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マイナンバー情報流出の被害者のために賠償制度を!

2022-01-08 | Weblog
シリー平ズ成の本音―マイナンバー情報流出の被害者のために賠償制度を!
 <はじめに>2021年11月10日、新内閣発足に伴い、与党自民党と公明党がマイナンバー普及のため、総額2万円のポイントをそれぞれの段階で付与することで基本合意した。マイナンバーカード実施から6年近くになるが、登録率は未だに40%にも満たない。
 その普及のため、2万円のポイント付与をこの時点で行うことは、この制度自体への国民の理解が進んでおらず、広範囲の個人情報の国家把握、相続税を含む徴税強化、情報流出と悪用、及び煩雑な操作・行政事務などが危惧されていることを如実に示している。行政当局は、その普及のため更に税金を使うのでは無く、税申告を含む広範囲な個人情報を包含するマイナンバーは、制度設計上の誤りであり、国民に理解されていないことをただちに認め、適用範囲を社会福祉関係に限定し、国民の理解を得やすいよう、簡素化することが望ましい。このまま税金を使って奨励・普及することは2重の不効率であると共に、何時起こるかも分からない大災害の時の安否確認や救済・支援には中途半端にしか役だたないこととなるので、早急な対応が必要となっている。大災害は待ってはくれない。

 各種申請や社会保障などに使用される個人番号制(マイナンバー)が10月からスタートし、2016年1月から実施に移される。
 これにより国民のほとんどがマイナンバーを持ち(希望しないものは申請しないで良い)、一つのカードで各種申請や年金、税金の処理等が出来るので便利になる。行政事務処理においても、ほとんどの国民を捕捉出来、税金の徴収漏れなども防げるので便利になる。行政事務の簡素化になると言われているが、新しい制度に当面予算を3,000億円使用することになっており、煩雑な入力作業などが増えるし、旧来の制度は当面残るだろうから、簡素化などにはならないだろう。国民を効率的に捕捉できる膨大な行政システムが構築される。
 しかし利用者側にも行政側にも便利ということは、それを犯罪目的に利用しようとする者にも、マイナンバーには住所、戸籍、生年月日、家族構成、年金事項、銀行口座など重要な個人情報が詰まっているので、情報を入手したら使い勝手が良く、犯罪集団にも便利であろうから、情報保護が最大の課題だ。
 その恐れが現実のものになっている。茨城県取手市や札幌市厚別区でマイナンバーが入った住民票が発給された。住民票の提出先の善意を信じたいところであるが、悪用や再流失等から詐欺等に利用される可能性がある。更に深刻なのは、マイナンバー制度の企画・設計に携わっている厚労省情報政策担当参事官室の室長補佐(事務職)が制度企画・設計入札において受注したIT会社から賄賂を受け取った汚職事件が発生している。マイナンバー制度企画で不正を行ったIT民間会社がマイナンバーの仕様を最もよく知っていることになるので、その仕様が漏れれば犯罪等に悪用される幅が広がり、マイナンバー制度自体の安全性や保秘性が疑わしくなるので、深刻な問題だ。
またマイナンバー制度が実施に移されれば、その情報管理は行政当局が行うとしても、実際の情報処理は外部の民間会社か日本年金機構等と同様、天下りで作る行政法人で行われる可能性が強いので、個人情報が外部に流失する恐れは非常に高くなる。マイナンバーに入れられる情報が財産・口座情報や年金・医療情報、納税情報等と増え、使途が拡大されればされるほど、1億人以上の国民の重要な個人情報が危険に晒されることになる。マイナンバーは、地方自治体にも連結されるので、故意か過失かは別として、情報流失の危険性は更に高まる。
 厚労省の監督下にある日本年金機構でも多数の情報流失が出ており、政府機関による個人情報の流失は現実の問題になっている。マイナンバーについては、使途が複数に亘り、地方当局とも繋がるので、どのように注意していても、情報流失が起こる可能性は高い。それを防ぐためには、使途を限定的にし、外部インターネットと遮断することが必要であろう。
