徴’でありながら、特定の宗教である神道行事を行い、神話の中の天照大神の子孫である‘存在’として権威付け、神道を普及したいというのであれば、それは天皇による特定の宗教活動となり、憲法に反するものと言えよう。
 また、このような宗教行事を公務員である宮内庁職員が計画、準備し、実施しているのも適切でない。憲法違反に当たる恐れがある。宮司や皇室の使用人が行うべき事であろう。
 更に大嘗祭における神道行事の核心は、‘神話’の世界での神の子孫としての人間、‘存在’を認めるということであり、神道を信じる者にとっては信仰であるので良いとしても、現代社会においては次のような基本的な弊害がある。
(1)これは天皇を神格化し、神道の‘国教化’、権威の絶対化にもつながるもので、現行憲法の規定、精神に反する。
(2)一般国民にとっては非科学的であり、神話は神話でしかない。このような神話信仰が、日本の太古、古代の歴史や日本人の起源などを研究することを妨げているのではないか。古代からの天皇陵を宮内庁の所管の下で閉鎖され、研究のための発掘、調査などが出来ない状態になっており、日本古代史の究明、研究を大きく妨げている。
 天皇陵は、例えば明治天皇陵以前については、すべて宮内庁管理から文化財の形で国有財産として文科省などの管理に移管し、研究目的の発掘、調査は原則許可すべきであろう。

 4、江戸城址内での神道行事や社殿建設は歴史を歪める
 そもそもこのような神道形式の宗教行事を明治以来皇居と称されている江戸城址内で行うべきではない。 大嘗祭のために東御苑に社殿、社屋を建設し、その中で神道行事を行うことは歴史を歪め、踏みにじる行為と言えそうだ。
 明治維新後、旧帝国憲法の下では、天皇を擁する倒幕軍が幕府軍に勝ったので、戦勝者である尊皇派が江戸城址を占拠、使用することは容認されても、旧憲法は廃止となり、新憲法となっている今日、それが引き続き容認されるべきではなかろう。江戸城本丸があった現在の東御苑には、多くの外国人観光客が来ており、観光客の多くは江戸幕府、侍文化を見に来ているので、社殿建設の音はトンチンカン、トンチンカンと聞こえていたのかもしれない。
 新憲法では、天皇は軍の指揮権はもとより、統治権などは無い。その上国の征服者でも支配者でもなく、‘国民統合の象徴’である天皇が、世界に誇れる歴史的な遺産である江戸城址を占有することは、‘倒幕’、幕府体制の抑止・封殺を意味し、尊皇派支配を意味するので、‘国民統合の象徴’としてはふさわしくない。現状では‘分断の象徴’、‘抑圧の象徴’と映ってしまう。
宮内庁が、明治以来皇居と称されているものの、江戸城趾内にあることも歴史を歪め違和感がある。

 5、若い世代の価値観の侵食、崩壊
 今日、若い世代では‘平等’や’自由‘が謳歌され、一部にはそれが行き過ぎて無軌道や身勝手な行動に現れていると見る向きがある。しかし最近若い世代の間では、「生まれで決まるんじゃん」という意識が定着し、「自由、平等」という価値は薄れ、「生まれ」という価値観が強くなっているそうだ。驚きだ。
(1)確かに、新天皇は生まれで決まり、その後継者も皇族の生まれで決まる。新天皇即位をメデイアが報じれば報じるほど、また皇族のご公務と称する行事出席や外国訪問などが報じられれば報じられるほど、「自由、平等」という価値観が潰されていくのかもしれない。政治家も世襲が強い。伝統的な歌舞伎はもとより、芸能界でさえも2世は話題になる。  
憲法では、平等が謳われ、華族制などは否定されているが、現実は「生まれ」がついて回っているのも事実だ。メデイアは関心を引くためそこを強調する場面が多くなっている。若い世代には皇族がその象徴として映るのかもしれない。若い世代の多くの人たちにとっては「生まれ」がついて回り、「自由や平等」は現実のものではなくなっているのかもしれない。
民主主義の根幹である「自由や平等」という価値観が崩れつつあるとすれば深刻だ。現在、日本、そして世界は戦後時代、更に遡ると産業革命以来大きく変化しており、国家システムはじめ諸制度、規則慣行なども変化しなければその潮流に対応できない時期に来ているのではないか。
(2)大嘗祭には「秘儀」とされ、皇后でさえ別室に退き、一切秘密とされる深夜の数時間がある。
 神殿の奥に天皇がみそぎや着替えをする廻立殿(かいりゅうでん)があり、 その更に北側の奥に頓宮があり、その中には神のための布団と枕や靴、服が置かれた寝座が設けられているとさる。天皇はこの頓宮で旧来采女(うねめ)と言われる女官と一夜を過ごすとされている。
 采女(うねめ)は、このために採用される独身女性であり、服装は軽装で、旧来は妻妾の役割を果たしていたと言われ、神事、秘儀の補佐役となる女官である。平成時代まではこのような形が引き継がれていたと見られる。
 今回どのような形で行われたかは明らかではないが、旧来の采女の存在が継承されているとすれば、女性軽視、女性蔑視であり、今日の社会ではあり得ないことであろう。

