私の轍 WatashiのWadachi 第12回
教員生活3 平野高校
① 平野高校の立ち位置
大阪府中学校卒業者数は増加の一途を辿り、ために新設校の建設ラッシュが続いた時期があった。通常はその学区内で新設校が一つできるたびに、学区内のポジションが下から一つ上がるというような格差構造があった。新設高校は目標や主観的願望というより、中学校や地元中学生の保護者の意識が、そのような格差を暗黙の内に認めていたといえよう。もちろん、居住区が比較的富裕な保護者が占められている所や、何かしらの特徴を持つ学校は、その格差構造から外れていた。
藤井寺高校勤務は12年の長きにわたっていたので転勤すべき時期に差し掛かってはいた。藤井寺の創設が1974(昭和49)年、平野高校は1980(昭和55)年であり、7学区ではすでに新設校の計画はなくなっていた。さらに、学校用地はひっ迫している状況であるから、大和川の南の平野区の飛び地で隣接の小学校は松原市立という特殊条件であった。転勤時にはすでに8年目を迎えていたが、このようなポジションから、困難校であった。
もちろん、指導力もあり熱心な教員もいたが、腰が引けて転勤を願っていることを公言する教員の存在には驚いた。生徒にいいようになめられ、遊ばれているのに教員の信念として「いつか、あの子らも分ってくれる」と(今度は)高言する教員もいて、そのアンバランスぶりには呆れた。行った年、2年生の担任なり手が不足していたので応じたら「大丈夫か」と心配された。担任になることにしり込みをするなんど私には理解不能だったが、やってみてりかいできなくもない。
学校生活の様子 に驚いて、最初の年の卒業文集に書いた贈る文章がコレ
四(五)字熟語 感想 贈る言葉
今年転勤 初持授業 驚天動地 口 紅妖艶 茶髪脱色 怠学大好 睡眠又好
授業騒然 叱声無視 憤怒爆発 暫時静粛 試験欠点 平気平左 方針変更 少々甘言 時々冗談 空気白白
補充授業 人数少数 就職解禁 又々少数
二学期中間 少々努力 初見是誰 今迄長欠 自縄自縛 未履修目前 残零時間 予想的中 留年確定
冬休課題 皆目無視 増々増加 不認定単位 然祝卒業 摩訶不思議
頑張人生 不撓不屈
君達長所 要領愛嬌 君達不足 誠実努力
苦楽禍福 色々存在 某所再見 乾杯期待
平野分会新聞に出た私の紹介記事 (1987.6.9付)
ようこそ平野へ 腰に 光る除けベルト
着任早々2年9組を担任し、SHRで愛しい生徒諸君から「不二夫―(漫画家の赤塚不二夫のイメージから)早よ終わろうやあ~」、「俺は不二夫とちゃう。タミゾーや」生徒ドワアと爆笑、という日々を送っていらっしゃいますのは赤塚民三先生です。・・中略
学生時代から現在まで一貫していることは大の左きき。・・中略・・〇前校長とは藤井寺時代によく飲みに行って、二人で交代で競い合うように眼鏡を失くした話とか、その武勇伝は枚挙にいとまがありません。ご家族は・・中略・・家事能力抜群! 冷蔵庫の中を見て酒の肴を手早く作る、昔は子供を連れてHRをしたこともあるとか、・・中略・・
腰に光るのは厄除けベルト、旧き良き時代の旧人類中の旧人類にお会いできたという感じで、なぜか私はホッとしました。
② 担任として
授業は結構シンドカッタが、2年時の担任クラスとしてはまずまずであったと思う。文化祭の模擬店は、優秀賞をいただいた。残念ながら2名の退学者を出してしまった。一人は遊ぶ方が好きで、学校生活を真面目に続ける意思にかけていた。もう一人は典型的な不登校で、家庭訪問しても出てこない、何を考えているのかよくわからないままやめてしまった。10年ほどたって、たまたま行った中華料理店で店員をしていた。「ああ、どうも」という程度であったが、それから何回か行ったものだ。ヨカッタ!