 しかしどのように注意していても情報流失は起こるであろうから、流失を引き起こした行政当局や行政法人等は、責任を認識にし、被害者のマイナンバーの取り消し、再発給等の不利益に対し補償すべきであろう。また情報流失により具体的な被害にあった場合には、関係行政法人を含む行政当局が賠償することが当然ではなかろうか。
 また流失したマイナンバー情報を利用して詐欺等を行って経済的利益を得た個人やグループについては、それぞれの犯罪行為に従って罰せられることになるが、従来中心となっている禁固刑から、利益の3倍以上の罰金を中心とした罰則に転換して行くことが望まれる。経済的利益を目的とした犯罪を抑止し、また被害者の被害を補てんする上でも、高額の罰金を科す方が効果的であろう。現状では罰金が少額過ぎるので、禁固刑を受けても儲かるとの印象を与えてしまい、抑止には余りなっていない。その上、税金で禁固刑中の経費を国民が負担することになり、2重の負担となっているように見える。経済犯には高額の罰金で抑止することがより効果的であろう。
(2015.10.17.,2021.11.11.冒頭追加)(All Rights Reserved.)
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比例代表制、投票に政党名記載強要は憲法違反か!?

2022-01-08 | Weblog
    比例代表制、投票に政党名記載強要は憲法違反か!?
 2021年衆議院選挙が10月31日に実施された。小選挙区制は立候補者名記載で、比例代表制は「政党名」の記載が要請されている。政党名を記載しなければ無効となる。
 1、「政党名」記載は憲法で保障される思想の自由に反する!?
 有権者数は現在約1億6百万人であるが、その内40%~45%は無党派層で推移しており、支持政党が決まっているのは有権者全体の半分程度でしかない。直接選挙では、公認政党や推薦政党・団体などは参考にはするが、各候補者の政策や地域貢献の実績、人柄などを見て判断する。
 他方、比例代表制で政党名を記載しなければ投票は無効となり、有権者が直接選ぶのではなく、各政党が作成する候補者の順位により当選者が決まる。
 無党派層はおおよそ有権者の40%~45%存在し、この比率は時代によりほとんど変わらない。無党派層は無関心層では必ずしもない。意見や自身の考えは持っている。2021年10月の衆議院議員選挙でも投票に行く予定はないとする者が20%程度存在するが、政党支持者の間にも投票に行かない者は少なくない。
 今回の全国の投票率は、小選挙区ベースで53.7%と、戦後3番目の低投票率なった。有権者の46%強が投票していない。多少分析が必要だが、その多くが無党派層とみられる。選ぶ政党がないからだ。
 そもそも与党自民党でさえ党員は110万人程度で、有権者の1%強でしかない。党員数でしっかり固めているのはイデオロギーを信奉している共産党と宗教団体の創価学会を代表する公明党であるが、いずれもイデオロギーや特定宗教を信奉するところで共通しており、国民政党にはなり難い。
 野党では、どの政党も党員は更に少ない。労働組合を支持基盤としている立憲民主党や国民民主党などもあるが、労働組合も多様化しており、野党支持とは限らない。野党全体でも党員・党友数は有権者の数%程度にも満たないだろう。
 このように与野党を問わず党員が広がらない状況で、投票者全員に政党名を記載させるのは実体を反映していない上、無党派層に政党名を記載させるのは無理がある。思想、良心の自由を保障する憲法の精神に反しているようにも見える。
多くの無党派層とっては、投票に行っても支持する政党はないので投票に行かないか、白票、即ち無効票を出すしかなく、比例代表制を含む現行の選挙制度では投票権を行使し難い。

 2、比例代表の実体は、直接選挙で落選した候補の「滑り止め」!