 このように大嘗祭は現代社会では基本的な問題があるので、伝統文化を維持するということであれば、皇室の私的宗教行事として、公費ではなく、しかるべき形の皇室資金で、また皇室や神道にゆかりのある別の場所で行われるべきであろう。(2019.11.18.)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森友学園公文書改ざん問題、新証拠で再審査か!

2020-05-21 | Weblog
シリーズ本音トークー森友学園公文書改ざん問題、新証拠で再審査か!
 国有土地を常識外の低価格で売却しようとしていた森友学園問題で、公文書の改ざんを実際に行い、自殺した近畿財務局の職員(当時国有財産管理官)の「手記」が同職員妻により公開され、生々しい手記の内容と共に週刊誌が報じた。
遺族側は、改ざんを指示したとされる佐川理財局長(当時)と国(財務省)に対し民事訴訟を起している。民事訴訟に際し、同手記の公開に踏み切ったと思われる。
1、「新証拠」となる改ざん指示を受け自殺した職員の「手記」
同手記によると、森友学園側への超低価格での国有地売却に安倍首相夫人の影響が国会で問題になり、首相がそれを強く否定したことから、超低価格での国有地売却の経緯を記した公文書(本部財務省理財局への超低価格での売却に繋がる報告、申請書類などと思われる)を改ざんすることになった模様であるが、その指示は「すべて、佐川理財局長(当時)の指示」と明記され、また直属の上司である「近畿財務局長に報告したと承知」とも記されていると報じられている。近畿財務局への具体的な指示は本部理財局よりなされたものであろうが、指示は、「資料は最小限にする」、「できるだけ資料は示さない」など詳細で、関連文書の改ざんは佐川理財局長(当時)の指示により組織的に行われたとみられる。
 ‘死人に口なし’とは言われるが、上層部より指示を受け、既に決済された公文書を改ざんした職員が残した「手記」であれば、この事案の「新たな証拠」と言える。
森友学園問題で、不当に安い価格での国有地売却により国に損を掛けた背任の疑いや公文書改ざん、関係文書・資料の保存期限内廃棄等が疑われたが、当時この事件を担当した大阪地検特捜部の女性特捜部長が佐川元理財局長を不起訴としたが、その後間もなく函館地検に転勤となり、昨年末に大阪地検の次席検事に栄転しているようだ。本件は、検察審査会での再審要請についても不起訴とされている。
 改ざんした職員が残した「手記」という新たな証拠が明るみに出た今日、捜査のやり直しが検討されなくてはならない。

 2、財務省の再調査は不可避か!
 この「手記」に関し問われ麻生財務相は、2018年6月に財務省の調査は公表されており、「手記と調査報告書の内容に大きな乖離があると考えていない」と述べ、再調査は今考えていない旨明らかにしている。安倍首相も再調査は必要ないとしている。
 しかし「手記と(財務省)調査報告書の内容に大きな乖離がない」とすると、財務大臣は佐川元理財局長の指示で公文書を改ざんし、多量の関係文書を廃棄させていたことを知っていたことになり、事態は深刻だ。いずれにしても「手記」
が、佐川元理財局長の指示であったこと、及び、関連公文書を改ざんし、本来の文書類が廃棄されていることが明らかになった以上、再調査は不可避のように思われる。

3、公文書の廃棄、改ざんの前例としてはならない森友学園事件
この森友学園事件で公文書の保存期限内廃棄、国会や検察はもとより、マスメデイアやコメンテーター等が改ざんを見過ごしてきたことが、その後の防衛日報の隠蔽、加計学園問題など、更には「桜を見る会」での招待者リストの廃棄、データの破壊等を招いているのではないだろうか。
それをどこかで止めないと、善意の公務員が不正を強いられ、不幸の連鎖が起こることになると共に、公平、公正であるべき正義は守られず、国家機構や民主主義体制自体が劣化する恐れがある。(2020.3.25.)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首相官邸・首相府・総理府、法令遵守崩壊か!?(改訂版)

