眺める空に描くもの

高齢者女子のおひとりさま暮らしノート

闘った42日間

2024-12-31 19:00:02 | 闘病記
今日の空。
あさ空は今日も雨でした。
次第に晴れて、雲が海のように泡立って広がっているのが
とてもきれいです。




2024年最後の投稿になりました。

8月から再開したブログ。肩のちからを抜いてテキトーをモットーに
毎日、アップすることだけを目標にしてしまったので、大した中身も
ありませんが、毎日、書き続けることだけは実現できたかなと。
ご訪問いただいたすべてのみなさまに心から感謝申し上げます。

今年、最大のできごとは、やはり、がんの手術でした。
こういう病気については、どのようにして発見となったかが
興味深いかと思いますので、書いておこうと思ってはいたのですが、
かなりの修羅場だったので、なかなか書けないままに日が過ぎて。
手術後半年が過ぎましたので、書きとめておこうと思います。
出血等の話しがありますので、苦手な方はスルーしていただければ。

そもそも、がんかもしれない腫瘍があることはすでにわかっていました。
触診で自分でもわかる場所にあったので、本来はがん検診を受ける
べきだとわかってはいたのですが、1回目のがん手術のあと、今後、
もう一度、がんになるようなことがあれば、今度は治療はしないと
いう強い決意があったので、放置していたのです。
手術や治療の大変さ、経済的なことも含めて、家族のいない私には、
「闘う」気持ちが欠けていて、治療はせずに余命を受け入れたいと。
そんな風に思っていた私に、四の五の言わせず、手術させることに
なったのが、腫瘍の暴走でした。

今年に入ってから、腫瘍がとても大きくなって来て、さすがに、その
大きさに「まずい」という気持ちがありました。このままでは、皮膚を
破って飛び出して来るのではないか。おそらく、そうなったら、切除
しないと、腫瘍を隠して仕事をすることはできないだろうと。
うまく行けば、体中にがんが広がって、治療はできずにそのまま死ぬことは
できるだろうけれど、腫瘍の暴走で死ぬより前に、切除しないと生活その
ものができないというのは、どうにもうまくない。想定外になってしまう。

さすがにどうしたらいいのかと日々、冷や汗ものでしたが、だれにも相談も
できないし(相談すれば、手術をすすめられるのは間違いないので)、
もう、自分で何もする気がないなら、運を天に任せるしかないという気持ちで
日々は経過していきました。

そんな4月の末。自宅にいた夜に、自分から血が出ていることに
気がついて、さすがに驚きました。ふつうの血とは少し違って、少し水けが
多い血がぽたぽたと流れていて、最初は出血点がどこからかがわからず、
必死で探してみると、自分では目視しにくい部分から出血していて、
それがおそらく腫瘍が皮膚から飛び出したということなのだろうと
理解しました。厚手のタオルで出血を止めましたが、出血が多く、身体が
がくがく震えてしまい、なかなか震えが止まらず。

ようやく震えが止まったので、ネットで病院検索。一応の目星だけは
つけていたのですが、どの病院にするか、迷いつつ。やはり、症例が
多い専門病院が対応も早いのではないかと思い、翌朝、予約を取って
病院へ。患者さんの数が多くて驚きました。こんなに同病の方が
多いんだなあと改めて。

正直に言うと、外来のときの対応はあまりよい印象は受けずで。
もう出血が多くて血まみれになっていて、私としてはすぐに処置を
していただきたかったのですが。がんの検査はしていただいたものの、
出血については傷口のかさぶたの役目をしてくれるクリームが出ただけ。
痛みもひどいのに、ガーゼ等も自分で買って、自分でケアしてくださいと
言われ、少々、茫然。がん検査の結果も5月中旬にならないと出ないので、
それまでは、クリームひとつだけの処置。それもクリームすくない(ケチ?)。
いやいや、痛みもひどいし、こんなに出血しているのに、何の対策も
できないまま、半月以上も待たされるのかと。ため息でした。

もちろん、積極的に延命したいと思っているわけではないのですが、
出血が多いのが、とにかく困る。思いついて、母の介護で使っていた
おむつ用のパッドがあったので、それで、出血している個所を押さえて
会社に出勤しましたが、厚手のおむつでももれてしまうほどの出血。
それと、痛み。もう、仕事をふつうにすることができないほどの痛みで
のたうちまわりそう。見かねた隣席のAちゃんが頭痛持ちなので、
自分が処方されている痛み止めを分けてくれたので、それを飲んで仕事。
痛みは当然、出て来るものだという自覚はあったのですが、出血に
こんなに悩まされるとは思いもよらず。止まる気配は一切なく。
毎日、ちょっと油断すると、血がぽたぽたと落ちてしまうので、家中が
なんだか血まみれで、掃除してもきれいにならず。
拭いてもきれいにならないカーペットは思い切って捨てたほどでした。

検査結果が出るまでは、病院に行く必要はないとのことだったのですが、
クリームも足りないし、痛みどめもいただきたいので、こちらから、
また、予約を取って行くと、「何しに来た?」的な看護師さん。
なるほど、こういう症例では自力ケアしかできないってことなんですねと
理解したものの、一応、また、診ていただくと、前回よりも傷口が
かなり大きくなってしまっていて、「これはちょっとかわいそう」と、
言ってくださったのが、のちのち、私の手術を担当してくださった
外科医のナカタニ先生(仮)だったのでした。

なんとか、先生が結果を出してもらうのを早めてくださったものの、
今の状態は崩壊寸前とのこと。薄皮一枚で耐えている状態なので、
これが耐えられなくなって、一瞬で崩壊すると、大量出血となって、
「確実に死に至ります。救急車を呼んでください。ただ、うちは夜間に
外科医はいませんので、別の病院に運んでもらって対応してもらって
ください」とのこと。なーるほど。状況はわからなくはない。
つまり、そういう状態になったら、死ねるってことなんだなと。
それは私にとってはありがたい状況だけど、そうはならない気がする。
なんてことは、口にはしませんでしたけれど、会社でそういう非常事態に
なるようなことだけは絶対に避けたいという気持ちでした。
会社でそんなことになったら、ご迷惑でしかないですものね。いやはや。

といった経緯で、結果は5月上旬に出ましたが、想像どおりというか、
当然のように腫瘍はがんとの診断。切除手術をすることを提案して
いただきました。私としては想定通りで、何も驚くことはありません。
手術拒否なんて、考えることはなかったのは、とにかく出血と痛みを止める
には、切除していただくしかないと自分で思っていたので、「早く切って
ください」という気持ちになっていたのです。

ただ、手術がすぐにということではないのが、かなり辛かった。
それから、通院で手術前の検査を重ねて行ったのですが、出血が止まる
ことはなく、「腫瘍が全部、外に出ちゃうんじゃないの?」と思う
ほどの出血量。それだけ血が出ていたら、次第に体力は激減して、
39度以上の高熱が出て、立ち上がることもできなくなって、3日間、
何も食べられず、寝ていたという日も。買い物にも行けないし、料理を
作る気力もないし。やはり、ひとり暮らしでこういった緊急事態への
対処は高齢になると、なかなか大変だなと思い知りました。
最初のがんのときは、こういったことはなく、すぐに入院でしたので、
逆にここまでの大変さはなかったのですが。

ただ、もともとは体力がある方でしたので、ふらふらになりながらも、
手術前の検査には通い、なんとかこなして手術に備えて行きました。
手術も6月中旬予定でしたが、私の状態が悪いので、ナカタニ先生が
早めてくださって、6月の初旬に入院することになりました。
実に出血がはじまってから42日目での入院でした。
42日間の出血との闘い。通勤、通院で本当に修羅場な毎日をよくぞ、
ひとりで闘い抜いたなあと、自分におつかれさまな気持ちでした。

手術自体も大変ではあったのですが、入院前の42日間の闘いの方が
本当に修羅場だったと思います。毎日、毎日、出血と痛みとの闘い。
そして、大量出血=死亡の危険との共存。
思い返してもこの人生で難易度の高いものだったかなと。

最初のがんのあとは、父のがんの看病、母の認知症の介護と続き、
あのときも本当に大変でしたけれど、私には乗り越えられる力が
あるからこその、神からの試練なのかなと思う一年でした。

いや、でも、もういいでしょう(笑)
これからは安穏と暮らすんだーっという決意あります。

おなかの足しにもならないお話にお付き合いいただいて
ありがとうございました。
どうか、みなさまもご健康に気を付けてよいお年を
お迎えくださいますように。
ご訪問ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

夕日も拝む人として生きていきます(笑)




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