 小選挙区で立候補している多くの候補者は、所属の党比例代表名簿にも記載されており、小選挙区の直接選挙で有権者によって選ばれず落選しても、比例代表で当選するケースも多く、小選挙区選挙の滑り止めになっていることが少なくない。小選挙区で有権者からノーと言われた候補者が別の土俵から議員として再起している。何のための直接投票か、まるでゾンビのようだ。これでは有権者の選択がフェアーな形で反映されない。
 また比例代表制は、小選挙区では当選者を出せない小政党・零細政党が当選者を出せる小政党救済の場となっている。救済の場と言えば聞こえは良いが、多数決で決まる国会では発言力はほとんど無い。小政党が増加して利するのは与党であろう。小政党・零細政党間の喰い合いとなることが多い。共産党については、共産主義イデオロギー信奉者で固められ宗教団体と似ている面があるが、ほとんどの小選挙区で候補者を立てていたので、野党の票を喰い、或いは中道右派層が保守党に向け、野党が伸びない要因となっている。与党保守党にとっては、共産党の存在はいわば保守の守護神となっている。
 無論マイノリテイの声を聞き、多様性を受け入れることは大切なことであるが、衆・参両院で同じような選挙制度を持つ必要は無い。特に予算など優先権がある衆議院では有権者の選択が直接反映される小選挙区のみとし、参議院では多様性を反映させて小選挙区と比例代表の組み合わせとするなど、改善が不可欠なようだ。現在は、参議院は衆議院のクローン、そっくりさんの域を出ない。むしろ全く重複するので、現在のままであれば参議院は廃止しても良い。

 3、政党交付金は党員拡大努力を失わせ、健全な民主主義にとって有害!
 嘗て中選挙区制で選挙に金が掛り過ぎるとの批判があった一方、日本では選挙基盤が固い公明と共産党は別として、党員・党友が広がらなず、また政党への個人の寄付が広がらない風土となっている。他方、企業による政治パーテイ券の割り当てその他の企業献金の横行などへの批判から、国民の税金による政党交付金が実施された。年間総額は320億円に達し、各党に配布され、党から所属議員に配られている。本来であれば、立候補者への選挙資金支援とすべきであったが、いつの間にか政党助成金となり、国民から立候補者への支援では無く、国民は税金を支払うだけで置き去りにされ、政党が所属議員に配るということになり、趣旨が大きくすり替えられている。日本の政党は準公営とも言え、民主主義政党とは言い難い。共産党のみは政党助成金を受け取っておらず、党員の会費・寄付で運営しており、その点では模範的と言えるが、これら資金は党が管理するため中央統制が強くなっている。
 政党助成金についても、所属議員に助成金や支援金を配る党の力が強くなり、党議拘束などによる締め付けが強くなっており、議員は萎縮し、党議に反する言動は少なくなった。それならそんなに多くの議員は必要ない。
 政党助成金の弊害はそれだけでなく、共産党を除き、党が政党助成金にあぐらをかき、党員・党友獲得努力がなくなって来ている。
 他方、経団連は組織的な政治献金を一時控えていたが、それが復活しており、政党助成金の役割は既に終えていると言えよう。
 このように健全な民主主義の発展にとって、政党助成金の弊害は大きく、廃止すべきであろう。選挙費用が掛りすぎるという批判を背景として、中選挙区制から小選挙区制にしているので、立候補の資金面での負担を軽減し、立候補し易くするため、立候補者個人への支援方法を再検討すべき時期に来ている。
 選挙資金などとも関係するが、保守政党の多くの議員が世襲、或いは近親者・縁故者への世襲となっているが、政治への国民の関心や参加を促すため、引退する議員の事務所や残余資金等については、近親者・縁故者が世襲する場合には、国庫に納める、また後援団体を解散するなどの対応が必要なのかもしれない。(2021.11.2.)