2020-05-21 | Weblog
シリーズ本音トークー首相官邸・首相府・総理府、法令遵守崩壊か!?(改訂版)
 首相官邸はじめとして政権中枢部局は、森友学園問題での公文書の廃棄、文書の書き換え・改ざんや加計学園問題での縁故者優遇などを背景として、首相主催の「桜を見る会」の招待者リストの廃棄、コンピュータ・データの廃棄、破壊など、行政の公正さ、透明性、そのための検証を確保出来ない状態になってきているように映る。行政官僚は、行政の公正、公平よりは、そのような政権の意向を忖度し、政権の意向を優先するようになる。行政官僚も生活のため、保身に走るのも仕方ないのかも知れないが、一般国民にとっては事態は深刻だ。
そのような行政の信頼性を失わせるような状況で、東京高検の検事長の定年63歳を延長する「閣議決定」がなされた。政府は、上記の閣議決定に先立って、「従来国家公務員法に基づく定年60歳の延長は検察官には適用されない」との解釈を所管の法務大臣が口頭で変更し、当該検事長の定年についても「国家公務員法を適用できる」との解釈を採択していたとされる。
このような中で自・公政権は、国家公務員の定年引き上げ法案と共に、検察庁法改正案を併せて閣議決定し(3月13日)、通常国会も終盤に入った段階で採決をしようとしている。本検察庁改正法案では、検察官の定年を現行の63歳から段階的に65歳に引き上げ、高検検事長や検事正などの幹部は63歳でポストを退く「役職定年」も設け、その後は「特例」で定年延長を最大3年間可能にし、検事総長については「特例」で最長68歳まで延ばすことが可能になるようだ。
 1、検察官の定年延長については、法改訂が不可欠
 検察官も広義では国家公務員ではあるが、時の政権や政党、諸団体、社会等の影響を受けることなく、独立性を保てるよう「検察庁法」が定められている。
 検察庁法は、一般国家公務員と区別し、検察官が時の政権や政党、利益団体の圧力に対抗できるよう、心神喪失等と認められる場合を除き、罷免されないよう法律で保護している。定年についても国家公務員に比し不利とならず、定年延長の判断に左右されないよう、63歳として優遇している。従って、既に保護、優遇されているので、定年延長の規定もない。政権等からの介入を防ぐためでもある。
 定年延長の規定がない以上、検事長を含め検事の定年延長には法律改正が不可欠と言えよう。
 法律を守るべき法務大臣が、検事長の定年延長を‘口頭で了承した’としているようであるが、国民には、「法律でございます、規則でございます」などと言わせておきながら、自らは法律軽視、法律無視であり、言語道断だ。文書による決裁がなされておらず、事務方が文書決裁としなかったのは、文書での決裁には広範な部局の決済が必要であるが、事実上それが不可能であり、事務方が拒んだことを意味するのかも知れない。そうだとすると、事務方にも多少の良心が残っているとも言えるので、救いではあるが、疑義が呈されたときに誰も責任を取らず、‘無かったことにする’ためのこの政権の常套手段と思われ、行政の闇がここまで広がっていると言えよう。法務大臣がこれをやり通したことは、上からの指示で、検察といえども人事に介入するとの政権の意図が見える。
 また定年延長を‘受諾‘し居座っている黒川検事長については、国民に「法律違反の嫌疑を掛ける立場」でありながら、法律違反に当たる定年延長を受けるとは、何と見識の無いことか。その程度の法律の理解では、国民に嫌疑を掛ける資格は全くない。自ら身を引くべきであろう。そうでないと検察当局とは、こんなところかとの印象を国民に与える。
 定年延長自体は、一般国家公務員も65歳定年に向け法改正を行う予定とみられるが、検察官についても検察庁法の改正によって行うベきであろう。それまでは、法律を守るのが当たり前だ。
 この問題をメデイアや言論界が仕方ないとしてやり過ごすとすれば、由々しきことだ。また民間調査・研究機関等も経済問題を含め全く頼りにならない。
 国家公務員の定年引き上げ法案については良いが、検察庁法改正案については、一見、一般国家公務員の定年を65歳に引き上げる国家公務員法改正案と一本化するかたち見えるが、次の通り検事の独立性の確保の上で根本的な問題を抱えている。
(1)検察官は、一般国家公務員と区別し、検察庁法を別途規定して、検察官が時の政権や政党、利益団体等の圧力に対抗できるよう、法律で保護し、定年についても現行法の国家公務員60歳定年に対し63歳として優遇している。検察庁法改正により定年は65歳までとなるが、一般公務員と同様となり保護も「優遇」もされなくなる。更に検事総長や検事長らの検察幹部は63歳で定年となり、その後は1年毎に最大3年間定年延長が可能になるが、「特例規定」により法相または内閣が判断することになり、一般公務員より抑制され、不利になる可能性ある。さらに検事総長については、法相または内閣の判断により最長68歳まで延ばすことが可能となるが、検察幹部は常に法相や内閣の顔色をうかがって仕事しなくてはならない。それでは検察の独立性などないことになる。
(2)首相は、「恣意的判断は入らない」などとしているが、上記の通り、黒川検事長を検察庁法上の規定に従わず、内閣の判断で6ヶ月定年を延長している。これは内閣による行政判断が法律を上回るという法律無視、下克上的姿勢であり、まさに内閣による「恣意的判断」に他ならない。そのような「恣意的判断」をして置きながら、「恣意的判断はしない」と言われても誰も信じないであろう。
(3)法相は、「三権分立に反しない」などと言っているが、訴追をする検察官は行政に属する公務員であり、裁判所の問題ではないので、当たり前のことで、単なる言い逃れとしか聞こえない。しかし検察官は、国民を罪人として訴追する側として、権力のある者にもない者に対しても公正、公平であるべきとの観点から、圧力に屈しないように法律で一定の保護をしている。そのために一般国家公務員法とは別に検察庁法を規定しているのであり、首相側や与党はその趣旨を理解しようとはせず、逆にそれを歪めようとしている。
 政権側の説明は、言行不一致で不誠実であり、連立政権を担っている自民、公明党両党の議員がこれを支持しているとすれば、両党議員も正義からほど遠く、国民の代表として再び国会に送るべきか大いに疑問が残る。

