又ライヴでした。今度は鹿島で・・・。
今年6月突然連絡をくれた井上さん・・・。「今よらんねって所で働いてる」
街を活性化する仕事をしているという井上さんとの出会いも凄いものでした。
いつかこの記事を書こうと思ってたんですが、ちょうど、今がその時期のよう
ですので・・・今日はちょっと長くなりますよ。
四年半前、居ても立っても居られずこのブログを始めた。職を失った事よりも壮絶すぎる社長の姿を目の当たりにした私は、今まで味わった事の無いような空虚さを感じながら。
その会社との出会いは今から九年半前にもさかのぼる。まだ子供が小さかった事もあって自分の条件に近い仕事を探していた。そんな折、「あなたにぴったりの仕事があったよ」そう知人から紹介され、面接を受ける事にした。面接はその会社に連絡してからすぐだった。とにかく、即戦力が欲しいらしい。電話の対応で私はそう感じた。
面接の日応接室に通され部屋の中には課長らしき人が座っている。この人がのちに社長になるのだが…「よろしくお願いします。」そう挨拶をして顔を見合わせてお互い絶句してしまった。というのもその課長は私がデパートで社員として働いていた頃に大学生アルバイトとして一緒に仕事した人だったからである。懐かしすぎて話はすでに面接からは少し遠のいていた。仕事の話を少ししてその日はそれで終わった。不思議な再会にまあ、縁があれば仕事出来るだろうと軽くその程度で考えていた。
返事は早かった。「四月十日から仕事に来てください」そう会社の事務員から連絡があり、さっそく仕事に行く事になった。仕事初日、簡単に仕事内容を説明され、職場に通された。7、80名は居ただろうか?だだっ広いフロアの北の窓際の席に案内された。
仕事は二手に分かれていて、一つはCAD部門そしてもう一つは戸籍をデータ化する為の画像処理。私は画像処理を任された。仕事は意外と簡単でただ淡々と画像の汚れを落としていく作業であった。たかが汚れ落としではあったが、古い物になれば文字と汚れが重なり少し技術が必要な時もあり、自分なりに工夫して少しづつ仕事がスピードアップして行く事が面白くなってきていた。次々と仕事をとってくる営業部の戦力は凄かった。「この人はどれだけの仕事をこなすか」いつしか人事を扱う権限は自然と営業部に流れていた。
一年を過ぎた頃、突然課長に呼びだされた。CAD部門が忙しくなってきた為明日からCADに行ってほしいと言われた。不安はあったが戦力を買われた事が嬉しかったので、即座に「いいですよ」と答えた。CADの直属の上司は二十代全般で頭も良くパソコンの事もよく知っていた。しかし愛想もくそも無い。おまけに言い方がツッケンドンで仕事しにくい。そんな上司というか責任者というか。その子に対してCAD部門の人たちは当たり障り無く接していた。そういう事が一番嫌いな私は、腹が立った時は容赦なくその子とぶつかった。そんな事を繰り返す内に私と彼女が段々と仲良くなっていくのを見て他の人たちは不思議そうだった。
二年目を過ぎた頃CADのパートは三人になった。そんな折CADだけ二階から一階に引っ越す事になった。一階の部屋には製本、青焼き、複写をする人たちそして力のある営業部の人たちが居た。二十代の社員の女の子も何人か交えて充実した仕事が出来た。その頃には呑みに行くほど皆仲良くなっていた。しかし、その頃から少しづつ二階に居るパートは少なくなってもきていた。
仲良くなりすぎると聞かなくていい事まで聞こえてくる。当時社長と営業部長の間には深い確執があった。それは、社長と課長は親子でありこのままで行けば、自動的に、のちの社長は子供である課長になる事が納得いかないという面も部長の頭にあったのだろう。確かに社長は”ワンマン”で狭い世界でしか物事を考えようとしない為仕事の幅が広がらないという営業部長の言い分を私も正しいと思っていた。三年目の或る日、女性社員同士のウチワ話が聞こえてきた。営業部を先頭に別会社を作る…。それは別の意味でこの会社の終わりを示す。何故か…営業の顧客を皆持っていくからである。営業部長は最高の会社を作ろうとしている。少しでも役にたちそうな社員、パートは引き抜く事にしていたらしい。CADは人数が少なかったので、当然、私にも話が回ってきた。「私たちと一緒に新しい所で仕事して欲しい」と…。正直迷った。若い少し生意気な口を利くCADの上司は大好きだったし、仕事の面白さが分かってきた頃だったので。あの時のあの内緒話を聞いてなければ…多分。「つぶれるのは時間の問題。社長をギャフンと言わせてやる」嘲るように笑う営業部長の声を聞いて私の気持ちは固まった。ここに残る事にした。たかだかパートではあったが、なんだか自分の事のようにくやしく感じた。とにかく、仕事が出来る分ここでやろうと思った。
変な小細工をするように社員が一ヶ月ずらしては辞めていく。パートも…。ここで仕事をして四年目に入る頃には社員はすっかり総入れ替えの状態になっていた。おかしなもので危機的状況にある時ほど、人と人を結びつける絆は強くなる気がする。残り二年を一緒に仕事をした社員、パートさん…には私も特別な想いがある。辞めていった人たちを恨んでいた訳ではない。そんな権利は私にはない。しかし、多い時で100人ほどのパートを扱う会社だったので、当然ながら引き抜きにあった人たちと色んな所で出会うのである。街で中学校で新会社の前で…私と出会ったその人たちはどうしたか…。よそよそしく気づかないふりをした。一度目があってもだ。堂々としない態度に少々ムカついてこちら側から声をかけるとビクッとする。そんな態度をみる度に終いには気の毒ささえ感じていた。
会社は傾く一方だった。口には出さない社長、課長だったが、社員の入れ替わりの激しさからそう推測するしかなかった。今も仲良くして貰っている古賀さん、原田さん、大曲くんそして、事務の井上さんともそんな中で知り合った。たかが、パートのくせに一部始終を知り長居している私にとって彼女らは何でも話せる心強い仲間だった。
その頃には課長は部長へ昇進していた。そして、何度目かの株主総会であまり時を経たずして部長は肩書き上社長となった。私たちは暗黙の了解で来るべき時が来たんだなと思った。まもなくして、青焼きの仕事は打ち切るとの事でパートさんは全部切られる事になった。営業の人たちも居なくなった。残ったのは事務の井上さんと図面を書いていた私二人になった。
二人になってから何ヶ月経過したかは正直な所覚えていない。しかし、必死でその何ヶ月かを過ごした事は確かだ。何の為になるのか分からないまま…。ボンボンだった社長のあれほどの必死な姿をみれば、本気にならざろうえないだろう。借金取りも来た。でも井上さんと二人だった私に恐怖感はなかった。平和を掲げているこの日本で私はなんか凄いものをみている気がした。しかし、どうする事も出来ない。力があれば…。
この後の事は書かない事にする。会社が終わる日又何処かで会おうと行って彼女とも別れた。握手もせずに「頑張ってください」とだけ言い残して社長と会長と別れた。言いようの無い空しさに襲われた。でも何かが私の中で変わり始めた時期でもあった。何が本当で何が間違いなのかそれはその時々によって変わってくる。しかし、確かな事は私たちはきっと出会うべくして出会っているのである。何かを得る為に…。
今日は私にとって本当に特別なライヴでした!