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江戸城最古の石垣発掘、内外の人々に公開すべし

2022-01-08 | Weblog
江戸城最古の石垣発掘、内外の人々に公開すべし
 江戸城趾の1 部である東御苑に開設されている三の丸尚蔵館が2019年から拡張工事を行っているところ、2020年11月に「現存する最古とみられる江戸城の石垣」が発掘された。石垣は、同館の建て替え工事実施に伴い、江戸城趾が所在する東京都千代田区が必要な発掘調査を行ったところ発見されたもので、2021年4月13日なって公表された。
 石垣は、地下約7メートルから7段程度積まれており、高さ約4メートル、幅約16メートルのもので、江戸時代初期の1610~1620年ごろに築かれた堀の石垣と推定とすいていされている。石組みは粗く石と石の間に河原石がそのまま使われているなど、荒い作りとなっている。
 千代田区は、関係当局とも協議の上、積み方が弱く、くずれる危険性もあることなどから埋め戻すこととしている。
 1、折角の貴重な歴史的遺跡、展示する方法を検討すべし
 東御苑尚蔵館は、皇室が国に寄贈した美術品などを展示するために1992年(平成4年)9月に建設されたもので、石垣はその拡張工事に伴い発見された。ここは、現在東御苑とよばれているが、江戸城趾の中心部の1角の「3の丸」があった付近である。東御苑のある一帯には、嘗て江戸城の天守閣があり、将軍の居所であり、接見等の場所である本丸のほか、大奥や二の丸、三の丸があったところである。本丸は江戸初期に火災で焼失し、それとは別の二の丸のあった場所に建設され、その後拡張と焼失を繰り返しながら区画を移動した。従って、東御苑として公開されている区画は、江戸城の中心部に当たり、焼失毎に埋め立て、別の区画を拡張するなどを繰り返しているので、地下に貴重な遺跡が残っている可能性が高い。
 宮内庁は、尚蔵館が手狭になったことから新館の建設を提案したが、文化庁(宮田亮平文化庁長官当時)が反対し、立て替え拡張されることになった。幸いなことに、工事前に遺跡の有無の調査が行われ、江戸城最古とみられる石垣が発見されたものだ。
 今回発掘された石垣は、江戸初期のもので当時の情景を残す数少ない遺跡であり、その後の城内の変化発展している様子を見て取ることができるので、適切な防護、安全措置を執り、公開されるべきであろう。折角の貴重な遺跡を埋め戻してしまえば、国民の目に触れることなく、歴史を埋めることになるので適切でない。
 逆に、江戸城にはなじみのない現代の建物である尚蔵館の拡張工事のために、江戸城の最古の石垣を埋め戻すというチグハグさ、歴史的遺跡への過小評価に違和感をおぼえる。
 2、江戸城趾東御苑などの再発掘の良い機会
 今回尚蔵館の拡張工事に際し、発掘調査が行われ、‘たまたま’石垣が見つかったことは幸いであったと言えよう。ということは、少なくても江戸城三の丸周辺では十分な発掘調査が行われていなかったことを物語っている。
 三の丸のある東御苑には、江戸城天守閣をはじめ、本丸や大奥、二の丸、三の丸など、1603年から1868年までの江戸幕府の中枢部分があった歴史的にも文化的にも非常に興味ある遺構である。現在は、天守閣の石垣や二の丸庭園の一部があるのみで、三の丸の尚蔵館など新たに建てられた建物を除き、更地の庭園となっている。公開はされているが、江戸城の面影は天守閣の石垣や二の丸庭園を除き何もない。265年続いた歴代将軍の生活の痕跡がない。江戸城は、内戦を避け英仏列強の介入を避けるため歴史的な無血開城が行われ、第2次世界大戦での米国による直接の爆撃が避けられ、大手門を失っただけであるので、明治維新には、お堀周辺の石垣や門などだけでなく、東御苑となった場所にも歴史的な建物が存在したはずである。
 本丸や大奥、二の丸、三の丸などの建物は、江戸初期から何回も火事に遭い、本丸、二の丸、三の丸へと移動しながら再建、拡張を繰り返し、使われてきたものである。従って、地上にあった建物等が倒壊されたとしても、地下には江戸時代に焼けた建物の一部や土台、礎石、及び生活用具類等の一部がが残っている可能性がある。
 今回、三の丸尚蔵館拡張工事のため、周辺の発掘調査が行われ、予期していなかった江戸城最古の石垣が「たまたま」発見されたことは、これまで三の丸を含め東御苑等の発掘が十分に行われていなかったことを示している。
 江戸城が無血開城された後、明治維新となり明治政府が江戸城の一部を残しで倒壊したが、担当太政官と写真師内田九一が江戸城内を写真撮影し、また内田九一は自らも当時の映像を残している。その写真師内田丸一については、「内田九一の江戸城新発見写真」 展覧会が2020年3月上旬にお茶の水シェイクスピア・ギャラリーで開催されたようだが、コロナウイルス騒ぎの真っ最中であったこともあり、一部の通信社が伝えているのみで余り話題にならなかったようだ。内田丸一は宮内省御用掛の写真師となったが、32歳の若さで亡くなったこともあり、江戸城の写真はほとんど世に出ることはなかった。
 江戸265年の歴史は、庶民文化や商業主義や家内工業的な匠の技術を含む経済・社会が急速に発展し、地方と江戸との各種の交流等を促進させ、良きにつけ悪しきにつけ、多くの分野で今日の日本、そして将来の日本のルーツの1つになっている。因みに、各藩の藩主に江戸詰めを求めた参勤交代は、謀反を起こさせないための制度とか各藩を疲弊させるためのものとかと批判されることが多いが、その面だけで無く、地方と江戸との交流促進や交通通信制度の基礎となった面がある。歴史研究においても江戸城趾の発掘が進めば、多くのことを学ぶことが出来、また内外の人たちの観光資源となることが期待される。
 3、両国の片隅に立つ「江戸博物館」
 両国にある国技館の裏手に「江戸博物館」がある。展示物等に目を見張る物は少なく、下町の庶民生活の様子は暗く狭苦しい。人影もまばらなことが多い。
 江戸城趾の広大な敷地の中に江戸を伝える博物館や展示場は1つもない。江戸の歴史が消されているような印象を受ける。明治以降の治世は第2次世界大戦後、現行憲法の制定をもって終わっている。もはや江戸の歴史を埋める必要はないのではないだろうか。江戸城趾は全国民の、そして恐らく世界の多くの観光客を引きつける歴史的遺跡となろう。(2021.5.14.)
 江戸城趾の1 部である東御苑に開設されている三の丸尚蔵館が2019年から拡張工事を行っているところ、2020年11月に「現存する最古とみられる江戸城の石垣」が発掘された。石垣は、同館の建て替え工事実施に伴い、江戸城趾が所在する東京都千代田区が必要な発掘調査を行ったところ発見されたもので、2021年4月13日なって公表された。
 石垣は、地下約7メートルから7段程度積まれており、高さ約4メートル、幅約16メートルのもので、江戸時代初期の1610~1620年ごろに築かれた堀の石垣と推定とすいていされている。石組みは粗く石と石の間に河原石がそのまま使われているなど、荒い作りとなっている。
 千代田区は、関係当局とも協議の上、積み方が弱く、くずれる危険性もあることなどから埋め戻すこととしている。
 1、折角の貴重な歴史的遺跡、展示する方法を検討すべし
 東御苑尚蔵館は、皇室が国に寄贈した美術品などを展示するために1992年(平成4年)9月に建設されたもので、石垣はその拡張工事に伴い発見された。ここは、現在東御苑とよばれているが、江戸城趾の中心部の1角の「3の丸」があった付近である。東御苑のある一帯には、嘗て江戸城の天守閣があり、将軍の居所であり、接見等の場所である本丸のほか、大奥や二の丸、三の丸があったところである。本丸は江戸初期に火災で焼失し、それとは別の二の丸のあった場所に建設され、その後拡張と焼失を繰り返しながら区画を移動した。従って、東御苑として公開されている区画は、江戸城の中心部に当たり、焼失毎に埋め立て、別の区画を拡張するなどを繰り返しているので、地下に貴重な遺跡が残っている可能性が高い。
 宮内庁は、尚蔵館が手狭になったことから新館の建設を提案したが、文化庁(宮田亮平文化庁長官当時)が反対し、立て替え拡張されることになった。幸いなことに、工事前に遺跡の有無の調査が行われ、江戸城最古とみられる石垣が発見されたものだ。
 今回発掘された石垣は、江戸初期のもので当時の情景を残す数少ない遺跡であり、その後の城内の変化発展している様子を見て取ることができるので、適切な防護、安全措置を執り、公開されるべきであろう。折角の貴重な遺跡を埋め戻してしまえば、国民の目に触れることなく、歴史を埋めることになるので適切でない。
 逆に、江戸城にはなじみのない現代の建物である尚蔵館の拡張工事のために、江戸城の最古の石垣を埋め戻すというチグハグさ、歴史的遺跡への過小評価に違和感をおぼえる。
 2、江戸城趾東御苑などの再発掘の良い機会
 今回尚蔵館の拡張工事に際し、発掘調査が行われ、‘たまたま’石垣が見つかったことは幸いであったと言えよう。ということは、少なくても江戸城三の丸周辺では十分な発掘調査が行われていなかったことを物語っている。
 三の丸のある東御苑には、江戸城天守閣をはじめ、本丸や大奥、二の丸、三の丸など、1603年から1868年までの江戸幕府の中枢部分があった歴史的にも文化的にも非常に興味ある遺構である。現在は、天守閣の石垣や二の丸庭園の一部があるのみで、三の丸の尚蔵館など新たに建てられた建物を除き、更地の庭園となっている。公開はされているが、江戸城の面影は天守閣の石垣や二の丸庭園を除き何もない。265年続いた歴代将軍の生活の痕跡がない。江戸城は、内戦を避け英仏列強の介入を避けるため歴史的な無血開城が行われ、第2次世界大戦での米国による直接の爆撃が避けられ、大手門を失っただけであるので、明治維新には、お堀周辺の石垣や門などだけでなく、東御苑となった場所にも歴史的な建物が存在したはずである。
 本丸や大奥、二の丸、三の丸などの建物は、江戸初期から何回も火事に遭い、本丸、二の丸、三の丸へと移動しながら再建、拡張を繰り返し、使われてきたものである。従って、地上にあった建物等が倒壊されたとしても、地下には江戸時代に焼けた建物の一部や土台、礎石、及び生活用具類等の一部がが残っている可能性がある。
 今回、三の丸尚蔵館拡張工事のため、周辺の発掘調査が行われ、予期していなかった江戸城最古の石垣が「たまたま」発見されたことは、これまで三の丸を含め東御苑等の発掘が十分に行われていなかったことを示している。
 江戸城が無血開城された後、明治維新となり明治政府が江戸城の一部を残しで倒壊したが、担当太政官と写真師内田九一が江戸城内を写真撮影し、また内田九一は自らも当時の映像を残している。その写真師内田丸一については、「内田九一の江戸城新発見写真」 展覧会が2020年3月上旬にお茶の水シェイクスピア・ギャラリーで開催されたようだが、コロナウイルス騒ぎの真っ最中であったこともあり、一部の通信社が伝えているのみで余り話題にならなかったようだ。内田丸一は宮内省御用掛の写真師となったが、32歳の若さで亡くなったこともあり、江戸城の写真はほとんど世に出ることはなかった。
 江戸265年の歴史は、庶民文化や商業主義や家内工業的な匠の技術を含む経済・社会が急速に発展し、地方と江戸との各種の交流等を促進させ、良きにつけ悪しきにつけ、多くの分野で今日の日本、そして将来の日本のルーツの1つになっている。因みに、各藩の藩主に江戸詰めを求めた参勤交代は、謀反を起こさせないための制度とか各藩を疲弊させるためのものとかと批判されることが多いが、その面だけで無く、地方と江戸との交流促進や交通通信制度の基礎となった面がある。歴史研究においても江戸城趾の発掘が進めば、多くのことを学ぶことが出来、また内外の人たちの観光資源となることが期待される。
 3、両国の片隅に立つ「江戸博物館」
 両国にある国技館の裏手に「江戸博物館」がある。展示物等に目を見張る物は少なく、下町の庶民生活の様子は暗く狭苦しい。人影もまばらなことが多い。
 江戸城趾の広大な敷地の中に江戸を伝える博物館や展示場は1つもない。江戸の歴史が消されているような印象を受ける。明治以降の治世は第2次世界大戦後、現行憲法の制定をもって終わっている。もはや江戸の歴史を埋める必要はないのではないだろうか。江戸城趾は全国民の、そして恐らく世界の多くの観光客を引きつける歴史的遺跡となろう。(2021.5.14.)
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‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!! (再掲)

2022-01-08 | Weblog
シリーズ平成の本音―‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!! (再掲)
 2019年4月30日に平成天皇が退位、5月1日の新天皇が即位され、同年10月22日に新天皇の即位を内外に表明する「即位の礼」が実施される。
 新天皇のご即位をお祝いする。しかし戦後の新憲法の下でのあり方には違和感もある。即位の礼についても、詳細は明らかにされていないが、式典に使用される「高御座(たかみくら)」が保管されている京都御所で解体させたうえ東京に輸送された。それだけに掛かる費用が、総重量8トンの解体・輸送経費などで9億円と言われているが、平成天皇同様、新天皇の即位の礼が東京で行われ、江戸城址内にある‘皇居’に住まわれ続けるのであろうか。
 即位の礼は、伝統に基づき、明治天皇はもとより、大正天皇、昭和天皇も京都御所で行われている。天皇は、明治維新後、江戸幕府が無血開城した江戸城内に‘皇居’を新設し、京都御所からそこに移り住まわれている。それは徳川将軍派の再起を封じ込める意味と米欧列強の介入を抑止する上で必要であったと思われる。第2次世界大戦後も、昭和天皇は江戸城址内の皇居に留まった。これは、米国を中心とする連合軍が進駐し、皇居のある江戸城跡内に連合指令本部が置かれることを防ぐためにも止むを得ない措置であったと考えられる。
 昭和天皇崩御後、平成天皇はそれを継承したが、現在は米軍の進駐はもとより考えられず、また国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に留まっている必要はなくなっているのではないだろうか。即位の礼が東京で行われたのは、平成天皇が歴史上唯一の例外となっている。
 むしろ新憲法の下の新時代においては、伝統に沿って天皇は京都御所に復帰され、江戸城址は国民に開放すべきであり、その理由は次の通りである。
 1、歴史上最も平安な現在、天皇が江戸城址に留まる必要はなくなった
 明治維新となり天皇は京都御所から江戸城内に移り住んだが、上記の通り、明治維新直後や戦後直後と異なり、今日国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に陣取っている必要はなくなっていると言えよう。「帝国憲法」が廃止され新憲法となった居る今日でも、江戸城址内に宮内庁が占拠しているのも適切でない。
 新天皇は、歴史に則って京都御所に復帰することが望ましい。天皇が国民統合の象徴であることは認識されているので、京都におられても問題はない。それ以上に関西及び西日本の人々にとっては喜ばしく、誇りにもなることであろう。無論、京都御所には必要な改修等を行った上である。
 天皇のご公務については、憲法上国事行為として10項目掲載されているが、必要な時には東京等、必要な場所に赴くことは交通事情が飛躍的に向上している今日では問題ない。また東京に滞在し、或いは一定の期日東京での公務が必要な時は、赤坂の迎賓館(赤坂離宮)を所定の改築をし、そこで執務、宿泊されればよい。現在赤坂の迎賓館は、年数回しか使用されておらず、著しい無駄になっており、その活用を真剣に考える時期であろう。日本は、少子超高齢化の本格化を迎え、税負担人口が減少する一方、国民総所得の2倍に当たる1,000兆円を超える公的債務を抱え、これが年金支給額の実質削減と並んで国民の将来不安の大きな原因になっている。国家や地方公共団地が無駄な施設や土地を抱えている余裕はなく、無駄を無くしていくことが不可欠になっている。

 2、旧帝国憲法の下での’皇居’の存在は現行憲法の下では時代錯誤
 戦後日本においては、旧帝国憲法に代わり、新憲法が制定され、主権は国民にあり、いわば大政は国民に奉還されているので、国民の偉大な歴史的、文化的遺産である江戸城跡に‘皇居’を置いておく必要性はもはやなく、江戸城址を国民に奉
 3、日本や世界にとっての偉大な歴史遺産、江戸城址は国民に開放すべき
 江戸城を中心とする江戸の人口は、幕府が発足した17世紀初頭には15万人程度と言われているが、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
人口はロンドン(1801年約 86万人)、パリ(同約 54万人)と比較しても世界一の大都市であったと推定されている。文化的にも、参勤交代により地方の文化も持ち込まれ還することが望ましい。それ以上に明治維新は過去のものとなり、天皇専制は終わり新憲法になっても江戸城址を‘皇居’により封じ込めて置くことは不適当とも言える。‘皇居’、‘皇居’と言われ、そのような先入観があるようだが、江戸城址なのである。
 そのようにすることが、日本の歴史に沿うことになると共に、東西の文化的、社会的なバランスが回復し、東西のバランスある発展が望めるのではなかろうか。
、多様性があり、また版画や日本画、歌舞伎、相撲そして魚市場など、欧州でも評価される高い文化が華を開いた。
 その中心が江戸城であり、江戸文化は東京だけの歴史、文化遺産ではなく、日本の、そして世界の文化遺産と言えるので、それを再評価し、人々に開放し、可能な範囲で復元、保存して行くことが望まれる。江戸城址は世界有数の観光資源となるであろう。またそれに関連する城外の江戸時代の遺跡を加えると更に豊かな歴史文化遺産となろう。

 4、首都圏直下地震等の大規模災害等に備え、天皇の京都御所復帰が望ましい
 首都圏直下地震等の大規模災害の発生は現実のものとなりつつあり、各種の、緊急対策が検討されているが、それでも自然災害や何らかの不測の事態が想定の範囲を超える可能性も念頭に入れて置く必要があろう。そのような首都圏緊急事態への対応の一環として、伝統に則り天皇の居所を京都御所に戻しておくことが望ましい。そのような緊急事態の際、立法、行政、司法の政府機能が打撃を受けるが、象徴たる天皇をも巻き込むことを避けるため、皇居の京都御所復帰を真剣に検討すべきであろう。天皇が京都御所に復帰される場合の対応については、上記1.の通りであり、十分対応可能であると共に、江戸城址の国民への開放や赤坂御所の有効活用などの可能性が広がり、有益であろう。
 江戸城址が開放されれば、国民の憩いの場、歴史研究の場や格好の観光スポットとして活用できる以上に、大規模災害時の都民の避難場所となると共に、緊急時総合対策センターとして活用できるように整備して置けば、都心の360度対応可能な緊急センターとして活用も出来る。
東京への一極集中を是正し、地方都市の活性化を図るため、従来型の地方への助成金などでは限界的な効果しか期待できず、もっと抜本的なシステムの転換を図らなければ達成できないことは明らかだ。戦後の歴代政権の施策では地方の活性化を実現出来なかったばかりか、逆に東京への集中を招き、地方の人口減や限界集落の増加が加速していることからも明がだ。抜本的な転換が望まれる。
(2019.5.1.改定、同7.4.補足)
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