 2、「桜を見る会」など、官邸のコンプライアンス違反の常態化
 「桜を見る会」については、確かに何人招待したかなど、たいした問題でもない。しかし行政当局による招待者リストの棄却、更にコンピュータ・データの消去にとどまらず、データを蓄積している基盤まで破壊したとしていることは、非常に悪質で、深刻だ。これでは政権内で不正が行われていても懸賞不能になる。国民の7割以上が十分説明しているとは思わないとしている。
 その理由が「個人情報保護」、プライバシーなどと主張しているが、全く理由にもならない。首相が国家、国民に貢献し、功績、功労があった者を招待し、労をねぎらうことを目的としており、そうだとすれば招待された者は世の中に大なり小なり知られた方々であろうから、名前や功績の内容、出身地などは既にそれぞれの分野では知られており、その範囲であれば個人情報保やプライバシーを侵害することは一切無いであろう。会の趣旨からして氏名や出身地域などを公表することは何ら問題ない上に、当事者にとっては光栄なことであろう。この会の趣旨にも反する訳の分からない理由に、いわば納得している形のマスコミやコメンテーターと称する人たちは一体何なのであろうか。
 2019年の首相主催「桜を見る会」には約1万8200人もの人が各分野、各都道府県より招待され、5,000万円以上が公費から支出されている。その内山口県については、安倍事務所の推薦で参加した者は何と800名以上にものぼっている。安倍事務所関係だけでそんなに多くの功績、功労者がいるとは考えられないが、山口県の誇りだ、氏名を公表して欲しいものだ。
 しかし公費を使っているので関心もしていられない。5,000万円以上の公費を使っており、予算(毎年1,700万円程度)の3倍前後も使っているのに、精算、決算の裏付けとなる招待者リストも跡形もなく直後に廃棄されているとされているので、内閣府内の精算、決算が如何にずさんかを物語っている。こんなにずさんな形で差額が補填されているとすれば、官房機密費が充てられている可能性もあるが、いずれにしても公費であるので、こんなにずさんに公費が使われるのでは国民としても納得できないであろう。会計検査院や決算委による個別検査が望まれる。費用の根拠となる招待者数、参加者数は、招待者リストに基づくが、招待者数の適否を査定するためには被招待者が、招待されるにふさわしい業績、功労があるかを点検する必要もあろう。それを精算、決算前に資料を消したということになり、とても常識では考えられない。
「安倍晋三後援会 桜を見る会前夜祭」については、2019年4月に某大手ホテルで行われた趣だが、地元の安倍事務所が推薦、斡旋した800人ほどが参加したと伝えられている。会費が1人5,000円とされるが、高級寿司店まで入っている会合であるので、通常は1人15,000円~20,000円内外と予想され、差額1人1万円内外はホテル側が宿泊代から割り引かれたことになる。予算委員会での首相答弁では、安倍事務所がホテル側と話し、そのような取り扱いとし、また会費領収書はホテル側より各参加者に出すことにした旨説明されている。常識的には考えにくい手法だが、もしそのようにされていたとすれば、政治資金規正法の報告義務の悪質な‘脱法行為’と言えよう。こんなことが認められて良いのか。選挙管理委員会は、このようなやり方が適正か否か、見解を出すべきであろう。
 だが、実体的には安倍事務所の要請でホテル側が安倍事務所推薦の参加者に利益便宜がなされたことは明らかだ。宴会場の入り口で会費やご祝儀を受け取ったのは安倍事務所関係者や後援会関係者であろうから、金の授受がなかったとは思えないが、いずれにしても、実体的には安倍事務所の口利きで、各参加者に対し1万円内外の利益が供与されたことになる。またホテルに宿泊しなかった参加者も参加費5,000円とすると差額は誰が支払ったかの問題もある。だから差額はホテル側が持ったとする説明はまずあり得ない。
 また800名内外の参加者がホテルから10台以上のバスを連ねて会場の新宿御苑に向かったとされるが、バスの借り上げ代は誰が払ったのか。まさか各人がバス会社に払ったとはいえないだろう。ここにも安倍事務所の地元参加者への利益供与の可能性がある。
 このような問題を、コロナウイルス肺炎の脅威がある中で、何時までも追求すべきではないとする意見やコメントが聞かれるが、それこそ危険な意見だ。危機を持ち出して、国民を黙らせる手法は、往々にして独裁国家に導く恐れがある。第2次世界大戦もその1例だろう。
 こんなことを何時までも続けていれば、行政システムは適正に維持できないばかりか、良心を持つ有為な人材は確保出来なくなるだろう。新型コロナウイルス肺炎の問題はそれとして緊急に対応しなければならない。今優先して行うべきことは、検査体制の拡充と医療機関受け入れ体制の強化であろう。同時に、この状態で対応に当たっている首相はじめ関係閣僚、事務方、及び与野党議員はじめ関係者の尽力には敬意と感謝の意を表したい。
 しかし行政システムを適正に保ち、健全な民主主義を維持して行くための努力は続けていかなければ、健全な国家、健全な国民生活は維持できない。
(2020.3.10.2020.5.15.一部改訂)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK事業予算、外務省予算を上回るほど必要か??