3年時は、文理系クラスということで看護師志望の生徒もいたが、2年よりしんどかった。3年になったのだから、今更学校を辞めようなどと考える生徒はいなかったが、こちらの指導が入らない。長欠気味の生徒が多く、手がまわらない。欠席が多すぎるので面談したら、「家は出るのだが、公園でボーとして鳩さんの動きを見ている」と言った生徒に気づいたのは、1学期も半分過ぎており、うかつさに今更のように悔やんだことを思い出す。体育の結果時数オーバーで通常なら留年になるが、多すぎるので、運動場の長距離走で代替してもらえるのに、それも来ず、家庭まで行って無理やり引っ張り出して生徒もいた。
③ 教育相談の取り組み
校内でも、不登校生徒への取り組みは、創立当初より熱心に展開されていたようだ。私の赴任した時には、Y先生が、知り合いになったドクターを定期的に招請しており、研究会が持たれていたので参加させてもらった。これは大阪府の保健事業の一環として行われていたようで、精神科のH医師と保健所のAさんとが、教員の持ち込んだ相談事例に対して指導助言を与えてくれるもので、実践的にも大いに役立った。(後に教育委員会に行ったときの教育相談施策化のイメージは、この時の経験が参考になった)
青年期に好発する統合失調症で精神科に通院している生徒への対応も含めて、生活指導的観点と保健指導的観点の両側面、校内での生徒指導部と保健部の連携が必要であることを教示してもらった。当該生徒の通う病院の主治医と懇談したこともある。
自分なりに保護者啓発が重要と考え、学校新聞に保護者向けの「心の窓」を掲載してH理論をかみ砕いて解説するなどの活動もした。保護者アンケートでは一番好評だったようだ。
④ 教務内規への問題提起
職員会議で論争を挑んだのは、生徒の卒業・進級判定をめぐっての問題で、教務内規の検討にまでつながった。上記漢文擬きにもあげたように、ビックリするような成績で課題も不十分なまま、判定会議の俎上に上がっても、何とか通す傾向が強くあったように思う。留年させても翌年改善が見込めるか?結局退学者を増やすだけではないか?という問いに応えきれないという側面もあるからだ。その代わり、欠席日数、結果時数は厳しく審査する。初めての卒業判定会議に臨んで、一人の生徒の卒業取り消しに反対したのだ。就職も決まっている韓国籍の女子生徒の欠課時数が少しだけ規定オーバーであったと記憶する。留年させればやめてしまうのは確定的だった。せっかく学校斡旋で就職が決まったのに、それをパーにする権限があるのか、と言って粘り勝ちだった。しかし、教務の先生方には、翌年規定そのものの検討をおしつけることになり、恨まれた。
⑤ 1988(昭和63)年 差別落書き教科書放置事件
卒業を目前にした3年生が教科書を整理処分することとした。ただ捨てるのではなく、昔住んでいた小学校区には寄せ屋があることを思い出した。古着や紙くずなどを再利用する、今の言葉ならリサイクルショップだが、教科書がひょっとしたら売れて金になるかもしれないと思ったのである。懐かしい地でもあるし、自転車に教科書を積んで寄せ屋を探したが昔のことでもあり、見つけられなかった。このまま持って帰るのもしゃくなので、どこかに捨てよう、どうせ捨てるなら思い切り悪口を落書きしようと思いついた。熱心な阪神ファンであった彼は、まず巨人の悪口、それもこの年活躍した黒人選手のクロマティの悪口を考えた。「二グロ クソマティ」 クロをクソと表記したのは糞、汚いのイメージだからである。それから、次々悪口を書いていくうち、この近辺にあった同和地区へのマイナスイメージを喚起し、何冊もあった教科書の表・裏表紙に書き付けていった。そのまま放置した場所は、同和地区内の保育所の外壁であった。翌日、登園してきた職員が捨ててある大量の教科書に気が付き、手に取ってみれば、差別の言葉が並んでいる。職員にすれば、当該保育所、同和地区への攻撃と受け取ってもやむを得ない。
当該支部で大問題になり、行為者探しが始まった。府教委には、毎年使用教科書を届け出ることになっており、その組み合わせから、平野高校で使用されているものと判明した。さて、そこからが問題である。府教委は学校に当該学年の入試作文との字体を照合させ、生徒(仮にA君)を特定したのである。それなら、A君の意図や気持ちを調べ指導する必要がある。ところが、同和問題に対しては意見対立が激しく、特に高校は組合が〇党系で、担任が党員、学年主任はこの学校の党員のリーダーであり、適切な聞き取り、指導ができるか府教委や校長は危ぶんだらしい。そこで、学年主任がその任を果たしたという、複雑な、そして問題のある経過をたどった。
私は、当初知らなかった。教頭から相談を受けたのは、職員会議で全体に初めて経緯を報告する直前であった。これはヤバい、関わり方が問題だと思った。教頭が、子どもの書いた文章を見せてくれた。クロマティに始まり書いているうちに、どんどん差別意識が覚醒されていった様子、自分も母子家庭で育ち苦労した話などが綴られていたと思う。職員会議でも一度だけ教頭が読んだ。失礼な言い方だが、平野高校生としてはかなり高い見識、文章力であったように思う。
職員会議では、予想通り猛反発が起こった。入試作文が利用された点(これは後に文部省にも取り上げられ、新聞にも報道された)、担任ぬきの不適切な指導の二点が教頭、校長への攻撃だった。そのうち、「彼らが解放同盟支部とあっている。解放同盟の糾弾を受けたら、灰皿が飛び暴力も受けかねない。八鹿高校では重傷を受けた先生もいる」というあたりまで発言が続いた。こちらもプッツンきてしまった。幸い、同推校からの中高派遣教員もおり、圧倒的少数ながら、議論は続ける、Aの差別行動は、本校の同和教育が計画だけで何も実施されていない点にも責任があることを突き付けることができた。
翌年、とにかく人権教育を始めましょう、という合意をとりつけ、野坂昭如原作「火垂るの墓」の上映と指導HRを行うことができた。マ、当たり障りの少ない妥協の産物の平和教育だが、指導案を私が書いて、一歩でも進めることができた。後に府教委に勤め、その支部の方にあった時、「先生方には、私らの悔しい、哀しい気持ちは分からないでしょうネ」と言われた。
翌年、新1年生の学年生徒指導を担当したが、これがスゴイ。平野区・東住吉区・松原市等の中学校の番長クラスが「集中受験」するという噂を聞いていたが、それに近い顔ぶれだった。一方で、教育委員会指導主事試験を受けるよう勧められたところ合格し、1年の学年主任だった先生も教頭試験に合格した。2年の新主任になった先生かと3人で飲み明かしたが、ぼやかれることしきり・・。
かくて、堺市工4年、藤井寺12年、平野3年の教員生活だった。
教員生活3 平野高校
① 平野高校の立ち位置
大阪府中学校卒業者数は増加の一途を辿り、ために新設校の建設ラッシュが続いた時期があった。通常はその学区内で新設校が一つできるたびに、学区内のポジションが下から一つ上がるというような格差構造があった。新設高校は目標や主観的願望というより、中学校や地元中学生の保護者の意識が、そのような格差を暗黙の内に認めていたといえよう。もちろん、居住区が比較的富裕な保護者が占められている所や、何かしらの特徴を持つ学校は、その格差構造から外れていた。
藤井寺高校勤務は12年の長きにわたっていたので転勤すべき時期に差し掛かってはいた。藤井寺の創設が1974(昭和49)年、平野高校は1980(昭和55)年であり、7学区ではすでに新設校の計画はなくなっていた。さらに、学校用地はひっ迫している状況であるから、大和川の南の平野区の飛び地で隣接の小学校は松原市立という特殊条件であった。転勤時にはすでに8年目を迎えていたが、このようなポジションから、困難校であった。
もちろん、指導力もあり熱心な教員もいたが、腰が引けて転勤を願っていることを公言する教員の存在には驚いた。生徒にいいようになめられ、遊ばれているのに教員の信念として「いつか、あの子らも分ってくれる」と(今度は)高言する教員もいて、そのアンバランスぶりには呆れた。行った年、2年生の担任なり手が不足していたので応じたら「大丈夫か」と心配された。担任になることにしり込みをするなんど私には理解不能だったが、やってみてりかいできなくもない。
学校生活の様子 に驚いて、最初の年の卒業文集に書いた贈る文章がコレ
四(五)字熟語 感想 贈る言葉
今年転勤 初持授業 驚天動地 口 紅妖艶 茶髪脱色 怠学大好 睡眠又好
授業騒然 叱声無視 憤怒爆発 暫時静粛 試験欠点 平気平左 方針変更 少々甘言 時々冗談 空気白白
補充授業 人数少数 就職解禁 又々少数
二学期中間 少々努力 初見是誰 今迄長欠 自縄自縛 未履修目前 残零時間 予想的中 留年確定
冬休課題 皆目無視 増々増加 不認定単位 然祝卒業 摩訶不思議
頑張人生 不撓不屈
君達長所 要領愛嬌 君達不足 誠実努力
苦楽禍福 色々存在 某所再見 乾杯期待
平野分会新聞に出た私の紹介記事 (1987.6.9付)
ようこそ平野へ 腰に 光る除けベルト
着任早々2年9組を担任し、SHRで愛しい生徒諸君から「不二夫―(漫画家の赤塚不二夫のイメージから)早よ終わろうやあ~」、「俺は不二夫とちゃう。タミゾーや」生徒ドワアと爆笑、という日々を送っていらっしゃいますのは赤塚民三先生です。・・中略
学生時代から現在まで一貫していることは大の左きき。・・中略・・〇前校長とは藤井寺時代によく飲みに行って、二人で交代で競い合うように眼鏡を失くした話とか、その武勇伝は枚挙にいとまがありません。ご家族は・・中略・・家事能力抜群! 冷蔵庫の中を見て酒の肴を手早く作る、昔は子供を連れてHRをしたこともあるとか、・・中略・・
腰に光るのは厄除けベルト、旧き良き時代の旧人類中の旧人類にお会いできたという感じで、なぜか私はホッとしました。
② 担任として
授業は結構シンドカッタが、2年時の担任クラスとしてはまずまずであったと思う。文化祭の模擬店は、優秀賞をいただいた。残念ながら2名の退学者を出してしまった。一人は遊ぶ方が好きで、学校生活を真面目に続ける意思にかけていた。もう一人は典型的な不登校で、家庭訪問しても出てこない、何を考えているのかよくわからないままやめてしまった。10年ほどたって、たまたま行った中華料理店で店員をしていた。「ああ、どうも」という程度であったが、それから何回か行ったものだ。ヨカッタ!
3年時は、文理系クラスということで看護師志望の生徒もいたが、2年よりしんどかった。3年になったのだから、今更学校を辞めようなどと考える生徒はいなかったが、こちらの指導が入らない。長欠気味の生徒が多く、手がまわらない。欠席が多すぎるので面談したら、「家は出るのだが、公園でボーとして鳩さんの動きを見ている」と言った生徒に気づいたのは、1学期も半分過ぎており、うかつさに今更のように悔やんだことを思い出す。体育の結果時数オーバーで通常なら留年になるが、多すぎるので、運動場の長距離走で代替してもらえるのに、それも来ず、家庭まで行って無理やり引っ張り出して生徒もいた。
③ 教育相談の取り組み
校内でも、不登校生徒への取り組みは、創立当初より熱心に展開されていたようだ。私の赴任した時には、Y先生が、知り合いになったドクターを定期的に招請しており、研究会が持たれていたので参加させてもらった。これは大阪府の保健事業の一環として行われていたようで、精神科のH医師と保健所のAさんとが、教員の持ち込んだ相談事例に対して指導助言を与えてくれるもので、実践的にも大いに役立った。(後に教育委員会に行ったときの教育相談施策化のイメージは、この時の経験が参考になった)
青年期に好発する統合失調症で精神科に通院している生徒への対応も含めて、生活指導的観点と保健指導的観点の両側面、校内での生徒指導部と保健部の連携が必要であることを教示してもらった。当該生徒の通う病院の主治医と懇談したこともある。
自分なりに保護者啓発が重要と考え、学校新聞に保護者向けの「心の窓」を掲載してH理論をかみ砕いて解説するなどの活動もした。保護者アンケートでは一番好評だったようだ。
④ 教務内規への問題提起
職員会議で論争を挑んだのは、生徒の卒業・進級判定をめぐっての問題で、教務内規の検討にまでつながった。上記漢文擬きにもあげたように、ビックリするような成績で課題も不十分なまま、判定会議の俎上に上がっても、何とか通す傾向が強くあったように思う。留年させても翌年改善が見込めるか?結局退学者を増やすだけではないか?という問いに応えきれないという側面もあるからだ。その代わり、欠席日数、結果時数は厳しく審査する。初めての卒業判定会議に臨んで、一人の生徒の卒業取り消しに反対したのだ。就職も決まっている韓国籍の女子生徒の欠課時数が少しだけ規定オーバーであったと記憶する。留年させればやめてしまうのは確定的だった。せっかく学校斡旋で就職が決まったのに、それをパーにする権限があるのか、と言って粘り勝ちだった。しかし、教務の先生方には、翌年規定そのものの検討をおしつけることになり、恨まれた。
⑤ 1988(昭和63)年 差別落書き教科書放置事件
卒業を目前にした3年生が教科書を整理処分することとした。ただ捨てるのではなく、昔住んでいた小学校区には寄せ屋があることを思い出した。古着や紙くずなどを再利用する、今の言葉ならリサイクルショップだが、教科書がひょっとしたら売れて金になるかもしれないと思ったのである。懐かしい地でもあるし、自転車に教科書を積んで寄せ屋を探したが昔のことでもあり、見つけられなかった。このまま持って帰るのもしゃくなので、どこかに捨てよう、どうせ捨てるなら思い切り悪口を落書きしようと思いついた。熱心な阪神ファンであった彼は、まず巨人の悪口、それもこの年活躍した黒人選手のクロマティの悪口を考えた。「二グロ クソマティ」 クロをクソと表記したのは糞、汚いのイメージだからである。それから、次々悪口を書いていくうち、この近辺にあった同和地区へのマイナスイメージを喚起し、何冊もあった教科書の表・裏表紙に書き付けていった。そのまま放置した場所は、同和地区内の保育所の外壁であった。翌日、登園してきた職員が捨ててある大量の教科書に気が付き、手に取ってみれば、差別の言葉が並んでいる。職員にすれば、当該保育所、同和地区への攻撃と受け取ってもやむを得ない。
当該支部で大問題になり、行為者探しが始まった。府教委には、毎年使用教科書を届け出ることになっており、その組み合わせから、平野高校で使用されているものと判明した。さて、そこからが問題である。府教委は学校に当該学年の入試作文との字体を照合させ、生徒(仮にA君)を特定したのである。それなら、A君の意図や気持ちを調べ指導する必要がある。ところが、同和問題に対しては意見対立が激しく、特に高校は組合が〇党系で、担任が党員、学年主任はこの学校の党員のリーダーであり、適切な聞き取り、指導ができるか府教委や校長は危ぶんだらしい。そこで、学年主任がその任を果たしたという、複雑な、そして問題のある経過をたどった。
私は、当初知らなかった。教頭から相談を受けたのは、職員会議で全体に初めて経緯を報告する直前であった。これはヤバい、関わり方が問題だと思った。教頭が、子どもの書いた文章を見せてくれた。クロマティに始まり書いているうちに、どんどん差別意識が覚醒されていった様子、自分も母子家庭で育ち苦労した話などが綴られていたと思う。職員会議でも一度だけ教頭が読んだ。失礼な言い方だが、平野高校生としてはかなり高い見識、文章力であったように思う。
職員会議では、予想通り猛反発が起こった。入試作文が利用された点(これは後に文部省にも取り上げられ、新聞にも報道された)、担任ぬきの不適切な指導の二点が教頭、校長への攻撃だった。そのうち、「彼らが解放同盟支部とあっている。解放同盟の糾弾を受けたら、灰皿が飛び暴力も受けかねない。八鹿高校では重傷を受けた先生もいる」というあたりまで発言が続いた。こちらもプッツンきてしまった。幸い、同推校からの中高派遣教員もおり、圧倒的少数ながら、議論は続ける、Aの差別行動は、本校の同和教育が計画だけで何も実施されていない点にも責任があることを突き付けることができた。
翌年、とにかく人権教育を始めましょう、という合意をとりつけ、野坂昭如原作「火垂るの墓」の上映と指導HRを行うことができた。マ、当たり障りの少ない妥協の産物の平和教育だが、指導案を私が書いて、一歩でも進めることができた。後に府教委に勤め、その支部の方にあった時、「先生方には、私らの悔しい、哀しい気持ちは分からないでしょうネ」と言われた。
翌年、新1年生の学年生徒指導を担当したが、これがスゴイ。平野区・東住吉区・松原市等の中学校の番長クラスが「集中受験」するという噂を聞いていたが、それに近い顔ぶれだった。一方で、教育委員会指導主事試験を受けるよう勧められたところ合格し、1年の学年主任だった先生も教頭試験に合格した。2年の新主任になった先生かと3人で飲み明かしたが、ぼやかれることしきり・・。
かくて、堺市工4年、藤井寺12年、平野3年の教員生活だった。
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