街の風景

散歩の時に出会った何気ない風景、手押しポンプ、使われなくなったコンクリート製のゴミ箱、懐かしい洋館付き住宅などなど。

私の昭和20年8月6日…広島市東区牛田

2010-08-06 00:02:35 | 東区牛田

 

その時、私は4歳と7ヶ月と3日でした。

爆心地から3km離れた自宅のちっちゃな防空壕で被爆しました。

4歳ですから、多くの事は覚えていません。

原爆が落ちた瞬間は、ちっちゃな防空壕の入口にいたそうです。

警戒警報が解除になり、防空壕に一緒に逃げ込んでいたお祖母さんに、

壕のそばのイチジクを「取って」とお願いして、

お祖母さんが手を伸ばした瞬間に、

原爆が爆発し、

お祖母さんの後頭部の髪の毛が焼けました。

しかし、お祖母さんは髪の毛が焼けただけで済みました。

私はお祖母さんの影で無事でした。

私とお祖母さんは爆風で再び防空壕に転げ込んだのでしょうが、

思い出せません。

爆風が母屋を突き抜け、

縁側のガラス障子や部屋のふすまなどの建具はすっ飛び、

床の畳はすべて落ち、

天井もすべて落ち、

屋根の瓦は半分ずれ落ちて、

土壁も崩れていました。

この記憶は残っています。

他に、この日の記憶は、

真っ黒な太陽と、現在まで見た事がない真っ赤に燃える大きな大きな太陽です。

真っ黒な太陽は、

黒い雨を降らした雲の向こうの太陽だったのかもしれません。

真っ赤な大きな大きな太陽は、

広島を焼き尽くした炎が太陽を真っ赤にしたのかも知れません。

この、真っ黒な太陽と真っ赤な大きな大きな太陽は目に焼き付き、

頭の中には浮かびますが、

その色を描く事はできません。

6日の記憶はこれだけです。

その日の夜は何処に寝たのか、何を食べたのか、

後にお祖母さんから聞いていていたのに忘れてしまったのか、

全く記憶に有りません。

 

その後の事で忘れていない事があります。

忘れる事が出来ないのは、

歩いて5分ぐらいに所にある公園で、

市内から逃げてきた人達が力尽きて死んだ人を焼く匂いです。

大きな穴を掘り、壊れた家の木などを積んだその上に、

死体をめざしの様に並べ、積み重ねて焼いたそうです。

何日も何日も続きました。

その匂いは今でもすぐに判ります。

人を焼いている臭いだと…。

以上の事以外は、いくら思い出そうとしても、

今はもう出てきません。

 

若い時は、

あの時の事など思い出そうと想った事も有りませんでしたし、

体験を話そうと思った事も有りませんし、

書き残そうとも思った事も有りません。

反核運動、平和活動などにも、

背を向けてきました。

何故かと問われると、説明できません。

しかし、今この歳になって、

この平和は続けなければならないと、強烈に思うようになって来ました。

私の小さな記憶でも伝えなければ、

少しの人にでも伝えなければ、

と言う思いが募っています。

記憶が歪んで薄れて行く前に・・・

と言う事で書きました。

 

 

 

 

 


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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
8月6日 (雷くん)
2010-08-06 06:33:23
 プリンさん、そうでしたか!私の家内は
被爆二世です。結婚する前には、被爆者の
家内のお母さんが、そのことをなかなか
口にされませんでした。ご縁があって
広島に住み始めて、もう34年です。
きょうも暑くなりますね。熱中症に気を
付けましょう。
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Unknown (まみ)
2010-08-07 23:05:53
私は、戦争を知りません。生まれる前の事で・・・。祖父母から話を聞きすごい出来事だったんだと思うだけです。
戦争は嫌です!平和が何より一番いい。あの様な時代に成らない様に願うだけです。
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8月6日 (プリン)
2010-08-08 08:05:06
雷くんさん
古い友達にも話した事は有りません。
一昨日の8月6日は、平和公園から宮島口までのピースウオークでしたが、
私はまだ歩けないのでサポート隊として車で皆さんのお世話をしました。
車でも熱中症になりそうな暑さでした。
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戦争の話 (プリン)
2010-08-08 08:23:40
まみさん
もっと、お祖父さんお祖母さんから話を聞いてあげて下さい。
私も、もっとちゃんと聞いて記憶しておけばよかったと思っています。
そうすれば、もっと早く、もっと多くの人の輪ができて、
平和を願う人が少しでも増えたかもしれません。
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原爆投下 (はっちゃん)
2010-08-08 11:22:45
プリンさん、その時にはまだ生まれていませんが、誰も原爆には、あってはいませんが、祖母や母の話しでは矢賀に住んでいましたので、戸坂に向かう人々は両手を前に突き出した腕から皮膚が垂れたまま、歩いていたと何回も聞かされました。本当に、酷い。主人も被爆二世です。
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被爆 (プリン)
2010-08-08 22:42:54
はっちゃんさん
私の被爆の記憶の中に当日の人間の姿の記憶が有りません。
いくら思い出そうとしても浮かびません。
家の前の道は、壁も建具も吹き飛んだので、庭の防空壕からも見えたはずですが、
市内から避難してきて、歩いている人の姿の記憶が有りません。
一緒に住んでいた母は、二葉の里の西部総軍司令部に勤めていて、
建物の下敷きになり怪我をしてその日には帰って来なかった事も、記憶に有りません。
小さかったので、酷い状態の人の姿を記憶する事が恐ろしくて、受け付けなかったのでしょうか。
酷い原爆被害などを話す事が無い、原爆の無い平和な世界が早く来てほしい。
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おかしい (はっちゃん)
2010-08-09 09:53:22
プリンさん
よく考えてみれば、原爆にあってはいないのに避難の人々の様子はわからないはずですよね。もう二人共いないので確かめようがありません。私の記憶の中で確かな事は府中の川の中洲に遊びに行きたくさんの花が咲いていたので、母に、言えば、中洲で犠牲者を荼毘にされた事。五才ころです。
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被爆した人 (プリン)
2010-08-09 21:54:59
はっちゃんさん
多くの人が、川に入ったりして死んだそうですが、歩ける人は橋を渡り郊外に避難したそうです。
しかし、私はその人たちを見てたが、記憶が無くなっただけだと思います。
大人の人は被爆した人を介抱して、家族に消息を連絡もされたようです。
そんな話を大きくなって聞きました。
牛田では公園で、府中は川の中洲で、市の内外いたる所で犠牲者の荼毘が行われた様です。
犠牲者が多過ぎたのです。
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ツーデー (はっちゃん)
2010-09-23 20:47:29
プリンさん、 皆さんには、本当にご苦労様でした
頑張りましたね。
 昨日は少しのびていましたが、あすは無法松のせっかくウオーク、1日おいて、無法松2日目に、参加の予定ですが、申し込んだ以上、這ってでも、行く気でいます。日帰り強行です。
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