2020-05-21 | Weblog
シリーズ本音トークーNHK事業予算、外務省予算を上回るほど必要か??
 NHKは、2020年度の事業予算として事業収入7,204億円(内、受信料収入6,974億円)、総事業支出7,353円を国会に提出し、審議されている。7,200億円を超える事業収入がありながら、149億円の赤字計画で、赤字分は1,000億円を超える潤沢な繰り越し余剰金で補填する。
 NHKの総事業支出7,353円は、分かり易い比較では、外務省の2020年度予算7,120 億円を233億円も超える巨大事業となっている。言うまでも無く、外務省は、世界の190を超える諸国、国際機関を相手とする国家事業である。NHKの一定の公共放送は必要と思うが、世界を相手とする外務省予算を233億円も超える事業が必要だろうか。しかも1,000億円を超える繰り越し余剰金が存在する。行き過ぎであろう。
 現在国家、国民が直面する広範囲な困難やニーズを考慮すると共に、家計所得が実質的に減少し、受信料も多くの家庭で負担となっていることを考慮すると、公共放送に必要不可欠な事業規模、従って受信料にすることが時代の要請ではなかろうか。NHKの番組には、公共放送でなくてもよい番組が多く、またその多くは視聴率も低い。
例えばNHKの受信料を総合放送については2分の1に減額し、必要な公共放送を維持する一方、BS放送については暗号化して希望者との個別契約(但し緊急時の放送については契約無くしても受信可能とする)とするなどの抜本的な改革を行うべき時期であろう。いずれにしても、必要最小限の公共放送を維持する一方、国民の負担を軽減することが望ましい。
現在、映像をともなう情報ソースが多様化しており、受信機を持っている個々人全てに総合放送とBS放送双方の受信料支払いを義務付けることは不合理且つ不適切になっている。
 空いた時間やチャンネルは、NHKの関連の子会社が多数育っているので、民間に開放し、公共放送との一貫性や連携を確保しつつ、多様な放送として活用可能であろう。(2020.3.10.)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする